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『aloneークリスマスに咲く花ー』 Ⅴ.クリスマスの花(4)

 10歳の時に両親を亡くしてから、エリカは身体の一部を失い、心に大きな底なしの穴を抱えるような心地で生きていた。
 心は、人の性格から顔つきまでも形成する、いわば目に見えない臓器とも循環器ともいえる。愛に満たされ、自ら幸せを生み出すことができれば、その心の中には穏やかな春の小川が流れるだろう。
 しかし、エリカの場合、幼い頃にあった心の温かな川の水は真っ暗な穴に吸い込まれ、心や身体に循環されないまま、どこかに流されてしまった。代わりに、彼女の心に流れ始めたのは、孤独や呵責かしゃくからできた冷たい冬の川だった。

 いっそこのまま凍ってしまえばいい。そうすれば、何も感じずに済む。エリカはそう思ったこともあったが、2年前にアランに出会ったことで、自分が愛を手放せないことを痛感した。そして、彼に愛されたいと思うほど、彼にぶつけられない怒りや嫉妬の念は、エリカの心の内を熱く燃やして急流をなす。それは、決して、心の中の川の流れを止め、川面を凍らせることはなかった。

 そんなエリカの内で、穏やかな水の留まるとろを見つけたことは、大変な驚きだ。今の自分の心に、こんなに静かで穏やかな場所があることを知らなかった。そこは、音もなく、風もなく、波も立たず、暑くも寒くもない。春の小川ではないけれど、とても落ち着く不思議な所であった。

 エリカは、その瀞に近づき、水面を覗き込んでみる。濁りのない水には、エリカの顔がくっきりと映し出された。細面に、うっすらとそばかすが浮かび、唇は血の気がなく青白い。瞳の色はヘーゼルで、父とも母とも違う。くせ毛の長いウェーブの髪はまとまりがなく、今にも顔におおい被さってきそうだ。

 しかし、暫く水に映る自分の顔を見つめていると、水面から更に奥の方に、懐かしい顔が浮かび上がってきた。
「この微笑みは、母さんだ。父さんも、優しい眼差しを向けている」
 エリカは、両親のはっきりと映る姿を確認し、急いでふたりを掴もうと水の中に腕を伸ばす。その瞬間、エリカの身体は落下し、水面は大きな波紋を作って、彼女を飲み込んだ。

 エリカが水中をゆっくりと沈んで行く中、ふたりの姿は次第に水に溶けていく。エリカを包む水は、まるで生まれたてほやほやの卵のように温かく、「エリカ」と優しく名前を呼ぶ両親の声が辺りに響いて、エリカの身体にしみ込んでいった。


「そうだ。エリカは、間違いなくローズの娘だ」
 オルダーマンの声で、エリカは意識を現実に戻した。オルダーマンは、エリカと夫人のすぐ側までやって来て、ゆっくりと│膝《ひざ》を床についてから、夫人の両肩に手を置いて声をかけているところだった。

 オルダーマンは、エリカの顔を見上げて話を続ける。
「2年前に、この街であなたの姿絵が描かれた油絵を偶然見つけた時、私はあなたがローズの娘だとすぐに分かりましたよ。私の生活拠点をこちらに移すのに少々時間がかかってしまって、あなたを探し出すことに時間がかかってしまいました。

ローズやあなた達の生活を邪魔しないよう、できるだけ関わらないようにしていたことが結局あだとなって、あの事故のことも、あなたが一人きりになってしまったことを知ったのも、だいぶ遅くなってしまった。

慎重なピュシーさんも、あなたやローズのピアノの行方を中々教えてくださらなくて、わずかな手掛かりを元にずっと探していたのです。あのバーで、あの姿絵に似た少女を見かけて、そして、あなたのピアノを聴くようになって、ローズの娘はあなたに間違いないと確信しました。

今日、やっと妻をあなたに会わせることがかないました。私の願いを聞いてくれてありがとう。妻に、最高のクリスマスプレゼントを贈ってくれて、ありがとう」
「エリカ、本当にありがとう」

 エリカは、オルダーマンと夫人の潤んだ優しい瞳に見つめられ、初めて自分が誰かに愛を与えることのできる存在なのだと気が付いた。
 両親を亡くしてから今まで、エリカは自分の中に愛なんてものは存在しないと思っていた。心の中が冷え切っていたからこそ、アランの愛が熱く、尊いものであり、その温かさがなければ、エリカは死んでしまうとさえ思っていた。
 しかし、今、目の前にいる歳を取った紳士と婦人は、エリカの存在そのものに喜び、尊び、まるで幸せを感じているようではないか。
 それは、エリカの知る母、ローズそのものだ。エリカの愛した母は、いつも誰かに愛情を注いでいる人だった。こんな風に、目の前の人を、幸せで包むことができる人だった。

「母さんは、私の中にいるのね」
 エリカは、左胸に手を当ててそう呟くと、オルダーマンと夫人を思い切り抱きしめる。
 誰かのために我慢してきた悲しみを、誰かに知ってほしかった苦しみを、全て吐き出すように、エリカは大声を出して泣いた。
 10歳のエリカの思いは、今日やっと、他の誰かと分かち合われたのだ。

(つづく)

🍀次回、いよいよ最終回です!(やっとです!)↓


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