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【短編小説】桜の花びらの下には(4)最終回

 それは、「河合宗次郎さんは」で書き始めなかった唯一の原稿用紙だった。

『私は、河合宗次郎さんを今でも愛しています』。

 そこに書かれた私の言葉は、あの人の手紙に応えるように私の元にやって来た。

「私たち、毎年同じ桜の花を見て、毎日同じ珈琲を飲んでいれば、それだけでふたりの心がひとつに溶け合って、陳腐な言葉で気持ちを確かめ合う必要なんてないと思っていたけれど、やっぱり言葉は必要だったのかもしれないわ。あなたに、ちゃんと言葉で伝えていればよかった」

『大丈夫だよ。ちゃんと分かっているよ』

「でも、なんだかこの桜の樹の近くにあなたがいる気がするの。姿は見えなくても、春になればあなたが帰ってくる気がする」

『うん。ちゃんと帰って来たよ』

「宗次郎さん、私はあなたを心から愛していました。そして、これからもきっと変わらず愛し続けるわ。当分の間、忘れられそうにないの」

『僕も愛しているよ。これからも、君を見守っている』

「私、こんなに寂しくて、これからひとりで生きて行けるか不安になるわ」

『大丈夫。君は生きていける。だって、僕の愛した人だから』

「けれど私、ちゃんと生きて、あなたに伝えていなかった気持ちを言葉にしていきます。これからも変わらず、書き続けていくわ」

『ありがとう。それでこそ、美津子さんだ』

「ありがとう。宗次郎さん」

 私がそう呟くと、桜の枝はするりと身体を滑らせて、窓の外へと帰っていった。

「高牧先生、急にどうされたんですか⁉」

 一時間後、部屋に戻ってきた酒井梢が、扉を開けた途端に高い声を出した。
 それはそうか。この一年の間、ろくに部屋掃除もしなかった女が、散々撒き散らかしていた原稿をちまちまと集めて片付け始めているのだ。

 床から原稿用紙を取り除いていくと、降り積もった雪から掘り起こされたように鮮やかなコバルトブルーが再び顔を出す。
 果たされなかった約束を象徴するこの美しい絨毯も、今では私への愛をあの人が伝えてくれているようだ。
 あの人が遺した手紙の言葉は、私が見まいと隠していたもの全ての意味を変えてしまった。

 これから、あの人と過ごしたこの部屋を、あの頃の姿に戻そうと思う。
 散らばった原稿を片付けて、雪の欠片(かけら)のように部屋に残った桜の花びらも全て拾い集めて、その下に眠るあの人との思い出を全て取り戻すのだ。
 
 そして、全てが片付いたら、このコバルトブルーの絨毯の海の上で「愛してる」を伝えよう。イタリアに行かなくとも、ここで十分だ。
 きっと、あの人は私の声に応えてくれるだろう。それが言葉でなくとも、私はそれを聴き逃すまい。
 
 満開の桜だけが、今年も私たちの姿を見守っている。
 私たちの関係に名前が付かなくとも、この桜の樹だけは永遠に私たちの全てを知っている。

(了)


 
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