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小説『天の川を探して』【note創作大賞応募作品】

   【プロローグ】

 私が小学五年生の夏、父と母と私の家族三人でY県の山奥にある村に引越しした。
 家はとても古い小さな木造の日本家屋で、玄関の土壁の端っこが剥がれて竹小舞たけこまいがむき出しになっており、居間まで風が吹き込んできた。時々、そこからムカデやトカゲが家の中に入ってくると、母は悲鳴を上げて「早く街に帰りたい」と文句を言っていたけれど、私はこの家のピカピカの青い瓦屋根と、広い広い庭を見渡せる長い縁側が気に入っていた。
 街にいる頃は、マンションに住んでいたから小さなベランダにパンジーの植木鉢がいくつか置かれているだけで、どこか冷たく殺風景だったけれど、ここは山の一部を刈り取ったところに家をちょこんと置いただけみたいな場所だから、雑草や野の花が至るところに生えっぱなしの庭の延長線に森が広がっており、私は、この山に、この空に、生きものたちに、ここから見える全ての命に繋がっていると感じられた。
 ただ、こんな山の中ではコンビニでお菓子を買うことも、休みの日に誰かと映画に行くこともできず、私はただ一人、縁側で「あぢい、あぢい」と鳴くエゾハル蝉の声を聴きながら、長引く雨に濡れる山の木々が風に揺れる姿を眺める日々が続き、やがて胸の真ん中にぽっかりと穴が開いた。
 こんなに広い世界で、こんなにもたくさんの命の中で、私はひとりきり。
 そんな私の寂しい心が救われたのは、この村の小学校に通い始めてからだ。村の小学校は、小学二年生から六年生までの子ども八人だけのとても小さな学校だったけれど、彼らは街からやって来た私をつまはじきにすることもせず、「わからんことも多いやろう」と優しく受け入れてくれた。
 特に、同い年のカズキくんとチハヤちゃんとはすぐに仲良くなって、カズキくんのふたつ年下の妹・ミヤちゃんを加えた私たち四人は、学校が終わると毎日一緒に遊んでいた。


   Ⅰ.冒険の始まり

「今年は雨ばっかりでいややなぁ。天の川も見えんし」
「ほんまやなぁ。こんなんやったら、彦星さんも織姫さんと会えんしな」
 ある日、私の家に遊びに来たカズキとチハヤが、縁側えんがわに座って足をぶらぶらさせながら、空を見上げて話していた。
「天の川? ああ、七夕のこと? でも、この間終わったばかりじゃない」
 母が人数分に切ってくれた西瓜すいかを渡しながら私がそう言うと、ふたりは息を合わせたように首を横に振った。
「アンちゃんは、越してきたばっかりやから知らんのよ。この村には、『織姫・彦星伝説』っちゅうのがあってな、狸川の向こうの隣村にある『彦星様人形』が織姫様に会えたら、願いが叶うって言われとるのよ。せめて晴れてくれれば、天の川が見えて、隣村の『彦星さん』も空の織姫さんに会えんのにな、って話をしてたんよ。な、カズキ」
「え? 天の川が見えるのって、七夕の日だけじゃないの?」
「アンちゃんも、せっかく夏に越して来たのに、今年は雨続きやからついてなかったわ。この辺は日が暮れると真っ暗やろ。せやから、晴れてたら、ほんまは空一面、星だらけなんやで。天の川かて、夏が終わった九月でも見えるわ」
「そうなんだぁ、全然知らなかった。天の川、見てみたいな」
 まだ夕方四時だというのに、雨続きの空はどんより厚い雲で覆われている。この分厚い雲の上に、夜になれば天の川やたくさんの星が隠れているなんて、とても信じられない。
「兄ちゃん、『織姫さん』みっけた」
 どこかの部屋に遊びに行っていたミヤが、小さな人形を持って私たちの元に戻ってきた。
「ミヤ、それどこから持って来た!? 人ん家のもん、勝手に持ってきたらあかん!」
 カズキは大きな声でそう言うと、「ごつん」とミヤの頭にゲンコツを落とす。すると、ミヤは声を上げて泣き出してしまった。
「妹がすまんな、アンちゃん」
「カズキくん、そのお人形、ミヤちゃんに遊んでもらおうと思って私が外に出しといたんだ。だから、ミヤちゃんを怒らないで」
 カズキくんはすまなそうな顔をしたけれど、私は「本当にいいんだよ」と繰り返した。
「そやけど、この人形、ほんまに『織姫さん』ちがう? ばあちゃんに隣村のお祭りに連れてってもらって『彦星様人形』見たことあるけど、よう似てるわ」
 大粒の涙を流して泣くミヤに抱きつかれながら、チハヤはミヤの手からそっと人形を取ると、それをてのひらに乗せてカズキに見せた。
「……アンちゃん、この人形、どうしたん?」
 カズキは、あごの下に右手のこぶしを当てながら人形をじっと見ると、少し考えてから私に尋ねた。
「これは、ずっと前におばあちゃんからもらったものなの。亡くなる前にね、『大事にしてね』って言ってた。着物着ててお雛様みたいだけど、お内裏だいり様もいないし、この子ひとりだけだったから、普段は箱にしまってるんだ。今日は、ミヤちゃんに見せてあげたら喜ぶかなと思って出しておいたの」
 人形は、私の片手くらいの大きさで、綺麗な楕円形だえんけいをしている。一見ただの石のようだけれど、実際に触れると瀬戸物のように軽く、表面はなめらかで上品な艶があった。乳白色をした顔の部分には、柔らかい笑顔が毛筆で描かれており、まるで美しい肌をしたお姫様みたいだ。
 また、人形の身体の部分には、紫色の朝顔がちりばめられた着物が巻かれ、細やかなつた柄の緑色の帯がきちんと締められている。これを見て「置物」という人もいるけれど、チハヤたちが一目見て「人形」と言ってくれたことが、私は内心嬉しかった。
「兄ちゃんのあほ! ほんまに『織姫さん』やもん!」
 ミヤがカズキに向かって悪態をつくと、カズキはまたげんこつをしようと腕を振り上げる。その瞬間、チハヤはカズキの振り上げた腕を素早くつかんだ。
「なぁ、この『織姫さん』、隣村の『彦星様人形』に会わせてあげよう! 今から!」
 チハヤは、瞳を星のようにきらめかせながら、そう言い放つ。
「え? 今から? どこへ? え? え?」
「何ゆうてんのや。今日も雨やで。こんな時間から出かけても、隣村につく頃には真っ暗や」
「ミヤも行くー! ぜったい行くー! 置いていかれんの嫌やー!」
 チハヤの突拍子もない提案に、私とカズキとミヤは一斉に口を開き、誰が何を言っているのかさっぱり分からなかった。
「今は小降りやし、レインコート着ていったら大丈夫や。それに、カズキ、『願い事』叶えとうないんか? 道案内なら、私に任せえや」
 チハヤの「願い事叶えとうないんか?」という言葉に、カズキはぐっと息を飲みこんだ。どうやら、カズキにはどうしても叶えたいことがあるらしい。
「ほな、出発やで。全員、準備や!」
 チハヤの掛け声に、私とカズキは顔を見合わせ、ミヤは「出発やー!」と元気な声で応えた。


