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丁寧生活28日目 「楽をすること」=「幸せ」ではない


最近、丁寧生活チャレンジを始めた頃の意気込みが
薄れてきている、と感じる一日でした。

料理も、洗いものも、ふと気が付けば、
日常の動作が、以前と同じ流れ作業的になっているのです。

物音に対する意識も落ち気味です。


息子の学習に付き添うのも、「丁寧」とは言えない。


やりたいことがたくさんあるから、

「スペックを上げる、工夫を凝らす」
といった気付きを得たのに

もっと多くのことをできるように実践できていない。

記事を書くにも、深い気付きに至っていないこともあり
書くことがややしんどくなり、
なんとか絞り出すような状況でした。


丁寧さを忘れないように、気付いたらすぐ掃除&整理
ということは、なんとか続けていますが

でも、

「昨日あんなにやったし、今日はいいか」

「こうも毎日子供に手を焼いていたら、こんな気持ちになっても仕方ない」

「ああ、身近に尊敬できる師匠のような人がいてくれたら」

「これもやって、あれもやって、こんな状況で、さらにそれをやるなんて。。。無理じゃない?」

「こんなこと続けてても本当に意味があるかな。。。?」

そんな言葉が、度々心に浮かんできていることに気付きました。

妥協
気を抜く
手を抜く
言い訳
自己正当化
あきらめ


これらはすべて、自分を良くない意味で甘やかし

「楽をする」方向へと流されてしまうもの。


「楽をしたい」という本能の衝動によって
これらを受け入れたくなって

自分を納得させるのに都合の良い情報を
どうにか探し出そうとし始めます。


「別に、そんなに高い境地を目指さなくても」

「そこまでやってたら、睡眠不足になって明日辛くなるよ」

「誰も褒めてくれないし」

「そんなにストイックにならなくても」


そんな言葉で自分を納得させて、楽をし始めるとどうなるか?

肉体的に、顕在意識的に、一時的に
解放されたような心持ちにはなれます。

でも、心の奥底では、ちっとも幸せを感じていないのです。

続けられない自分

手を抜く、気を抜く自分

言い訳している自分

必死に正当化している自分

あきらめている自分



そういう部分を見るほどに、ネガティブな気持ちになります。

「そんな自分を認めてあげることも大事だよ」

という言葉でごまかしてきましたが
いや、それも確かなことなんですが、でもそれは


魂の喜びにはつながらない。


最初の頃の、丁寧な動作に真剣に意識を向けていたとき

ハラを決めて、徹底的に、心を込めて掃除をしているとき

息子に手を焼いてもあきらめずに、
一生懸命彼のペースに付き合ってあげて教え、理解してもらえたとき

夫に口答えしたくなるのをぐっとこらえて、最後まで話を聞いたとき

料理する時、雑念を振り払って、一つ一つの素材と向き合ったとき


これらのどの瞬間も、後味も、とても清々しくて
心があたたかくなるのです。


それがわかっているのに、「楽をしたくなる」のは

丁寧に向き合うことに対して「ハラを決める」プロセスに
抵抗を感じてしまうから。

「ハラを決めて」しまえば、
全力を出して取り組み、清々しい気持ちになれる。


意識しないと、全力を出さずに「省エネ」を選んでしまう。

(以前、小田真嘉さんの講座で教わったのを思い出しました!)

その性質を、きちんと理解しておかないといけない。


省エネで、まんべんなく物事をこなせても
心は満たされない。


楽して 
効率良く 
時間短縮 
手間暇かけない


今までは、そういうことが幸せの要素だと信じられてきたし、
私も疑うことはありませんでした。


でも、そこから得られる幸せは、
浅くて、表面的で、一時的。


手間暇かけてこそ

時間をかけてこそ

苦労を伴ってこそ

効率が伴わなくても


それ故に味わえる幸せは、

心を深く満たしてくれます。

魂の喜びにつながります。


効率とスピード重視の今までの社会では
認められない、重宝されない価値観でした。


でも、withコロナのこれからの時代は
こういう価値観が見直されていくのでしょうね。


最後までお読みくださり、ありがとうございます!


これを読んでくださったあなたが、
温かな光に包まれて、
毎日を送ることができますように。


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