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【短編小説】明けない夜に

 冬の長い夜が好きだ。 
 辺りが暗くれば、まばらに歩く人々も、自然と目の前の安全に気を配り、誰も私の顔を見なくなる。誰かが近くを通りかかったとしても、きっと私がどこの誰だかわからない。
 夜風が吹くと、そこに混じった誰かのため息にほっとして、私も紛れて息を吐く。
 寿司屋の古ぼけた看板が、いつものように切れそうな蛍光灯をちらつかせ、家に帰ってこられたことに安堵した。

 テレビをつけると、二時間映画の本編が終わり、次週放送予定の映画予告が賑やかに流れている。夜は本来、闇の世界であるが、現代人はスイッチ一つで手に入る明るい世界を手に入れた。スマートフォンの先では、二十四時間、どこかの国が朝を迎えている。

「雫さん、ちゃんと帰れた?」
 スマートフォンの画面に受信したメッセージが、ぽんっと浮かぶ。
 先ほどまで一緒に食事をしていた光琉からのものだ。
「さっきの話だけど……」
 それ以上メッセージが届く前に、画面を伏せた。

 どうしたらいい。私は、どうすればいい──?

 数時間前、二人で仕事終わりに電車で東京から鎌倉へ向かい、観光客のほとんどいない静かな町を歩いて、隠れ家のような古民家のイタリアンレストランを見つけた。
「雫さん、何がいい? ワインと……、ここはピザが評判みたい」
 光琉はメニューを開きながら、トマトソースの上でモッツアレラチーズがとろけている窯焼きピザの写真を指さす。
「ピザ、美味しそう。マルゲリータと、何かもうひとつ頼もうか」
「いいね。この生ハムとルッコラのは、どう?」
「うんうん、いいね。生ハムも好き」
「俺も。じゃあ、このふたつにしよう」
 赤ワインをグラスで二人分と、ピザを二種類、それから前菜として鎌倉野菜のオリジナルサラダを頼んだ。
「今日はビールじゃなくて良かったの?」
 金曜の夜に居酒屋でなくイタリアン、ビールでなくワインというのは珍しいことだった。
 そういえば、金曜の夜に鎌倉まで来るなんて、初めてのことだ。

 光琉と出会ったのは、新橋駅近くにある居酒屋。お互いに仕事帰りの一人飲みだった。
 毎週通っていると、狭いカウンター席で居合わせる客の顔は自然と覚えてしまう。彼と居合わせた五回目の金曜の夜、光琉は隣の席に座った。
「……あの、この店、よく来るんですか?」
 昔のドラマで聞いたことのあるような台詞が、左隣りから聞こえた。一瞬、自分に話しかけられているのか理解できずに、思わず右隣を覗いたが、隣の中年男性はそのまた隣の連れの男性と焼き鳥を片手にサッカーワールドカップの話題で盛り上がっている。
「え? ええ」
 ひとまず、笑顔で返してみる。相手はどう見ても、就職して間もないという十は若い男の子。「大人の余裕」というものを即席で顔に張り付けた。
「この近くにお勤めなんですか?」
「ええ。あなたも?」
「はい。まだ、就職して半年も経ってないですけど」
「そうなのね。どんなお仕事を? ……って、金曜の夜にする話じゃないわね」
「いえ……。あの、むしろ、こっちが聞きたいくらいで。もし良かったら、あなたの仕事の話を聞かせてくれませんか?」
「……私の仕事の話? なぜそんな話が聞きたいの?」
「俺、まだほんと慣れないっていうか、社会人っていうのになりきれなくて。だから、色んな人から話を聞いているんです」
「社会人ね……。でも、私もなりきれているかと聞かれたら、分からないわ。きっと一人ひとり、なりたいイメージが違うものでしょ?」
 その日から、毎週金曜日には光琉とこの店で話すようになった。こういう言い方をすると、さも恋が始まりそうにも聞こえるが、私たち二人は恋人というよりも先輩と後輩、姉と弟のようなものだった。きっと、誰が見てもそう思うだろう。

