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連載小説『五月雨の彼女』(4)

 私が倫史と結婚したのは、十年前。私が三十歳を迎えた年だった。
 当時、私は法学系の大学院の博士課程を修了した後、大学で研究員として仕事をしていたが、父はこの歳まで結婚もせずマイナーな外国法研究にいそしむ私をうとみ、ある日、私よりも十三歳年上の倫史との見合い話を持ち出してきた。
 この頃の倫史は離婚したばかりで、前妻との間にいた二人の子どもも母方に引き取られており、父は不憫ふびんな男と思ったようだ。

  叔母の加寿子は、「兄さんも、何もそんなに年上のバツイチ男と結婚させなくてもね」と私に同情したが、父に逆らえる者は誰もおらず、私も例外ではなかった。
 後に叔母から聞いた話だが、当時、倫史の両親が関東地方の複数の拠点で展開していたデイサービス事業が運営の危機に瀕しており、父は介護事業を行う子会社を通じてM&Aを持ち掛けていたという。当初、倫史の両親は利益重視型の経営方針に応諾しなかったが、「そちらの息子を私の娘と結婚させて介護事業を行う子会社の株式を持たせ、ひいては福祉事業に限らず、加賀原グループの主要事業に携わり社会貢献を存分に行ってもらうのはどうか」という父からの提案に、ついには首を縦に振った。

  父が福祉事業に力を入れ出したのは、母が亡くなったすぐ後からだ。
「人に恨まれるようなことをせず、より良い社会にするために生きてください」という母の遺言に応えるように、父は赤字に傾きかけた保育や介護等の福祉事業を主とする会社を見つけては、加賀原グループの関連会社に組み込むようになった。
 時には、加賀原家の個人が株主の大半を占める資本金が一千万円に満たない子会社が、父の一声に従い「救済」という名の買収を行った。しかし、これまでの株式取得に関する全ての行為が、本当に「より良い社会にするための行い」であるといえるかどうかは定かではない。

  倫史は、表向きは理解のある夫であり、自身も勤務する加賀原グループの社長の娘である私を無下にしたりはしない。しかし、私のクローゼットの中身が黒と紺色の洋服で満たされ、アクセサリーも母から譲り受けた真珠のネックレスと一粒石のダイヤモンドのネックレスのみであるのは、「妻は影の存在であれ」という倫史の信念によるものだ。スマートフォンを持参している昨今、外出を制限されたりはしないが、生前の母と自分の窮屈な姿が重なり、父に呪いのような遺言を残した母に対して「私に同じ道を歩ませたかったのか」と悪感情を抱かずにはいられなかった。

 

 「倫史さん、来られなくて残念だったわね。瑠璃加ちゃんも、ひとりだと寂しいでしょう。せめて、子どもがいればねえ」

  中々食事が進まず、ワイングラスに入ったミネラルウォーターを乾いた喉に流し込んでいると、向かいの席に座る一真の妻の沙苗が話しかけてきた。
 沙苗は私よりも四つ年下だが、義姉という立場を強調するため、わざわざ私のことを「瑠璃加ちゃん」と呼び、嫁としての務めは果たしたと、恵まれた二人の子どもを見せつけて大きな顔をしている。

 「あきらくんも、由梨ちゃんも、また一年で大きくなりましたね。聡くんは、今年小学校に入学して、もう生活には慣れました?」

  沙苗の嫌味を無視し、私は笑顔を作ったまま彼女の愛する子どもの話にすり替える。
 沙苗が私に嫌味を言ってくるのは、たいてい兄が私を庇ったり、何かを手助けした時だ。彼女は兄にべた惚れで、実の妹でさえ兄の優しさを受け取ることを許さない。もちろん、兄本人には不満を言わず、優しさを与えられたものに彼女はささやかな報復を行うだけだ。