   Ⅱ.チハヤの指笛

 皆で急いで西瓜を平らげると、黄色のレインコートを着て、冒険の準備をする。
 私は、一緒に連れて行く人形が壊れないように、柔らかいガーゼのハンカチでしっかり包んでから、レインコートのポケットにしまった。
 母にばれないようにこっそり出ようと、皆で縁側に並んで座り、色違いのお揃いの長靴を履く。カズキは、縁側の下にある長靴に手が届かないミヤのために、「はよ履けよ」と言って小さな長靴を手渡してやった。
 私たちの長靴は、村から車で二時間ほどの場所にある、ハトのマークの総合スーパーで買ってもらったものだ。村の子は、たいていその店で学校に必要なものを買っていて、皆がお揃いになることが多い。カズキは、それが嫌でよくねていただけれど、ただひとり全く別の場所からやって来た私は、皆とお揃いの長靴を履くとほんの少しだけ嬉しくなった。
 家の裏庭に出ると、森に入る前に一度点呼をする。学校で習ったみたいに、真っ直ぐに整列して、先頭のチハヤから「いち」と数字を数え始める。「に」は私、「さん」とカズキが言って、「よん!」とミヤが飛び跳ねた。
 チハヤの水色の長靴の後ろに、私のだいだい色の長靴、そしてカズキの緑色の長靴、ミヤの黄色い小さな長靴と続く。カラフルな長靴に雨粒が当たって跳ね返ると、虹のような光を帯びた。
「チハヤちゃん、今日はすぐに真っ暗になりそうよ。これから森の中に入るなんて、大丈夫なの? それに、たぬき川って大きな川だよね。私たちだけで渡れるのかな」
 私は、何となく興味でついてきてしまったものの、裏庭からすぐ目の前に広がる森が思った以上に暗くて不安になった。思わずチハヤのレインコートのそでをひっぱってしまう。
 前に住んでいた街の同じ時間とは大違いだ。街灯もなく、店の看板がともることもない森の中は、夏の夕方だというのに既に夜を迎えたように暗く、枝葉からしとしとと落ちる雨粒に、全ての音が吸い込まれてしまったみたいな静けさに包まれている。その静かな世界の中で、時折、何かが葉を揺らすと、その音は一層不気味に辺りに響いた。
 チハヤは、隣町にある「彦星様人形」に会いに行くためには、狸川を越えなければならないと言った。「狸川」というのは単なるあだ名で、正式には大層立派な長い名前が付いている。村を流れる大きな川を「狸川」、小さな川を「きつね川」と呼び、夏休みには「子どもだけで狸川に行かないようにしましょう」と先生から注意喚起がされていた。一度も狸川に行ったことのない私は、この不気味な山の気配と大層危険そうな狸川の存在に怖気づき、森に入る前から小さく震えてしまった。
「アンちゃん、大丈夫やて。チハヤを信じて。見ててや」
 チハヤは、そう言って私の目を真っ直ぐ見つめると、白い歯を見せて思い切り笑う。そして、親指と人差し指で円を作ると、その指先を唇に当て、不思議な音を出した。
『ピューーイヨイ、ピューーイヨイ』
 チハヤの指笛の音は、鳥の鳴き声のように高く透き通って、山の隅々すみずみまで木霊こだまのように響き渡る。
 すると、突然、暗い森の中でバサバサバサっと何かが大きくざわめいた。
「よし、これで狸川まで近道で行けるからな。安心し」
 チハヤがそう言うと、森の中に、ぽつぽつと黄色や青白い光が現れ出す。それは、どんどん数を増やしながら、ちらちらとした小さな灯りを、確かにこちらに送っていた。
 物怖ものおじすることなく、真っ先に森に足を踏み入れたチハヤの後を、レインコートの袖を掴んだままついて行くと、これらの光が木の上で一列に並び、光の道を作っていることに気が付く。
 少し暗さに目が慣れた頃、よくよく目をらしてみると、光の正体は全て、フクロウやハト、カラス、スズメなどの野鳥の目であった。
 私はあまりにも驚いて、思わず叫んでしまいそうになったけれど、声を出しては鳥たちが今にも飛び立ってしまいそうで、ただ息を殺しながらチハヤの背中を追っていった。