「あ!」
 二枚目の生ハムとルッコラのピザを半分程食べ終えたところで、光琉が突然声を上げた。
「いきなり、一体どうしたの?」
「しまった! 絶対、選択間違えた!」
「何を間違えたの?」
「ピザ! ここは、生ハムじゃなくて、『しらす』だったよ、絶対!」
「何で? 生ハムのも美味しいじゃない」
「だよね、美味しいよね。雫さん、好きだもんね。だけど、ここは絶対『しらす』だったんだよ」
「だから、何でよ」
「だって、ここは鎌倉だよ? 『海街ダイアリー』の映画、好きなんでしょ? せっかく予習してきたのに、うっかりしてたー!」
「わざわざ観てきたの?」
「うん」
「もしかして、だから鎌倉に行こうなんて言い出した?」
「……はい」
 飲み慣れていない赤ワインが回っているのか、俯く光琉の顔がいつもより赤い。
「あはははは」
 久しぶりに大きく口を開けて、笑った。自分のためにこうして鎌倉まで連れてきてくれたことが嬉しくて、少し照れた彼の姿が愛おしくて、涙を流して笑ってしまった。仕事で誰かに何かを求められることはあっても、こうして誰かに無償の優しさを差し出してもらえる喜びなど、とうの昔に忘れていた。
「光琉くん、ありがとう。こんなに笑ったの、久しぶり」
「……じゃあ、嬉しい?」
「うん。とっても嬉しい」
「そっか。だったら、良かった」
 光琉はやっと笑顔を見せた。

 食事を終えて店を出ると、空の高いところに明るい上弦の月があった。
 月を見上げながら、ワインと嬉しさで紅潮した頬を冷まして歩いていると、少し後ろを歩いていた光琉が私のジャケットの裾を軽く掴んだ。
「……どうしたの? 酔って気持ち悪い?」
 そう尋ねると、光琉は顔を左右に振る。外灯の下で、彼の瞳が私の瞳をとらえた。
「好きです、雫さん」
 突然の言葉に、その意味を頭の処理が追いつかない。
「俺、昨日初めて、一人で契約取ったんです。やっと少しだけ、雫さんに近づけたんです。だから、今日告白しようって決めたんです」
「……」
「雫さんは、覚えてないかもしれないけど、俺は雫さんに一度救われているんです。五月のまだ研修期間中だった頃、営業の現場に入って、とにかくお客様に頭を下げてばかりいました。相手と初めて会った時の挨拶も、取引先との電話でも、身に覚えのないクレームでも、とにかく頭を下げる毎日でした。そのうち、何を仕事としているのかも分からなくなって、自分が何か悪いことをしているような気にもなって、感情がなくなっていったんです。そんなある日、仕事でミスをして、顧客に謝罪に行かせてもらいました。その時、担当者として対応してくれたのが雫さんだったんです」
 彼の話を聞きながら、窓ガラスから注ぐ長閑な春の陽ざしとは対照的に、深いお辞儀をしながら必死に謝罪を続けた青年の姿がぼんやりと思い出される。
「その時、雫さんは明るい声でこう言ってくれたんです。『こちらで調整できそうなので大丈夫です。それより、今日はいいお天気ですよ』って。『どうして、怒らないんですか?』って聞いたら、『商品が完成したら、あなたも大切なお客様の一人だから。それに、何事も時代とともに変化していくから、うまくいくって信じていた方が気が楽でいられるんです。だから、あなたも前を向いてください』って。雫さんのおかげで、俺は今日まで生きてこられたんです」
 あの日の青白い顔をした青年と、今、目の前にいる光琉が、ようやく重なった。印象がだいぶ違うので気付かなかったが、確かにあの青年は光琉だった。
「俺じゃ、だめですか?」
 何と返したら良いのか、言葉の整理がつかない。若さというのは、時々、暴力的だ。眩しすぎて、目を向けていられない。
 私はその場から走り去ると、ちょうどホームに滑り込んだJR横須賀線の上り電車に乗り込み、そのまま北へと一人で帰ってしまった。


 
 リビングのテーブルの上で、今度はスマートフォンから着信のメロディーが流れる。
 メロディーが切れるまで、二度目までは無視したが、三度目に鳴った時、ようやくスマートフォンを拾い上げることができた。

「……もしもし」
「ああ、良かった! ちゃんと生きてた! もう家に着いた?」
「……うん」
「安心した」
「……ごめんね」

 私は、冬の長い夜が好きだ。藍色の帳がずっと降りていてくれたら、この静けさを守ることができるのに。
 朝日は眩しくて、全てが露わにされてしまうような気がしてしまう。夜が明けるのが、時々怖くなる。
 まだ、朝日は見たくない。できることなら、次の夜がやって来るまで眠っていたい。

 けれど……。

 もし、このまま夜の間あなたと話を続けていけば、朝を迎えることが怖くなくなる日が来るのかもしれない。

(了)


(3,434字)

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