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連載小説『五月雨の彼女』(最終話)

「そうだ、これだけあんたに渡していくわ。慰謝料の足しにして」
 
 未知華が私の前に差し出したのは、ジュエリー店の小さな紙袋だった。
 
「え、何? すでに別れているなら、慰謝料を請求するつもりはないわ」
 
「いいから、黙って受け取ってよ」
 
 紙袋を強引に押し付けてくる未知華の手を、最初のうちは制していたが、決して引くことのない勢いに根負けした私は、ついにはそれを受け取ってしまう。
 
「もう、何なのよ……」
 
 渋々紙袋の中を覗き込むと、瑠璃色をしたベルベットのリングケースが入っていた。
 
「それ、倫史のりふみさんにもらったものだけど、本当はあんたにあげたかったんじゃないかと思って。ラピスラズリって『瑠璃』ともいうでしょ」
 
 リングケースを開けると、深い青色の宝石が並んだ金色の指輪が、凛としたたたまいで鎮座している。
 イエローゴールドの細身の指輪には、綺麗なオーバルカットが施された一カラットほどのブルーサファイアが中央に据えられており、その左右にはラピスラズリが一粒ずつと、いくつかの小粒のダイヤモンドが連なっていた。サファイアとダイヤモンドを組み合わせた指輪はよくあるが、そこにラピスラズリを加えたものは珍しい。おそらく、倫史が特注した品物なのだろう。
 
「この指輪、いつ倫史さんからもらったの?」
 
「初めて一緒に熱海に入った時よ」
 
──ああ、そうか。と、私は腑に落ちる。
 未知華は勘違いしているようだが、この指輪は私に贈ろうとしたものではない。
 倫史が、利惠さんの代わりに愛した未知華のために用意したものに違いない。
 
 ブルーサファイア、そして、別名「瑠璃」ともいうラピスラズリ。この二つの宝石は、どちらも九月の誕生石だ。
 私の誕生日は、十二月。ラピスラズリは、十二月の誕生石でもあるが、倫史が私の誕生石を気にするなどにわかには信じがたい。ましてや、妻に夫の影であることを望むあの人が、きらびやかな宝石を私に贈ろうとするなど有り得ない。
 倫史がこの指輪をオーダーしたのは、誕生月が九月である前妻の利惠のためだ。更には、倫史と利惠が離婚していなければ、おそらく今年はふたりの結婚二十三年目の「青玉せいぎょく婚式」の年にもあたる。「誠実」「慈愛」という意味を持つサファイアを贈ることに、相当の想いと熱量を込めたことが伝わってくる。
 
「ふっ」
 私は、思わず息を吐くように笑ってしまう。
 
 未知華の存在に気付いてから、加賀原の名を脅かす存在におびえ、苛立いらだち、彼女を追い詰めるよう汚い手回しをして、実際の彼女に会えば、その美しさに嫉妬し、全てが彼女のせいだと憎悪を抱くことさえあった。それなのに、何だか全てが馬鹿らしく思えてしまった。
 
 結局、私の手に入れたかったものは何だったのだろう。未知華が倫史から手を引いたことで、他の家族に彼の不貞を知られる危険性は低くなった。しかし、それで一体、私に何が残ったのだろう。家族や他人から厳しい視線を受けずに済んだ。それは、今までの私の生活を守ったということなのかもしれないが、私と倫史の今の夫婦関係が私の守りたかったものなのだろうか。果たして、その価値があったのだろうか。
 
「何だかよく分からないけど、その指輪、気に入ってくれたんなら良かったわ。じゃあ、今度こそ行くわ。さよなら」
 
 未知華は、テーブルに置かれた伝票の上に千円札を一枚乗せると、椅子から立ち上がり、美しい薄茶色の長い髪をふわりと揺らして去っていった。
 彼女の去り際、「ごめんね。瑠璃加ちゃん」と小さな声が聞こえた気がしたのは、単なる聞き間違いだったのかもしれない。
 
 私は一度ゆっくりと深呼吸をしてから、ぬるくなった水っぽいアイスカフェオレを飲み切り、唇に残った口紅の紅色をペーパーナプキンですっかり拭き取った。
 ハンドバッグと未知華から渡された紙袋を右手でしっかりと握ると、伝票を持ってあの若い男の店員のいるレジへと向かう。
 
「ごめんなさいね。お騒がせして」
 代金を支払いながら店員にびると、「いえ。こちらこそ、失礼してしまってすみません」と見た目の若さに比べてしっかりした声が返ってきた。
 