 どれだけ歩いただろう。山育ちのチハヤは、木の根っこが張りめぐった足元の悪い山道をいとも簡単に上っていく。私が歩くのにもたついていると、後ろを歩くカズキとミヤが背中を押して手伝ってくれた。
 時間など気にする暇もなく、チハヤについていくことだけに懸命になっていると、狸川に辿り着く頃には、空はすっかり夜の顔になっていた。
 木々の生い茂る森を抜ければ、少しは空の明るさを感じることができるかと思っていたけれど、すっかり日は暮れて、空には星のない暗幕がどこまでも広がっている。闇の中、私たちの身に着けたレインコートと色とりどりの長靴だけが、ほんのりと灯っていた。
 初めて目にする狸川は、辺りが闇に包まれ、どれほどの川幅であるのかよく分からない。しかし、ゴーゴーとうなり続ける水音が、川の激しさと水量の多さをもの語った。それはまるで、「これ以上近づくな」といきどおる巨大な生き物のようだ。
「チハヤちゃん、暗くて何も見えないよ。もう帰ろうよ」
 目の前に横たわる大きな自然にたじろいで、私は思わずチハヤを引き留める。どこまでも続く暗闇、激しくうなる川の音、そして、得体のしれない自然という生き物の気配。私は、恐ろしくて今にも涙があふれてきそうになったけれど、一番年下のミヤちゃんのあっけらかんとした鼻歌が聴こえて、泣くことだけは何とかこらえた。
「アンちゃんは、あかんたれさんやなぁ。狸川さえ渡れば、『彦星様』までもうすぐや。きばりい!」
「兄ちゃんは意気地いくじなしやからな。ミヤがアンちゃんと手ぇ、つないだる」
「ミヤ、なんちゅうこというねん!」
 チハヤに思い切り背中を叩かれ、右手にミヤの手の温もりを感じ、カズキの痛快なツッコミを聞くと、不思議と恐怖心が和らいで勇気が湧いてくる。
 暗闇の中でもほがらかに笑う三人につられて、いつの間にか、私も笑顔になっていた。皆で笑うと、不思議だ。さっきまで、見えない何かにおびえていたはずなのに、心がほっととろけだす。産湯うぶゆに浸かった赤ちゃんみたいに、ただただ私に笑いかけてくれる人の顔を見て、安心していた。


   Ⅲ.子どもたちの秘密

「でも、狸川って大きいんでしょ? どうやって渡るの? どこかに橋でもあるの?」
 私は、チハヤやカズキがいくら楽観的とは言え、大きな橋でもなければ、目の前の激しく荒ぶる川を子どもだけで渡ることは不可能に思えた。
「橋はあかんな。ずーーっと川下らなあかん。でも、大丈夫や。カズキがおるから」
「せや! 兄ちゃんの出番や!」
「お前らが威張いばんなや!」
 三人の歯切れの良い掛け合いを聞きながら、私が「何のこと?」と不思議な顔をしていると、カズキがポンと私の肩をたたく。
「アンちゃん、安心し。うちは『亀』の家やからな」
 カズキはそう言うと、足元から適当に野草の葉を一枚つまみ取り、その葉を口元に当てた。
『ぷぃぃーー、ぴぃ、ぷぃぃーー』
 カズキが草笛を吹くと、葉から生じた音とは思えない明朗めいろうな音が、川の隅々まで響いていく。
 すると、突然、闇の中で大量の何かがゆっくりとうごめく気配がした。
 何かが見えるわけでもない。何か声が聴こえるわけでもない。それでも、たくさんの何かが息づき、一斉いっせいに動き出していることを、私の肌は感じ取っていた。足元から血管が細かく揺すられ、やがて、ぞわぞわと両腕に鳥肌が広がっていく。
暫くして、何かが動く気配が止まると、川の轟音ごうおんはぴたりと止み、辺りはしんと静まり返った。
「ほな、行くで!!」
 突然、私の右手をミヤが、左手をカズキが握り、川に向かって突進していく。
「きゃあーー! 川にそのまま突っ込んだら死んじゃう! やめて!」
 私は思わず悲鳴を上げたが、ふたりは足を止めない。むしろ、ますます速度を増していく。
──もうだめだ!
 そう思った瞬間、私の足は川の水ではなく、ごろごろとした石を踏みしめていた。
 大きな石が敷き詰められたような道。ゴム製の長靴を履いた足裏には、固い石の角が当たっているのを何度も感じた。足元が悪く、時々足を滑らせそうになると、カズキとミヤは私をぐんと引き上げて、前へ前へとまっしぐらに進んで行く。二人はまるで、川辺の生きもののように生き生きとして、どこに足をおけば良いかを元から知っているようだ。二人に手を引かれている間、私は蛙みたいに飛び跳ねて、一度も転ぶことはなかった。
 皆で一気に川を駆け抜けると、足元がごつごつとした石から、雨に濡れた柔らかい土と草の感触に変わる。そして、カズキが再び草笛を吹くと、私の背中側で、せきを切ったように川の水が一気に流れ始め、狸川は以前の姿を取り戻した。
「何とか無事に狸川を渡ったんだ……」
 私はそう思った途端、急に脚の力が抜けて、へとへとと地面に座り込んでしまう。
 嘘みたいだ。あんなに激しい音を立てていた川を、無傷で渡ったなんて。しかも、水の中を泳いで進んだわけでも、おぼれて流されたわけでもなく、突然干上がった川底を走っているようだった。カズキが「何か」と示し合わせて、道が現れたみたいに……。
「びっくりしたぁ。カズキくんも、さっきのチハヤちゃんの時も、不思議なことが起こるんだもん」
 気の抜けた声で私が言うと、ふたりは声を合わせて「あははは」と笑った。
「そう言えば、アンちゃんはまだ知らなんだねぇ。この村の子どもらは、何かの動物や生きものに守られてんのよ。しゃべることはできんねけど、困った時はこうやって合図すれば助けてくれる。うちは『鳥海』やから、『鳥』。カズキとミヤんとこは『亀谷』やから『亀』。今のは、カズキが川の亀たちに頼んで、川の水をせき止めてもらってたんよ」
「うへぇ、皆そんなことができるの? 信じられない」
「俺ら子どもには普通やけどな、大人になれば忘れてしまうんやて。そやから、大人は誰も教えてくれへん。中学生の兄ちゃん・姉ちゃんが小学三年になった子どもに教えてくれるんよ。聞いた話やと、大昔にこの山で大きな火事があって、動物たちは生きる場所がなくて困ってもうた。そんな時に、この村の人たちが火を消して、木を植えて、時間をかけて元通りの山に戻したんやて。それを動物たちが感謝して、力を貸してくれるようになったらしいで。村人たちの苗字に動物たちの名前を付けて、その動物たちが代々の村人を守ると約束したんや」
「見てー、ミヤも小さい亀さん呼べるんよ」
「はあ」とか「うへぇ」とか、私がへんな溜息しか出せないで話を聞いていると、ミヤがてのひらの上に小さな赤ちゃん亀を乗せて、私に見せてくれた。
 小さな亀の表面は、暗闇の中でもぬめぬめと鈍く光っている。赤ちゃん亀は私を見つけると、首を目いっぱい伸ばして、つぶらな瞳で私をじっと観察している気がした。
「亀さん、無事に川を渡らせてくれてありがとう」
 私が心を込めてお礼を言うと、赤ちゃん亀は首を曲げてお辞儀(じぎ)をし、ミヤの手から降ろしてもらうと狸川の方へ帰っていった。
 何だか今日は不思議なことばかり。チハヤとカズキとミヤと、夢のような出来事を体験し、私の心は今、「この先は何があるんだろう」と期待で胸が高鳴っている。三人がいれば、この山も川も、動物たちも、夜の闇さえも、冒険の仲間のように思えた。私たちは、見えなくても、話すことができなくても、同じ時を生きる命なのだ。


