短編小説「夜明けのファンタジア」 第二章:人魚の涙
朝日が薄っすらと空を白く照らす頃、寒気を覚えて目を覚ました。
目を開けると、僕はひとりベッドにいた。
隣にいたはずの彼女はいない。
今度こそ、出て行ったのか……。
枕には彼女の髪の香りが残っているが、彼女の寝ていた場所に触れても、そこは冷え切っている。
僕らの関係は、だいぶ前から終わっていた。
冬の寒さは厳しくて、眠るにもお互いの体温が必要だったから、一緒にいただけだ。
愛なんて、とうの昔から信じちゃいない。
人間が別の人間を愛し続けるんなんて、無理なことだ。
特に女なんてものは、美しく着飾れば男が思いどおりになると分かってる生き物だ。
真っ赤な口紅で縁取った魅惑的な唇から、嘘でも何でも吐き出して、自分の望みのためなら何でもする。
可哀そうだと同情を引きたければ、幼い息子でさえその嘘に加担させる。
血が繋がっていようといまいと、他者のための愛なんてない、自分が一番かわいい生き物だ。
だから、彼女が僕から離れていくのも自然なことだ。
彼女は僕のために色々尽くしてくれたけれど、自分の欲求が満たされなくなれば情熱など消えてしまう。そんなものだ。
ベッドから起き、フローリングに素足を下すと、目の覚めるような冷たさに身を震わせる。
今年の冬はこんなことは一度もなかった。
僕よりも先に起きた彼女が、いつもストーブを焚いていたからだ。
自分の部屋の床が、こんな凍てつくような場所であったことを忘れていた。
早く部屋を暖めようと、石油ストーブに火をつけるためのマッチを探す。
けれど、辺りを見回してもマッチは見当たらない。
いつも彼女はどこにしまっていたのか、見当もつかなかった。
早く見つけなければ、身体が凍えそうだ。
ベッドから毛羽立った古い毛布を引き剥がして上半身に巻き付けても、足元からぞくぞくと体温を奪われていく。まるで、脚に死人の手がいくつも絡みついているようだ。足の指先も悴んでいた。
ひとまず、キッチンの棚を全て開けて、マッチ箱を探す。
引き出しや戸棚を開けると、その度に整然と整理された中身を見ることになった。
僕と彼女の揃いの茶碗。彼女の少し短い箸。並んだ色違いのマグカップ。パンを焼くための小麦粉。僕の夜食用のフリーズドライ食品。新聞や雑誌の切れ端を集めた、彼女のレシピノート。
毎日オムレツを焼く、小さな鉄のフライパンはよく手入れされていた。
彼女の痕跡が現れては、それを封印するように引き出しを閉める。
今は目に入れたくなかった。
やっと、ガスコンロ近くの引き出しから、鳥の絵が描かれた赤いマッチ箱を見つけた。
掌に収まる小さなサイズだが、効果は絶大だ。これで、やっと寒さから解放される。
石油ストーブの元へ行き、床に膝をつくと、点火準備をする。
石油ストーブの正面に付いた金網を開き、点火ダイヤルを回してから、点火部のガラス筒を持ち上げた。あとは、火をつけるだけだ。
マッチ箱の側面を勢いよくマッチで擦ると、太陽のように明るい炎が生まれた。
手を傾けてマッチを横にすると、火は小さくなり、蝋燭の炎のように遠慮がちに灯った。
その時──。
「おはよう」と彼女の声がした。
「朝ごはんにしましょう。なんと、窓辺で育てたミニトマトが収穫できたの! すごいでしょう」
彼女が戻ってきたのかと勢いよく振り返ると、そこには先ほどと変わらない他人みたいな顔したキッチンがあるだけだった。
空耳だったのか。
そう思い、石油ストーブに火をつけようとしたが、手元のマッチの火はいつの間にか消えていた。
もう一度、マッチを擦る。
「あなたのこと、愛してるわ。ねえ……、私のこと、愛してる?」
空耳ではない。
寂しそうな彼女の声が、確かに聞こえた。
そうだ。この声は、そんなに前の彼女じゃない。
そう、秋の終わり頃だ。納得のいく文章が書けなくなったことに苛ついていた僕の背中に彼女が抱きついてきて、この台詞を言った。
僕は、書けなくなったことを彼女のせいにしていた。
そして、彼女の愛も結局は彼女の自己満足のためだと疑った。
それでも、彼女の作る温かい食事や触れることのできる温もりには感謝していたから、僕は「愛しているよ」と返したのだった。
またマッチの火が消えてしまうと、彼女の声の余韻はどこかに消えた。
三本目のマッチを擦る。
「海の向こうに一緒に行きたいわ。新しい世界を知れば、きっとあなたも私も、今とは違うものが生み出せると思うの。例えば、フランスなんてどうかしら」
彼女の声がする。
これは、いつ、どこで彼女が言ったことだ?
記憶を急速に遡る。
あれは、夏? 海だ。海が見える場所……。
──港だ!
なぜだか、彼女がそこにいるような気がした。
海を見渡すことのできる、あの港の公園に。
僕は、マッチの火を吹き消すと、石油ストーブの点火を止めた。
コートを羽織り、ポケットに財布を突っ込むと、外に走り出る。
あの時、僕は何て言った?
「環境を変えたくらいで書けるくらいなら、誰も苦労しないさ。今ここにある痛痒を、僕は表現したい。君は違うの?」
彼女は何と言っていた?
「そう……」
確かそう言って、黙って海を見ていた。
電車を降り、駅から港の公園まで走ると、霙交じりの雨が降り始めた。
先ほどまで顔を出していた太陽は身を隠し、空は重い雨雲で覆われている。
頬や手は刺さるような冷たさの雨に悲鳴を上げているのに、不思議と足だけは動き続けた。
彼女の姿を探して、公園中を走り続けた。
やがて、海のすぐ側にある人魚像に辿り着いた。
公園の中を一通り探したが、彼女の姿は見つけられなかった。朝のこの時間、この天気では人の影さえまばらだ。
「こんなところにいるはずもないか」
海と陸地を隔てる柵に寄りかかり、溜息をつくと、白い息が立ち昇る。
ふと、ブロンズでできた人魚像が、こちらを見ている気がした。
いや、そんなわけがない。
今朝は何だかおかしなことが続いて、僕は正気でないのだ。
「彼女以外に見つめられるのは慣れていないんだ。頼むよ」
人魚像に話しかけても、返事が返ってくるはずもない。
霙交じりの雨は、人魚像の頭上にも容赦なく降り注ぐ。
霙は、人魚の身体に一時留まり、やがて溶けて流れ落ちていった。
僕は、ただ雨が流れ落ちる様を眺めているだけのつもりだった。
しかし、やがてその像から目を離すことができなくなった。
やはり、「彼女」は僕を見ていたのだ。
とめどなく涙を流して、何かを訴える。
『なぜここに来たの』
「……彼女がいると思ったからだよ」
『なぜ彼女を追うの』
「……なぜだろう」
『なぜ泣いているの』
人魚に問われて気付くと、僕も涙を流していた。
涙の通った痕は、温かかった。
──そうか、これが「愛」か。
(完)
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