「あの、実は結構、あなたたちの話を盗み聞きしちゃって。えっと、他人事じゃないっていうか……」
 店員は、私に渡すはずのお釣りを握りしめたまま、遠慮がちに言う。
 
「それは、どういうことかしら?」
 
 私が不思議な顔をして尋ねると、店員は名札を私に見せるようにつまみ上げてからこう答えた。
 
「あの、実は、倫史は一応父親っていうか……。俺、芦見康太よしみこうたっていいます。芦見利惠の息子です。大学がこの近くで、休日はここでバイトしてるんです」
 
「え?」
 予期せぬ告白に、思わず目を見開いてしまう。
 
「あ、でも、勘違いしないでくださいよ! 俺、父親にはずっと会ってないし、この駅が最寄りの大学に行ってることも、ここでバイトしてることも言ってないんです。それに、姉ちゃんもクリスマスプレゼントなんて受け取ってない。母の実家に贈られてきても、全部受け取り拒否してます。あいつは、いつも一方的なんです。母さんも、自分の人生頑張って生きてるし、俺たちはもう、あいつとは関係ないんです。だから、えっと、何が言いたいかって言うと……」
 
 青年は口をもごもごさせながら、首のあたりをいていたが、再び視線を合わせると、握りしめていたお釣りをやっと私に手渡して、こう言った。
 
「だから、あなたも、あなたの人生を歩んでください」
 
 満面の笑みを私に向ける青年は、どことなく倫史の面影を感じさせるが、その目は私をひとりの人間として真っ直ぐに見つめている。決して侮蔑ぶべつを含まない、まっさらなキャンバスのような、夏の青空のような、そんな清々すがすがしさがあった。
 
 カフェの入ったビルから出ると、外はにわか雨になっており、傘がなくとも何とか歩けそうだ。
 駅に向かって歩きながら、スマートフォンに電源を入れると、着信履歴の一番上にある「染谷 篤」に電話をかける。
 二度目のコールが鳴ったところで、染谷氏が電話に出た。
 
「はい、染谷です。加賀原さん、山岸さんと会えましたか? 大丈夫でしたか?」
 電話の向こうで、落ち着きの中にどこか心配が混ざった低い声がする。
 
「ええ、大丈夫。あの子と話はできた。あのね、染谷君に聞きたいことがあるの」
 
「……昔の呼び方で呼ぶなんて、急にどうしたんですか」
 
「十年前、もし私が父に言われるまま結婚しなければ、もし、私があのまま大学に残っていたら、私たち別れずに済んだかしら」
 
 電話の先で、暫しの沈黙が流れたが、十五秒も経たないうちに彼は話し始めた。
 
「……元々、君は研究分野で、僕は弁護士になるための法科。最初から別々の場所にいたのだから、君がどこにいようとそれはあまり関係ないことだよ。僕にとって大事だったのは、君自身が何を選ぶかってことだ。君がお父様を選ぶ限り、きっと結果は変わっていなかったと思うよ」
 
「そうね。きっと私、倫史さんとのお見合いがなくても、父の言いなりだったわね」
 
「急にどうしたの。そんな昔のことを口にするなんて、何かあった?」
 
 弁護士の染谷氏としてではなく、友人の染谷君の声が私を心配しているのが、耳から伝わってくる。
 
「ねえ、染谷君。夕方にでも会えない? これからの手続きのこと、相談したいの」
 
「分かった。一時間後に駅に着くよう、今から事務所を出るよ」
 
 そこまで話して、彼は電話を切った。
 
 駅に向かって歩みを早めると、足元でぴちゃぴちゃと軽快な音がして、小さな泥水の粒が飛び跳ねる。まるで、水の精が私の靴やワンピースの裾に遠慮なく飛び移ろうと、無邪気に遊んでいるようだ。
 不思議と、服や靴を汚すことが全く怖くない。私の紺色のワンピーススーツが雨水に濡れようが、磨いたばかりの革靴が泥水で汚れようがちっとも構わないと、そう思えた。
 
 駅に着いたら、ファッションビルに入って、染谷君が到着するまで買い物をしよう。
 まずは、洋服の専門店。明るい色の心ときめくブラウスを着て、十年ぶりにジーンズも履こう。服を決めたら、それに合うハイヒールを買って、そして、最後に私に似合う口紅を探そう。
 
 私が私を取り戻すために、私はもう一度、私のために選ぶことを始める。
 
(了)


最後まで物語を見届けていただき、ありがとうございました☺️
瑠璃加と未知華。
正反対に見えるふたりの、たった一時間ほどの物語でしたが、楽しんでいただけましたでしょうか。
ふたりの未来は、きっとここから🍀


第一話は、こちらから↓


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