   Ⅳ.亀宮神社

 狸川は、私たちの住む村と隣村の境界線になっていて、現在、私たちは隣村にいる。とは言え、川を渡った後もまた同じような森の中を進んでいて、今まで歩いてきた山道となんら変わらない景色に、まだ知らない場所に来たという実感が湧かない。
 チハヤたちも、ここから隣村に入るのは初めてだというけれど、相変わらず躊躇ちゅうちょもなく歩き続けて、何の心配もしていないようだ。チハヤの指笛も再び大活躍で、『ピューーイヨイ、ピューーイヨイ』と合図を送ると、この森の鳥たちも瞳をらんらんと輝かせて光の道を作った。
「チハヤちゃん、どこまで行くの? 『彦星様人形』は、まだ先なの?」
 光の道の果てが見えず、脚に疲れを感じていた私はチハヤに問いかける。狸川を渡れば、すぐに「彦星様人形」に辿り着くと思っていたけれど、道のりはまだまだ長そうだ。
「アンちゃん、もうすぐや。『彦星さん』は、この先の『きのみや神社』におる」
 チハヤの力強い声に、私は「わかった」と深くうなずいた。
 チハヤの強さは、どこから来るのだろう。チハヤには、怯えやあきらめといった言葉の影さえ見当たらない。いつも前だけ向いていて、その先にあるものを信じている。同い年の女の子のその背中は、とても頼もしくて、格好良かった。
「あなたは『織姫様』なのよね。チハヤちゃんたちが言うんだもん。間違いない。もうすぐ『彦星様』に会えるからね」
 私は、レインコートのポケットに右手を滑り込ませると、カーゼのハンカチで包まれた人形を優しく撫でて、心の中で話しかけた。人形は、勝手に知らないところに連れてこられて不安なはずだ。この人形にとっては、私だけが頼れる存在で、私にとってのチハヤなのだ。私がしっかりしなければと、手に熱がこもる。人形は、私の言葉にうんともすんとも答えないけれど、かすかに喜んでいる気がした。
 暫く進むと、突然ぽっかりと空が開けた。相変わらず、空は厚い雨雲に覆われたまま星さえ見えないけれど、空が少しだけ明るく感じるのは暗闇に目が慣れたからか、それとも、雲の上に月が輝いているおかげだろうか。ここには、雨をさえぎる木々がほとんどなく、雨はしとしとと頬を濡らした。
「着いたで。ここが『彦星様』のいる、亀の宮と書いて『亀宮きのみや神社』や」
 チハヤの指さした方向を見ると、立派な白い鳥居の形をはっきりととらえることができた。
 その鳥居は、身長百四十センチほどの私が思わず空をあおぎ見てしまうほど高くそびえ、私たち四人が両手を真横に広げて鳥居をくぐっても、すっぽり飲み込んでしまえるほどの大きさだ。
 鳥居の姿に圧倒された私が、口を大きく開けて上空を眺めていると、「アンちゃん、こっちやで。こっちに『彦星さん』おるんよ」と、ミヤが私の手を引っ張って早足で歩き始めた。
 ミヤの手は、とても小さい。それでも、その温かいてのひらは清純な生命力を放ち、ミヤの周りは見えない光で満ちている。どんな邪悪なものも私たちには近づけない。そんな感じだ。こんなに真っ暗で、人気ひとけのない神社なんて、私ひとりだったら絶対に怖くて近寄ることさえできない。今、私がこうして歩いていられるのは、私の手を引く小さな勇者を信じているからだ。
 それに、境内けいだいでは至るところから彼女を見守っている存在がある。参道脇の灯篭とうろうの上、手水鉢ちょうずばちの脇、大きな銀杏の樹のふもとなどから、石像の亀たちは顔をこちらに向けてほのかに光っていた。「きのみや」は、漢字で「亀宮」と書くから、ここはカズキとミヤに関係のある場所なのかもしれない。神社の亀たちはきっと、カズキとミヤを、私たちを、静かに見守ってくれている。そんな気がした。
「ミヤちゃん、ありがとう。こんなにたくさんの亀さんに守られているなら、ここは最高に安心できる場所ね」
 心の中で、私はそっとお礼を言うと、小さな勇者の手を握り返した。

