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夕暮れのチャイム

外出の自粛が要請されていたので遠くに出かけることはできず、代わりに朝と夕方に散歩に行く機会が増えた。
お寺や土手を散歩することが多かったが、近所の住宅街を歩くこともあった。
ある日、夕方に歩いていると帰りのチャイムがなった。
季節によって時間が変わるが、今は17時になるんだなあと思った。
いつぶりにこの音を聞いただろうか。
普段この時間帯には帰りのチャイムがならない街にいるので、久しぶりにそのメロディを聞けた。
いつからか帰りのチャイムが全く耳に入らない生活を送っている。
同じ日々を過ごしているはずななのに、チャイムがなっていた頃を生きていた自分と別人になってしまったように感じる。

小学生の頃はチャイムがなったら家に帰らなくてはいけない決まりだった。
夏は6時、冬は4時半にチャイムがなっていたので、冬は極端に遊べる時間が少なかった。
チャイムが4時半になったら季節は冬になったんだという認識をしていた。
あの頃はチャイムが季節を教えてくれていた。
子供の頃は寒さなど関係なく、早く家に帰らなくてはいけないからという理由で冬を嫌っていた。

春を迎えるとチャイムが30分のびて5時まで遊んでいられるので、春が待ちどうしくて仕方なかった。
小学生の春は、何をしたかこれといって記憶がほとんどないが、公園で遊んで帰った、帰り道の記憶は鮮明に記憶されている。
5時に家路につくと、近所には夕ご飯の支度をしている音が鳴っていて、それぞれの家から夕飯の匂いが漏れていた。
ただでさえお腹がペコペコなのに、その匂いや音が空腹を加速させた。
帰り道、近くの家からお肉を焼いている匂いや音がしていて、お肉を食べる気満々で帰ったのにも関わらず、家の夕ご飯が焼き魚だった時は本当に落胆した。
今でも焼き魚がそこまで好きではないのはそういう記憶が残っているからかもしれない。
とにかく小学生の頃の春の記憶は、町の匂いと音だった。
それが大人になるにつれて、花を見て、酒を飲むことが春の記憶に変わった。

自粛期間中散歩をしていると、チャイムの音と共に、家の中から料理をしている音と匂いが聞こえてきた。
久しぶりにあの頃の日常が近くにある気がして、なんだかホッとした。
小学生の頃はあれほどチャイムを嫌っていたのに、今では安心感を覚えるものになってしまった。
小学生の頃は大人が自由に見えて、早く大人になりたいと思っていた。
そうすればチャイムに縛られない自由な生活を送ることができると思っていた。
今はチャイムには縛られていない。
ただチャイムからは解放されたのに、他の何かに縛られている感覚がある。
責任感か社会か。それともただの空想か。その正体はわからない。
その漠然とした縛りが、あの頃の日常を遠ざけてしまったようだ。
夕ご飯を作る音も遠い世界になってしまい、出来合いのものを食べることが多くなった。
お金を稼いで、小学生の頃よりは良いものを食べられるようにもなったし、良い生活もできるようになった。
それにも関わらず、大人になって食べた高級店の料理より、小学生の頃の嫌いな焼き魚を鮮明に覚えているのはなぜだろう。

今はもう通常出社に戻ってきて、17時半にはまだ会社にいる。
次にチャイムを聞けるのはいつだろうか、そしてそのとき私は何を思うのだろうか。
チャイムを聞いて何も思わなくなってしまったら、小学生の頃の自分とは別人になってしまったということだろう。
それは成長の証かもしれないし、廃退の証かもしれない。

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