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連載小説『五月雨の彼女』(5)

 あのクリスマスイブ、倫史のりふみは私の家族と、私と過ごすことよりも、目の前にいる未知華と過ごすことを選んだ。
 私の前では決して口に出さない娘のためのプレゼントを彼女に選ばせて、クリスマスイブに事前に予約していたホテルのレストランで口説くところまで、あの人は予定にいれていたのだろう。
 あの日の朝、「食事会の始まる午後五時までには加賀原家を訪れる」という倫史の言葉を信じ、ひとりあの家に乗り込んでいった自分が馬鹿らしい。倫史が加賀原と全く関係のないところで、気に入った女と楽しく時を過ごしていたことを想像すると、膝の上に置いたハンドバッグの持ち手を握る拳に力が入る。

「一応聞いておきたいんだけど、娘さんと息子さんって、あんたとの子? クリスマスプレゼントを一緒に選んだのに、クリスマスを家族と過ごす気配がなかったし、先月は息子の誕生日って言ってたけど、やっぱり家でパーティーをしたなんて聞かなかったから」

「……倫史さんは再婚なの。娘さんと息子さんは、前の奥様との子どもよ。今はお母様と一緒に暮らしているはず。そういう話、あの人から聞いていない? 私は、そんな贈り物をしていることも知らなかったから、あの人とお子さんのことは、あなたの方がよく知っているんじゃないかしら」

「嫌ぁね。そんなことは、妻のあんたが把握してなさいよ。あの人が自分から話すこと以外、愛人がわざわざ家庭事情を根掘り葉掘り聞いたりしないわ。会える時間が限られてるのに、そんな野暮な話してたら、時間がもったいないじゃない。私はあの人といられたなら、ただ触れあって愛し合いたいだけ。それだけよ」

『ただ触れあって愛し合いたいだけ』
 未知華は、悪びれもせず、嘘のない言葉を素直に告白する少女のようにそう言って、私に真っ直ぐと視線を向けた。胸中を見抜くようなその炯眼けいがんに、私は一瞬たじろいでしまう。

「あの人を……、倫史さんを、愛しているの?」
 自然と、私はそう尋ねていた。

「そうね。愛しているわ。あの人が私を愛するのと同じくらいには」

「……倫史さんがあなたを愛しているなんて、どうして分かるの?」

「そんなの簡単よ。お互いの心臓の音を確かめればいいの。肌を合わせれば、お互いの鼓動が良く聞こえるでしょ。そのリズムが同じなら、同じだけときめいて、同じだけ幸せを感じているということよ。言葉を交わさなくてもわかることって、愛し合っていればあるでしょう?」
 
 まるで倫史との艶事を想起したように、未知華がどこか遠くを見つめながら喫茶店のガラス窓にそっと触れると、その婀娜あだっぽい仕草に突然胸が沸き返るのを感じた。
 怒りに震え、逆上のぼせるのとは違う。ひやりと冷たくなっていた指先にまで血が巡り出し、まるで初めての恋を知り涙が込み上げてくるような、そんな迫るような感動に襲われた。
 
 自分の夫とのねんごろな仲を彼女の口から聞かされて、ここは私が大きなショックを受けて怒るところでしょう? 気持ち悪いと思うところでしょう? 
 そう自分に言い聞かせても、湧いてくるものは怒りではなかった。
 私が一瞬でも、未知華の横顔の美しさに心を奪われてしまったからだろうか。そんなことで、私はここまで溜めてきた怒りを放棄してしまったのだろうか。この店へ来て、彼女と話し始めるとすぐに腹の底からむかむかしていたではないか。彼女と倫史が一緒にクリスマスイヴを過ごしたと聞いて、眩暈めまいがするほど衝撃を受けたではないか。
 なのに、なぜ──。

 ふと、私の知っている倫史の温度が身体に蘇った。
 私が知っている倫史の温度。それは、脱ぎ棄てられた温い靴下、彼がボタンをはずして受け取る汗と湿気を含んだ生暖かいワイシャツ、帰って来て託される冷えた車のキー、出張に出掛けた週末の冷ややかなベッドのシーツ。

 私の触覚に、倫史の肌の温度も、固さも柔らかさも、直接感じた記憶はなかった。記憶に残っているのは、どれもこれも彼の抜け殻に残されたわずかな気配ばかりだ。
 私たちは決められた結婚だったけれど、結婚したばかりの頃は互いの肌や体温を感じ、これからの人生を一緒に進もうと気持ちを確かめ合っていた。けれど、もう何年も、お互いの温度を、鼓動を、気持ちを分かち合ったことなどない。

 夫として妻として、互いに加賀原家での役割を全うしてきたつもりだったが、肉体の老化と体面に気を取られている内に、肝心の中身が形骸けいがい化していた。
 今もどこか私を馬鹿にしているような態度の未知華に対しても、私を裏切り、クリスマスイヴにあの家で私を守ってくれなかった倫史に対しても、私は「なぜこんな目に」と思わずにはいられない。けれど、未知華の語る倫史との逢瀬は、私にとって「知らない誰か」の私小説に感じてしまう部分がある。未知華の横顔に激しく胸打たれたのは、「誰か」を愛する彼女に、とても深い憧れを抱いてしまったからなのかもしれない。

(つづく)

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