 本殿の裏から続く、細い石畳の坂道を進んで行くと、突き当りにほこらのような木造の建物があり、ミヤはそこで足をぴたりと止める。私は、ミヤの手をそっと離して、その建物に近づいてみた。
 それは、大きな平たい一枚岩が三枚ほど積まれた階段の上にあって、私の背丈よりも少し低い小さな平家ひらやの形をしている。屋根には急な勾配こうばいがあり、軒先だけがつんと曲線を描いて外側に飛び出しているので、屋根を流れ落ちる雨はひっきりなしに外へと弾かれていく。建物の古い柱の表面からは、木がちてできたささくれがぴょんぴょん飛び出しているが、雨でしっとりと濡れた苔がぴったりと張りついて、指で触れてもそれが刺さることはなかった。
 建物の中をのぞき込むと、中は真っ暗だ。正面にかけられた厳重な格子こうしの奥には、子ども用の座布団が一枚敷かれているのが、かろうじて確認できる。どうやら、建物の中は子どもがひざを抱えてやっと納まるくらいの広さのようだが、格子を押したり引いたりしてみても、扉には鍵が掛かっていてびくともせず、それ以上の情報を私に与えてはくれなかった。
「ミヤちゃん、『彦星様人形』はここにいるの?」
「そやで。ここにおる」
 私が尋ねると、ミヤは大きな瞳で真っ直ぐ格子の奥を見つめたまま、その闇を人差し指でさす。
 雨粒の垂れる音だけが響く建物の奥で、私は何かが息づく気配を感じ、つばを飲み込んだ。
 少し遅れて、チハヤとカズキが到着すると、私を除いた三人は祠のような建物に向かって静かに手を合わせ始める。私も三人の真似をして目を閉じると、両てのひらを合わせた。
「さあ、ここからが本番や。皆、心の準備はええか?」
 祈り終えたカズキがそう言うと、チハヤとミヤは「おー!」と腕を上げて元気よく返事をする。
 しかし、私はチハヤやミヤのように、素直に応えることができなかった。
「ねえ、カズキ君、『ここから』ってどうするの? ここに『彦星様人形』がいるとしても、鍵が掛かってるみたいなの。もしかして、動物たちに頼むつもりなの? でも、さすがに鳥や亀たちに鍵は開けられないよ。それに、無理やり開けようとしてどこか壊したら、きっとママたちに怒られちゃうよ……」
「彦星様人形」が目の前にあるとしても、たった今、私は固く鍵の掛けられた扉に拒まれたばかりだ。カズキとチハヤとミヤの三人が動物に守られ、いかに心強くても、鍵を開けることなど現実的に不可能なことに思えた。わくわくして歩み続けた冒険も、「ここまでか」と思った途端に、目にはじわっと涙が浮かんでくる。
 私たちは勝手に子どもだけで森に入ってしまった。母に何も言わず、こんなに遅くまで遊びに出かけてしまった。ここで冒険が終われば、後は無事に家へ帰って、延々としかられるだけだ。
 けれど、叱られることが怖いんじゃない。私のお人形を、「彦星様人形」にちゃんと会わせてあげられないことが悲しい。四人の不思議な冒険が、ここで終わってしまうことが悔しいのだ。
 涙をこぼすまいと堪えていると、様子を察したのか、カズキが近づいてきた。そして、私の頭を軽くぽんと叩くと、「まあ、心配すんな」と言って、建物の真裏に姿を消した。
「じゃーん! これ、何やと思う?」
 建物の影から小走りで戻ってきたカズキが、私の目の前で得意気に掲げたのは、一本の古びた鍵だった。丸い持ち手の部分から真っ直ぐに伸びた長い棒に短い二本の突起がついていて、よく見る「鍵マーク」にそっくりだ。鍵を覆う銅色のさびは、長い年月を経ていることを表していた。
「え? もしかして、これ、格子の鍵? カズキくん、なんで?」
 思わぬ展開に、私の両目の涙はたちまち引っ込んだ。カズキは亀と意思疎通できるだけなく魔法まで使えるのかと本気で信じて、私は「カズキくん、すごい!」と繰り返し、盛大に拍手を送る。すると、チハヤとミヤが「ちゃう、ちゃう」と言って、手を横に振りながら割り込んできた。
「アンちゃん、だまされたらあかん。こいつ、鍵の場所、知っとるだけやねん」
「兄ちゃん、タダシおじさんから教えてもらってたで。ミヤたちのおじさん、ここの神社の人やもん」
 ふたりがそう言いながら冷めた目でカズキを見ると、分が悪くなったカズキは「そんなん、どうでもええやろ! さ、鍵開けよ~」ととぼけながら、さっさと格子に掛けられた錠を探し始める。カズキは、鍵の掛かっている場所をすぐに見つけると、小さな鍵穴に手早く鍵を差し込んで、錠は「ガチャリ」と音を立てて外れた。
 カズキの手際は、手品のようだ。さらっ、するっ、「ガチャリ」と、無駄な動きがない。暗闇に目が慣れたとはいえ、小さな鍵穴を探すことはとても難しいことだ。私は、格子戸に掛かる錠を見つけることさえできなかったから、「ここで育った子たちの目はすごいなあ」と心から感心した。
 カズキは、錠の外れた格子戸を少しだけ開けて、中に腕を伸ばすと、中にある「何か」を掴んで、私の方に振り返った。
「ほら、これが『彦星様』やで。アンちゃんの人形に似とるやろ?」
 カズキが私に見せたのは、薄っすらと白い、楕円形をしたものだ。布が巻かれていて、着物を着ているようにも見えるけれど……。
「ごめん。私、よく分からないや」
 カズキとチハヤとミヤが、私に熱い視線を向けているを感じたが、「わー、そっくり!」と嘘をつくことはできなかった。三人とは違い、私の目はまだまだこの暗い世界に対応できていないのだ。
「皆、がっかりしちゃったかな」と、そおっと三人の顔を見ると、「そらそやな。こんな真っ暗な場所で見ろ言う方がおかしいねん」「そやで、兄ちゃん」と、なぜかカズキがチハヤとミヤに責められた。
「こうなったら、直接行くで! 『三途の川』へ!」
「「「おー!」」」
 カズキの掛け声に、今度は私も、チハヤとミヤと声を合わせて応える。
 カズキは、私の腕を引くと、南方向へぐんぐん歩いていく。カズキの言う「三途の川」が何なのか、よく分からないけれど、チハヤとミヤは何だか楽しそうだ。
「まだ冒険は続くんだ」
 そう思うと、嬉しさが胸に込み上げてきた。私たちの不思議な夜は、まだ終わらない。


