甘えるということ

初めての投稿がなんだか堅苦しくて恐縮だが、今、数珠つなぎのように気付きがあったので記録として残しておこうと思う。
あ。そうそう。
普段、気付きはインスタに投稿していたのだけれど、インスタとの付き合い方がどうもしっくり来なくなってしまって、色々な媒体を使い分けてみることにした。
気付き系の投稿は文字数も多いし、noteだと淡々と文章を書ける気がして、使ってみる。

さて。
表題にある「甘える」ということ。
私は意識上では「甘えられない」タイプ。
でも無意識上ではめちゃめちゃ「甘えてる」タイプ。
今回はどちらがいいとか悪いとか、「甘えましょう」とかそんな話をしたいわけじゃない。
今日私が感じたことには。
甘える≒心が自由になること
なのではないかな?と。
誰かや何かに気を使ったり、立場をわきまえたり、関係性が云々とか、見られ方を気にするとか、そんなこと全く気にもとめず、振る舞いたいように振る舞う、言いたいことを言う、そんな事が出来ている時、相手に対して究極に「甘えている」状態なのではないのかな?と思ったのだ。
こんな風に振る舞うために、私自身には一つとても大切な条件があった。
それは、
自分の居場所(絶対に安心安全な核となる場所)を作るということ。
別に家庭環境がどうだとか、職場がどうだとかそういうことではなく。
あくまで個人の意識上の問題だから、自分の居場所が「誰かといること」かもしれないし、「一人になれる場所」なのかもしない。自分が心から(思考ではなく)安心安全を感じられる場所は誰かのエピソードを参考にはできない。自分で見つけるしかないのだ。
そういう意味では現代社会に生まれてよかったなと思う。きっとマンモスのいるような時代とかだったら、どんなに探しても安心安全な場所はなかったはず…(雨風しのぐ家も怪しいし、野生動物に命が狙われるかもしれないし、家族や身近な人のそばが必ずしも安心安全かはわからないし(私は元々顔色伺いすぎるタイプで人の側だと心からの安心は感じづらいのです))

話がそれたけど、自分の核となる場所があるからこそ、心が自由になれる。だからこそ、誰かに対しても甘えられる。
そんなことをふと感じた今日。
甘えるって悪いことみたいに言われがちだけど、きっと、本当の意味で(心から)甘えるってとっても難しいことなのかもしれない…

ここまで書いて思うけど、
無意識の甘えと意図した甘えにも大きな違いがありそう…
そんな気付き

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