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連載小説『五月雨の彼女』(10)

「何だか楽しそうね。私の苦しむ顔が見られて嬉しい?」
 私は、未知華の目を見て尋ねた。
 
「嫌ぁね。だから、苛めたいなんて思ってないって言ってんじゃない。私はただ苦しんでる顔が見られて喜んでるんじゃないの。何もかも『自分が正しい』みたいな顔をして倫理を説いてたあんたが、私を憎もうとしていることが嬉しいのよ」
 
「……どういう意味? よく分からないわ」
 
「分からない? あんたは初めから、私と『倫理』の世界でしか話をしてないの。あんたみたいな奥さんはいつもそう。旦那に裏切られて死ぬほどくやしいのに、私みたいな愛人のことも心の底から恨んでいるのに、『倫理』でしか私たちを非難できないの。いつだって白と黒しか選択肢がないものの中で『白』の方、他の誰からも誉められる『正解』だけを選んでいるでしょう。そんな女たちの『正解』を打ち砕けた時、私はとっても嬉しいの。『誰かの正しさ』なんかじゃなくて、自分の素直な感情を私に見せつけてくれるその瞬間が、たまらなく好きだわ」
 
「倫理は、誰もが大切にする価値基準のひとつよ。本当なら、そこから罪悪感のひとつでも感じてほしいくらいだけれど。あなたの中では、それは重要ではないのね」
 
「本当に、あんたは倫理だとか、そんな他人が決めた答えでいいの? その地味な服も似合ってない化粧も、気持ち悪い作り笑いも、みんなどうせ倫史さんの言いなりなんでしょう。あんたは、子どもの時からそうよ。誰かの答えに乗っかって、それが『正しい』って顔して、それでいて相手から見放されたら『相手が悪い』って思ってるんでしょう。男なんて、妻を自分の都合のいいように家に収めておきたいだけよ。本当は、自分で手綱の握れない見た目が好みの女をどうしても手に入れたくなるの。どうしてそれが分からないの? 浮気されたくないなら、旦那に口ごたえのひとつでもしなさいよ。どうしてそうしないの? だから、男が簡単に逃げていくのよ」
 
「……あなたのお母さんみたいに?」
 
 未知華は、一度は嫉妬で紅潮した私の顔が冷静さを取り戻していくと、それを見てあせるように言葉を畳みかけ、苛立ちを見せていた。しかし、最後の私の言葉を聞くと口をつぐみ身体を固める。
 
「私、あなたが転校する前日、机の中に残した手紙のことを思い出したの」
 
「……何のことよ。そんなもの、知らないわ」
 
「あんな手紙を書くのは、あなたしかいないわ。あの手紙でも、人の真似ばかりしてって私に怒っていた。自分で何も選んでいないのに、幸せそうで大嫌いって書いてあった。私が大嫌いということも、自分で決められずいつも誰かに従ってばかりの私にいきどおっていたことも、文面と字面からよく伝わったわ。けれど、あの手紙を読んだ時、なぜかあなたがとても悲しい気持ちで書いたんじゃないかって思ったの。本当は、あの時のあなたは泣きたかったんじゃんないの? ご両親が離婚することになって……、お父様が突然姿を消してしまって、何もできなかった自分に怒っていたんじゃないの? 本当に嫌いなのは、自分だったんじゃないの?」
 
「何言ってんのよ……」
 
「なぜ、あなたは倫史のりふみさんを選んだの? 本当に愛していたから? あなたが本当に探しているのは、私みたいな妻の方なんじゃない? 倫理や誰かの『正解』を打ち砕いた時に喜びを感じるのは、私みたいな妻にお母様を重ねているからじゃないの? 子どものあなたは、家庭の崩壊を止めることができなかった。私の知っているあなたのお母様は、とても優しくて控え目な人だったけれど、それをどこかで恨んでいたんじゃない? お母様がもっとちゃんと意思を伝えて、自分で選択できる人だったなら、お父様は離れていかなかったんじゃないかって今でも責めているんじゃないの?」
 
「うるさい!!」
 
 未知華は、グラスに残っていた氷の解け切った水を、びしゃっと私にっ掛けた。
 前髪はぺちゃんと潰れ、そこから膝の上においた革のハンドバッグに水が滴り落ちている。
 
「……勝手なこと言わないで。母さんのこと、何も知らないくせに! 母さんは十分頑張ってたわよ。闘ってたわ、最期まで……。あの時代に、母親がひとりで子育てする苦労なんて、ずっと金持ちのあんたになんか、絶対に分かんないわ! 母さんを侮辱しないで!」
 
 今まで私をからかうことを楽しむ余裕さえあった未知華が、初めて感情的になった。私は、このタイミングを逃してはならないと、水を拭うことさえせず、私をにらみつける彼女から目をらさないまま口を開いた。
 
「……それじゃあ、どうして? 私の素直な感情を見るために、わざと悪態をついたり、刺激するようなことを言って倫理を打ち砕きたかったんでしょう」
 
「そんなの、立派な妻面するあんたがむかつくからに決まってんじゃない。あんたが嫌いだからよ!」
 
「私が嫌いなことは分かってる。だけど、私の感情を出させたいって……、それって、私を変えたいって言っていることにもならない? 確かに、私がこれまで自分で選んだことなんてほんの一握りだけれど、それって苦しいの。いつも誰かに型からはみ出ないように見張られてるみたいで、間違えたら罰が与えられるんじゃないかって思うくらいに、とっても息苦しくて、恵まれている環境にいるはずなのに辛いの。自由に言葉を吐いて感情を出していいなんて、私みたいな人間には夢みたいなことなのよ。本当は、私みたいな女を責めているけれど、救いたいと思っているんじゃないの?」
 
「ばっかじゃないの!? 私はあんたの悔しがる顔がみたいだけよ。旦那の愛人に侮辱されて喜んでるなんて、変態じゃない!?」
 
「……それじゃあ、何であなたは泣いているの?」
 
 未知華は、私の目の前で、赤く腫らせた両目から二すじの川を流していた。

(つづく)

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