   Ⅴ.出逢いの橋

「三途の川」とは、何なのだろう。
 それがどこにあって、どんな川であるのか、私は詳しく知らなかったが、「亡くなった人たちがあの世に行くために渡る川」だということだけは、生前の祖母から聞いたことがあった。
 以前の私なら、そんな恐ろし気な川に近づこうなんて思わない。想像だけで背筋に冷たいものが流れて、きっと怖気おじけづいてしまうだろう。
 けれど、今の私は街にいた頃の私とは違う。何かを恐れる気持ちが全くないというわけではないけれど、それよりも、熱を帯びた心臓が心地よいリズムで弾んでいるのを感じる。
 心のまま行動し、動物たちと意思疎通のできるカズキ、チハヤ、ミヤの三人と一緒にここまでやって来た私は、数ある困難を乗り越え、三人となら「三途の川」がどんな怪しい川だろうと、立派に冒険をやり遂げることができる気がした。
 大人の言いつけを守らないことを悪いことだと、誰かの目や言葉を恐れて、部屋にこもってばかりいたあの頃とは違う。私の心は、勇気で満ちていた。
 ところが、「ここが『三途の川』や」と言ってカズキが足を止めたのは、山から流れる湧き水からできた細く浅い川だった。狸川がゴーという音だとしたら、こちらはチョロチョロとかわいい音だ。「三途の川」が、ただの小川であることが分かると、私は思わず拍子抜けしてしまった。
「ここなら、蝋燭ろうそくあるからな。待っとき」
 カズキはそう言うと、マッチを擦って、小川の脇にある蝋燭に火を灯す。
 夜の炎はとてもまぶしくて、目がくらんだ私はカズキの隣に座り込んでしまった。ようやく目が明るさに慣れた頃、周りの風景やカズキたちの顔を確認できた。
「アンちゃん、今度はよお見えるやろ。これが『彦星様』や。よう見て」
 カズキが『彦星様人形』を持つ手を蝋燭に近づけると、カズキのてのひらに乗った小さな人形の姿が浮かび上がる。
「本当だ。私のお人形とそっくり……。大きさもほとんど同じだし、同じ素材でできてるみたい。微笑んでる顔も似てる。違うのは、『彦星様』は黄色の衣で、顔が男の子、だよね」
 私がそう言うと、「ほらー! やっぱりあれは『織姫さん』やったー!」と、ミヤがぴょんぴょん飛び跳ねて喜んだ。
 すると突然、「ミヤ! ここで飛び跳ねたらあかん! 『三途の川』の向こう側に行ったら死んでまうって、おじさんゆうてたやろ!」と、カズキが声を荒げた。
 突然怒鳴られたミヤは、身体をびくっと震わせると、「兄ちゃん、怒ってばっかりで嫌いや!」と言って、イーっと歯を出しながらそそくさとチハヤの陰に隠れてしまった。
「カズキくん、急にどうしたの? 『三途の川』なんて呼んでいても、ただの小川でしょう?」
 いつもと違う様子のカズキに、私は思わず声を掛ける。カズキがミヤを叱ることはよくあることだけれど、それは兄としてミヤの悪戯いたずらなどをいましめる時だ。今のカズキの声は、いつもと違い、本気でミヤを怒り、そして、心配していた声だった。
「大声あげて、すまんな。この小川が『三途の川』って呼ばれとるのは、大昔からなんや。ただの迷信やけど、川のこっちは俺らの世界、向こうは死者の世界、って言われとる。ここに小さい『橋』が架かってるやろ。これは、織姫さんと彦星さんが会うための橋で、人間の俺らが橋を越えて向こう側に行ったら、こっちに戻って来れんらしいわ。まあ、この先に子どもを行かせないための話やとは思っとるよ。ここの神社ん中は、木がほとんどないけど、この川の向こうはもう森の中やろ。マムシなんかがぎょうさん出るらしいからな。そやけど……」
 カズキは、その続きを言わないまま、小川の向こう側の先の見えない真っ暗闇を見つめていた。
「三途の川」に架かる橋は、ちょうど小川に掛かる十センチほどの長さで、細い竹を編んで作られたものだ。橋というのは名ばかりで、人はおろか、わたしたちの人形が乗って渡れるような代物でもない。こんなに小さな川と橋で、こちらと死者の世界がへだてられているなんて、とても信じられない。けれど、私たちは村の「織姫・彦星伝説」を信じてここまで来る中で、驚くことばかり体験してきた。今夜は、どんなことが起きても不思議ではないと、そう思える。それに、カズキはきっと、川の向こうに見えない何かを感じているんだ。私は、カズキの感覚を信じる。
「なあ、ふたりで『三途の川』眺めとるのもいいけど、そろそろ『彦星様』を『織姫様』に会わせてあげな」
 背後からのチハヤの声に、私とカズキはハッと振り返る。
「そうやな。そろそろ会わせてあげな、かわいそうやな」
「そうだね! 『織姫様』は私のポケットにいるよ。どうしたらいい?」
 私とカズキが慌てて立ち上がると、チハヤは「しっかりしいや」と言う顔をしながら私たちを一瞥いちべつした。ミヤは、チハヤの足元にしがみついたまま「兄ちゃんのあほ」と呟いて、まだカズキにご立腹のようだ。
「お祭りのときは、小川の橋の両脇に台座を置いて、片方に『彦星様人形』を、もう片方には『織姫様』の代わりの和紙で作った『白い鶴』を置くんよね。今日は台座がないから、綺麗な葉っぱで勘弁してもらおか」
 チハヤは、橋の側で屈むようにして座ると、ポケットから艶々つやつやとした柿の葉に似た葉っぱを二枚取り出して、橋の「こっち側」と「あっち側」に一枚ずつ丁寧に敷いた。
「ほな、『彦星様』は、『こっち側』や」
 カズキは、手に持っていた『彦星様人形』を「こっち側」の葉の上に静かに寝かせる。
「アンちゃん、『織姫様』は『あっち側』の葉っぱに置いて。怖かったら、俺がやるよ」
 カズキにそう言われたが、私は黙って首を横に振った。
 私はレインコートのポケットから人形を取り出して、包んでいるガーゼのハンカチを優しく剥がすと、ひとつ深呼吸をしてから、橋の「あっち側」に向かって人形を持った手を伸ばす。たった十センチほどの川幅で、人形を乗せる葉も目の前に見えているのに、その距離が何だかものすごく遠くに感じた。
「あと少しで人形を置くことができる」
 そう思った瞬間、何かに突然、腕を引っ張られ、身体が「あっち側」にぐんと引き込まれる。思わぬ出来事に、私の心臓はどくんどくんと激しく脈を打ち、両腕が細かく震え出した。
──どうしよう、「あっち側」に引きずり込まれる! 人形を置けない!
 心の中でそう叫ぶと、チハヤの足にぴたりとくっついていたはずのミヤが、私の左側にちょこんと座って手を握った。
 ミヤの柔らかく温かい体温を感じると、私の身体の震えと大きな鼓動は次第に治まっていき、一時的に冷たくなった指先も感覚を取り戻していく。やがて、私は平常心を取り戻し、「あっち側」の葉の上にようやく人形を座らせることができた。
「彦星様」と「織姫様」を橋の両脇に据え終わると、私とミヤの隣にカズキとチハヤがそれぞれ座り、私たちは静かに目を閉じて、空に向かって祈りを捧げた。


