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連載小説『五月雨の彼女』(13)

「じゃあ、そろそろ行くわ。この後、新しいところで仕事なの。まだ話があるんなら、またあの弁護士を通してでも連絡よこして」
 
 未知華は、左腕に光る華奢きゃしゃなシルバーの腕時計を覗き込んで時刻を確認すると、少し声を抑えてそう言った。隣の親子連れの会話を邪魔しないよう、気を遣っているようだ。
 私もジャケットの袖を少しまくって腕時計を見ると、時刻は午後二時を過ぎたところだった。
 
「待って。まだ倫史のりふみさんとのこと、話し終えてないわ」
 私も大きな声にならないよう気を付けながら、自分の頼んだ紅茶の伝票を確認しながら財布を取り出す未知華を引き留める。
 
「あんたが聞きたいのは、『倫史さんと別れる』って言葉でしょ。安心して。あんたの弁護士から連絡をもらう前に、もう関係は終わってるわ。無論、私から振ったけどね」
 
「え、どうして?」
 二人の関係が終わっていると聞いて、安堵あんどするよりも先にその事実に驚いた。しかも、未知華から別れを切り出したという。
 倫史の愛を得ることが彼女の心を満たすことだと考えていた私は、妻としてというよりも、ひとりの女として彼女の選択の理由に興味を抱いてしまう。
 
 未知華は、女学生の友達に彼と別れた理由を聞くみたいに目を大きくして尋ねた私に、片方の口角を上げて「ふっ」と笑うと、こう答えた。
 
「私と倫史さんがよく熱海に旅行に行ってたこと、もう知ってるでしょ? 私、週末にふたりだけの時間を過ごすために私を連れて行ってくれてたんだって、ずっとそう信じてた。でも、あの人、私を抱きしめながら寝言で別の女の名前を呼んだのよ。いつも同じ旅館の同じ部屋を予約するから、昔からいる仲居にこっそりこの部屋にどんな理由があるのか聞いてみたの。そしたら、『新婚旅行で奥様といらしていただいてから、長年ご愛顧いだいています』だって。頭にきちゃう」
 
「寝言で言っていた名前って……」
 
「『リエ』よ。残念ながら、あんたの名前でもないわ」
 
 ああ、やっぱり。未知華の口から「リエ」という名が出る前から予感があった。
 私と倫史の新婚旅行は、熱海ではない。私たちが結婚して初めての旅行は、一週間のイタリア旅行だった。
 倫史と熱海に新婚旅行へ行ったのは、前妻の利惠さんだ。
 ふたりが別れたのは、夫婦関係がうまくくいかなかったためだと聞いていた。けれど、倫史にとって利惠との離婚は望んだものでなく、今も忘れられずにいるということか。今もなお、元妻と過ごした時間を大事に抱えたまま、別の女を連れ添って愛し合った時間を思い出していたということか。
 週末の「出張」から帰宅した倫史の充足感のある表情を思い返すと、妙に納得がいった。
 
「私、誰かの代わりになんてなりたくないの。だから、これから先もあの人とは二度と会うことはないわ」
 
 未知華は、はっきりと告げる。
 彼女の瞳の奥の冷たさに触れた瞬間、私に「自分の存在を知らしめるようにサインを出したこと」は、彼女なりの別れの合図だったのだと直感した。
 
 私が倫史の浮気を確信したのは、ひと月よりも少し前。いつものように週末の出張から帰った倫史を玄関で迎えた時、ムスクの香水のような官能的で甘い香りが鼻を突いた。「今回の出張も疲れたよ」と言う彼の声には明るさがあり、「そうですか。大変でしたね」と言いながら私が彼の脱いだワイシャツを受け取ると、彼の首の真裏、ちょうど首の付根あたりに小さな赤いあざを見つけた。
 それまで、倫史の女の影に気付かなかった……、いや、大して彼の行動に関心を持っていなかった私も、はっきりとした「印」を目の前に突き付けられ、この時ばかりはすぐに弁護士の染谷氏に連絡を取ったのだった。
 
「なぜ、最初から言ってくれなかったの? そうすれば、わざわざ手を回して、仕事を止めさせることなんてしなかった。……倫史さんもきっと、あなたが突然辞めて変に思ったでしょう?」
 
「今更、いい顔しなくてもいいわよ。『元』でも愛人だった女が旦那と同じ職場にいるなんて嫌でしょう? あんたがそうしたかったなら、私はそれでいい。倫史さんも、ただ派遣の契約期間が終わっただけだって、そう思ってるわ。別れた女になんて、『リエ』の代わりになれない女になんて、あの人は興味ないのよ」
 
 未知華はそう言って苦笑いしてから、「あんたに対しても、そうでしょう?」とでも言いたげに、私の瞳に視線を送った。
 そう。倫史の私に対する態度は、現在も何ら変わりない。私が倫史と未知華の関係を知ったことも、不倫相手の未知華に接触したことも、倫史は全く気付いていないかの如く、いつもと同じように生活を送り、私のことも「加賀原の娘」、「自分を支えるための妻」として扱うだけだ。もし、私が倫史の浮気を知ったとしても、「加賀原」という看板の下、体裁や世間体を一番に優先させ、急に騒ぎ立てて離婚を迫らないことを、彼は確信しているのかもしれない。
 
「でも、あなたはさっき、倫史さんを愛していると言っていたわ。本当に、もう未練はないの?」
 
「だから、言ったでしょう? 『あの人が私を愛するのと同じくらいには』って。私、与えてもらった分しか愛を返したくないのよ」
 
 私がした質問に、未知華はイエスともノーとも答えなかった。
 未知華の声は、どこか乾いて、ひりついている。ついさっきまで、「あの人といられたなら、ただ触れあって愛し合いたいだけ」と倫史との艶事を見せつけるように私を挑発していた未知華とは、まるで別人だ。倫史に対する私怨しえんさえ感じる。
 
 これまで彼女は、私がぶつけた非難や職場を追い出すように仕向けた行動を全く気にしていない素振そぶりを見せていたが、きっと私の行動や言葉のひとつひとつが彼女の内側をじりじりと焼き付けてきたはずだ。愛という水があれば、その痛みを我慢できたのだろうが、その水を供給できなければ乾ききって干からびてしまうだろう。

──未知華の心は今、真の水を与えなかった倫史を憎みながら、悲鳴を上げている。
 私は、そんな気がしてならなかった。
 
(つづく)

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