 「おかげさまで。聡は学年でもトップの成績なのよ。一真さんに似て優しい子だし、自慢の子だわ。子どもの成長って、見ているのが本当に楽しくて幸せなの。瑠璃加ちゃんも、子どもを考えているなら一刻も早く行動するべきよ。あ、でも倫史さんはもうお子さんは十分なのかしら。あちらのお子さんたちは、おいくつでしたっけ」

  かぼちゃのポタージュを啜りながら話しているにも関わらず、沙苗の唇からは汁が飛び出すこともなく、よく舌が回っている。どうやら、まだ私に対する報復は気が済んでいないらしい。

 「さあ。前妻との子のことは、私はよく知りませんけれど、もう上の女の子は二十歳を過ぎているんじゃないかしら。弟さんは高校生か、卒業したかくらいだと思うけれど。倫史さんも、もうずっと会っていませんし、あまり私たちの間のことに関わりはありませんよ」

 「へえ、そういうものなの。瑠璃加ちゃんって、心が広いわ」

  沙苗が理解できないと言いたげな顔をして首をかしげると、パステルイエローのシフォンブラウスの肩の辺りで、内巻きに綺麗に巻かれた髪がふわりと揺れた。吐き出される言葉とは裏腹に、彼女はもう春の空気をまとっている。

 「沙苗さん、ふたりのプライベートに口を出しすぎるのもどうかと思いますよ。離婚の一度や二度、今は珍しくもないんだから。倫史さんもあちらのお子さんとは会っていないというのだから、瑠璃加ちゃんとのことはきっとちゃんと考えているでしょう」

  沙苗をたしなめるよう口を挟んできたのは、叔母の加寿子だ。
 加寿子は、亡き夫の忘れ形見である息子の達哉とふたり、高級高層マンションの一室で暮らしている。私と同い年の達哉が未だ独身であるのは、彼と付き合う女性は全て叔母が素性調査し、気に入らない点を見つけては別れさせているからだ。
 何かと私を擁護する言葉を掛けてくる叔母だが、あくまでそれは言葉だけであり、行動が伴ったことはほとんどない。彼女の目的は、私が祖父から直接譲られた鎌倉の土地と、倫史が所有する複数の子会社の株式を取り戻すことだ。特に、倫史の持つ株式については、加賀原家の婿むこであるとはいえ、血の繋がりのない者が加賀原の財産を持つということに強く抵抗があるようで、私に近づいてきては倫史の弱みを握るチャンスを虎視眈々こしたんたんと狙っている。

  私の目の前では、加寿子と沙苗が品格を失わないよう細心の注意を払いながら「再婚と子ども」について舌戦を繰り広げ、頑なに自説を譲らずにいる。
 叔父の伸興と兄の一真は、物憂げな表情の父に酒をすすめながら、母を懐かしむ話から強引に仕事の話に舵を切り、一刻も早く加賀原商事で取締役の地位を得たい兄と、それをくい止めたい副社長の伸興が、次期社外取締役について自身に有利な人選となるようプレゼンテーションを始めている。
 伸興の隣の席で静かに食事をする後妻の小枝子は、沙苗が目を離している隙に幼い聡と由梨が悪戯をしないかどうか、はらはらしながら見守っている。
 そのまた隣に座る娘の実乃里は、今年大学を卒業し、花嫁修業に励んでいると聞くが、テーブルを挟んだ先の加寿子の隣に座る達哉と時々視線を交わして、何か合図を送り合っている。

──ああ、倫史がいてくれさえすれば、父の機嫌を損ねることも、沙苗に嫌味を言われることも、叔母が私の機嫌取りをしたついでに沙苗と言い合いを始めることもなかったのに。
 身体の大きなあの人が私の隣に座ってくれさえしていたならば、母の命日に家族のこんな姿を見ずに済んだのに。

  あの人は、自分の役割を分かっているのだろうか。妻を夫の影であれと言うならば、影を生むための壁となってはくれないのだろうか。

 クリスマスイブに姿を現す気配のない夫にれながら、「仕事なのだから仕方がない」とグラスの中のミネラルウォーターを飲み干した。

 (つづく)

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