   Ⅵ.天の川

 私たちが祈り始めると、小川の「あっち側」の森の奥から突如やって来た冷たい突風が、私たちに強く吹き付けた。
「わあ!」「きゃあ!」「うわあ!」
 あまりの強い風に、声を上げて一斉に尻もちをついてしまう。
 私たちをなぎ倒した突風は、私たちのことなどお構いなしに、そのまま木の葉や土埃を巻き込みながら、勢いよく空に昇って行った。
「何や、今のは! 皆、大丈夫か?」
 カズキは一番にミヤの手を取ってから、私とチハヤの安全を確認する。ミヤは、尻もちをついたまま、ぽかーんと口を大きく開けて、私とチハヤは、「大丈夫」「問題ないで」とそれぞれ返事をした。私は「大丈夫」と言ったものの腰が抜けてしまい、先に立ち上がったチハヤの手を借りて、やっとのことで立ち上がることができた。
「あ! アンちゃん、あれ見て! 空!」
 チハヤの声で空を見上げると、突風が疾走していった先の雨雲がぱっくりと大きく切り裂かれ、その向こうには数えきれないほどの星が輝く美しい夜空が広がっていた。
 これまでの真っ暗な空が嘘みたいに、無数の星屑ほしくずが藍色の空を埋め尽くす。空いっぱいにたくさんの宝石を縫い付けて、ゆらゆらと泳がせたような綺羅星きらぼし。それは、まるで星の……。
「天の川や」
 カズキがぽつりと言った。
 そう、まるで星の大河。それぞれのリズムでまたたく無数の星たちは、川面で踊る木の葉のように、ゆったりと天の河を漂い流れていく。白い星、赤い星、黄色い星、緑色の星、紫色の星。生まれて初めて見る天の川は、世界中の星をかき集めたみたいな、どこまでも、どこまでも、小さな光のパレードが続く奇跡のそらの川だった。
 天を流れる色とりどりの星たちは、少しずつ瀬に集まり始めると、やがて川の両岸を結ぶ長い長い輝く道を描き、地上にいる私たちの瞳に虹色の光を落とした。
「やったぁ! 天の川に橋、架かったで! きっと、『織姫さん』と『彦星さん』、空で会うたんや!」
 ミヤが、天に現れた虹色の道を指さして叫ぶ。
「そうや! あれは、絶対に天の川の橋や! 間違いないわ!」
 カズキも、ミヤと一緒に空を指さしながら、興奮して飛び跳ねた。
「アンちゃん、よかったなぁ」
 チハヤに優しく声を掛けられて、私は自分が涙を流していることに気が付いた。
「うん、よかった。連れてきてくれて、本当にありがとう」
 私は、涙を拭いながら、「織姫人形」の代わりにお礼を言う。
 自然とこぼれ落ちる涙は、生まれて初めて見る天の川の美しさに感動したのかもしれないし、「織姫様」と「彦星様」をやっと会わせることができて、ほっとしたのかもしれない。
 けれど、この温かくて甘酸っぱいような気持ちは、それだけではないように思う。今夜、チハヤとカズキとミヤと不思議な体験をしながら、こうして一緒にこの天を見られて、私は以前よりもずっと彼らを近くに感じた。ようやく私も、「村の子」になれたような気がした。
 暫くの間、黙って天の美しさに見入っていると、ひたいに「こつん」と何かが当たった。最初は気のせいだと思ったけれど、それはふたつ、みっつ、よっつと連続して頬や肩に当たって跳ね返る。カズキとチハヤも、異変を感じて騒ぎ始めた。
「なんや、こんな夏にひょうでも降っとるんか!?」
「微妙に痛いわ。カズキ、あんたろくでもない願い事したんとちゃう?」
「そんなことしとらんわ。俺は『天の川を見せてください』てお願いしたし」
「私もおんなしや。『アンちゃんに、天の川見せたい』て心ん中でゆうたよ。じゃあ、何なんこれ?」
 カズキとチハヤはそうやってにぎやかに喧嘩けんかをし始めたけれど、私はふたりのしてくれた願い事が嬉しくて、一層涙が溢れてしまう。言い合うふたりを見て泣き笑いしていると、「まさか、アンちゃん?」と言ってカズキとチハヤは同時に私の顔を見た。
「いやいや、ちゃうよー!」
 私は、慌てて思い切り顔を横に振る。すると、ふたりは「そらそうか」と声を揃えて笑った。


   Ⅶ.天を見上げて

「ミヤ、何やっとねんや。わけわからんもん、口に入れたらあかんで」
カズキは、ミヤが黙って空に向かって大きく口を開けていることに気が付く。
 ミヤは「らって、おいひいんよ。兄やんも食へてもえーよ」と、口を開けたままもごもご話した。
「おいしい?」
 不思議に思った私とカズキとチハヤは、ミヤが食べている空から降る「小さな何か」をてのひらで受け止めるため、両手でコップの形を作る。
 こつん、こつん、こつん。降り続ける「小さな何か」は、やがて五粒ほど私のてのひらに着地した。私とカズキとチハヤは、お互いに顔を見合わせから、三人で一気にそれを口に放り入れる。
「「「……あ、あまーーーい!!」」」
 私たちは、同じ言葉を合唱した。
 それを口の中に入れた瞬間、表面がごつごつした丸い物体がほろりと溶けて、穏やかな甘さが口いっぱいに広がる。そうだ、これは、砂糖の甘さだ。コンビニで買うお菓子の甘さでなくて、おばあちゃんがいつか作ってくれた水あめみたいな優しい甘さ。ほんのり懐かしくて、ふわり、まあるい味。
 皆でそれを集めることに夢中になっていると、雲に隠れていたまん丸い月が顔を出して、私たちを照らした。明るい月の光は、てのひらの中の「小さな何か」の正体を映し出す。
「あーー!」
「これかー!」
 チハヤとカズキは、喜びの声を上げた。
 空から降ってきた「小さな何か」は、なんと、金平糖こんぺいとうだったのだ! ピンク、黄緑、白、黄色、水色、紫、薄茶色。色とりどりの金平糖の粒は、私たちに絶え間なく降り注ぎ、てのひらの上で飛び跳ねてワルツを踊る。
「ミヤやな。こんな願い事したんは。何てゆうたん? 怒らんからゆうてみ?」
 カズキがミヤを見ると、ミヤはレインコートの裾をめいっぱい広げて金平糖を集めながら、チハヤの元へ逃げ込んだ。
「……ミヤな、もし『彦星さん』が『織姫さん』に会えたら、どうせ降るなら『雨』より甘い『あめ』がいい、ってゆうたん」
 ミヤは、チハヤの陰に隠れながら、小さな声で言う。カズキに「怒らんから」と言われて、怒られなかったことはないと、ミヤは経験で学んでいるのだ。
「ミヤ、ようやった! 確かに、ぎょうさん雨が降るより、飴ちゃんの方がええもんな!」
 チハヤはミヤの頭を思い切り撫でてから、自分が集めた金平糖をミヤのレインコートに入れてやる。褒められたミヤは、「へへー」と得意気に笑うと、チハヤにもらった金平糖をすかさず口に入れた。
 満月に照らされながら、チハヤもカズキもミヤも、皆笑っている。きっと、私も同じ顔で笑っていたはずだ。私の心の中は、とてもぬるま湯に浸かったように心地よく、三人と同じ温度で溶けあっている気がした。
──その時。
「あ! 流れ星!」
 私は、空に光が流れるのを見つけて、思わず叫ぶ。
 皆で空を見上げると、いくつもの流れ星が空から落ちてくるのが見えた。それは、天の川から溢れた星屑が、少しずつこぼれ落ちているみたいに、シューっと緩い放物線を描いて私たちの元に降りてくる。
 私は流れ星をひとつキャッチして、ゆっくりてのひらを開くと、その中にあったのは金平糖だった。あの流れ星たちは、色とりどりの金平糖に月の光が反射して、目映まばゆく輝いていたのだ。
 その美しい夜空の光景を、私たちは、ただただ静かに眺めていた。誰もしゃべらず、笑わず、くしゃみさえせず。無数の星が流れる天の川という大河を見つめているその間、私たちは、太古からの果てしない時間を一緒に過ごしている気がした。


ミムコさんイラスト(天の川を探して用)



   【エピローグ】

 それから、私たちはどうやって家に帰ったのか──。今となってはよく思い出せない。
 私があの村にいたのは、小学五年生の夏から秋までの約四か月の間だけだった。
 父の仕事の都合でまた街に戻ってから、私は一度だけ彼らに手紙を出したけれど、住所を書き間違えていたのか、出した葉書は「宛先不明」と判子を押されて私の元に戻ってきた。
 あれから六十年が経った今も、彼らはあの村で元気に暮らしているだろうか。あの日のことをおぼえているだろうか。動物たちに守られていたことを「大人になれば忘れてしまう」と言っていたから、もしかしたら、あの日の出来事も、私のことも忘れてしまったかもしれない。
 私は、今でもあの日のことを鮮明に憶えている。それは、きっとあの日、「四人で過ごしたこの日を忘れませんように」と願った私の思いを、「織姫様」と「彦星様」が聞いてくれたからだと信じている。
 先月、また彼らに会いたいと、心を決めてY県を訪ねてみたけれど、どうやっても村への行き方は思い出せず、村に連れて行ってくれた両親に尋ねたくとも、ふたりは既にこの世にいない。皆とお揃いの長靴を買いに出かけた鳩のマークの総合スーパーも、とうの昔にY県から撤退しており、村への道しるべを得ることはできなかった。
 私が祖母から託された「織姫様」のお人形は、今も私の手元にある。相方の「彦星様」はきっと……、そう。今も変わらず、「亀宮神社」にいるわね。
 いつかまた、ふたりが会える日は来るかしら。残念ながら、私に「二度目」はなさそうだ。そろそろ、私も「あっち側」に行く時が近いようだから。
「織姫様」のお人形は、柔らかい布にくるんで、桐の小箱に大切に入れましょう。
明日にでも、かわいい孫娘に渡すために──。


   (了)

   《重要なお知らせ》

*この小説(記事)は、2021年9月(9/22~9/28)にみなとせはるが連載した同タイトルの小説を元に、加筆及び修正を行ったものです。

*小説「天の川を探して」は、ミムコさんの企画「妄想レビューから記事」(以下、リンク添付※1)に参加し、ミムコさんの「妄想レビュー♯9」(以下、リンク添付※2)から着想を得て、みなとせはるが作成した物語です。

※1 

※2

 noteの企画である「note創作大賞」参加にあたり、企画者・妄想レビュー#9の制作者であるミムコさんに許諾を得た上で、今回の小説を作成・応募しています。

*トップ画像(ヘッダー)及び物語に挿絵として使用しているイラスト画像については、今回の企画応募のため、ミムコさんに依頼し作成して頂いたものです。

 無断使用及びコピー等は、固くお断りいたします。



いつも応援ありがとうございます🌸 いただいたサポートは、今後の活動に役立てていきます。 現在の目標は、「小説を冊子にしてネット上で小説を読む機会の少ない方々に知ってもらう機会を作る!」ということです。 ☆アイコンイラストは、秋月林檎さんの作品です。