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花の匂い

 台風で増水した大川をぼんやりと眺めながら、このまま死んでしまえば、棺に竜胆が入らないので、やっぱりやめようと思った。
 日々特に意識して過ごしているわけでもないが、私は花の中で竜胆が一等好きだ。慎ましやかな深い青紫色。それは人間の肌の色、とりわけ私の、日に焼けた黄色い肌よりもいっそうに美しい。青紫のちいさな花の連なりが、硬くしっかりとした枝に揺れる様が不均衡で、地に足をつけて仁王立ちをしているのか、それとも、微風にすら揺れてしまう儚き立ち姿なのか、私には判別しかねている。


 女が上半身を晒して、鏡台に向かっているその背筋の、ゆるやかな曲線を眺めていると、別個の生命体として確かに目の前で動いているこの女も、いつか簡単に死ぬものだろうかと不思議に思われた。昇り始めた朝の光線に晒された白い肌が、みずみずしく珠の汗を浮かべ、執拗に白粉を塗り込めているその様は、確かに生きているものであるが、これがこの先において、棺の中で花に囲まれる日が、ほんとうに必ず、来るのだろうか。

 首を晒して白粉を掃き、ついで紅をとって、という流れる動作を見届けているところで、女は私に気がつき、鏡越しにちらりと目をくれた。
「何を考えているんです」
あいさつもなく、平坦な声は愛想がないが、それが嫌悪であるわけではない。この女は、そういった類の声かもしくは、作り込まれた(ように思われるほど普段とは色の違う)高い声しか、出さない性分であると、私は知っている。
「いや、今日も暑くなりそうだと思って」
まさか、この女が死ぬところを想像したなどと、そんなことを馬鹿正直に言えるはずもない。枕元に投げてあった煙草に手を伸ばせば、朝一番の蝉がけたたましく、開け放たれた縁側の向こうで鳴き始めた。
「こう毎日暑いといやになりますね」
髪を整える仕草。女は私に目もくれないが、私とは違う生命体として、私のほとんど予期できない動きを見せる。うつ伏せに転がりかえて、返事もせずに煙を呑んでいると、あらかた化粧も終えたのか、女はついに私に振り返った。蚊帳をちょいとめくる白い指先の、まばゆい色がぬっと目の前に現れる。
「……怠惰だこと」
「うん。君は勤勉に生きているね」
ちょっと首をかしげてこちらを覗き込むのは、女の癖のようなものだ。その癖ひとつとっても、他の女にはあったかもしれないが、私には確かにないもので、どうしてそうやって女が私を覗き込むのか、理由なんぞ当の本人だってわからないだろう。
 女は、ちょっと潜めた眉をあからさまにしながら、張りのある肌を恥じらいもなく晒している。何気なく手を引いてやろうと手を伸ばしてみても、日のない時とは打って変わって流麗な動作であしらわれるのがいつものことだった。数刻前のとけるような熱と、肢体のしなやかな動きはまるで別の生命であるのだというように動く女の身体と、その意識が、私にはいつだって面白いのでつい戯れを働こうと思うのだが、女はどれほどその機微をわかっているのか、わからない。
「朝のお支度をします。あなた、まだ寝ている気ね」
「うん。だめかい」
「起きる気もないくせに」
伸びた髭の具合を指の腹で確かめている間に、女はさっと立ち上がって、着物を整え始めた。見知った橙の、華々しい銘仙が、私の意思とは関係なく正しい手順で肌を隠していく。
「君のその、着物の色は、暑そうだ」
「そんなこと言ったって知りませんよ」
「気に入りかい」
「新しい気に入りができるまでは、そうね」
そこで女は私に、しっかりと根を張った、そして正しくない笑みを投げる。
「……やっぱり君は勤勉だよ」
「ではあなたはやっぱり怠惰です」
もう一度戻ってきた女は、蚊帳の中に身を乗り出して、あからさまに不平そうな表情をした。崩れかけた煙草を私の手からもぎ取って、灰皿に押し付ける。
「着物のひとつくらい買ってくれる甲斐性を見してください」
「うん、きっとね」
はぐらかしたわけではないつもりだが、女の表情がころころと変わる様を見ていたくて、ついこういった口を働いてしまう。思った通り女は、今度はほとほと呆れた、というような顔をして、今度こそ立ち上がって行ってしまった。
 もうひとくち、と煙草に火を付ける。着物を買ってやることは満更でもないが、ああ言った手前、女に似合いの色柄はどれだろうとしばらく頭を悩ました。そうしてまた灰が崩れるまで、私の知る女の身の動かし方や、手つきや、話すことや、声の色を、ぼんやりと反芻していた。


 ──女には結局、着物を買ってやらなかった。女が、女の意思をもって、身体を動かし声を発する動作をやめてしまう日が、ほんとうに来てしまうものだと、私はどこかで信じていなかったのかもしれない。いつ買ってやってもよかったのだが、ただ理由もなく先延ばしにしているうちに、女は死んでしまった。

 先に見た女は、色の抜けた肌を幾本もの百合の花に囲ませていた。花の蕊と纏わされた紅の色、それからあの橙の着物が色を主張する。女は、当然動かなかった。首をかしげる仕草も、平坦な声色も、もう二度と蘇ることがない。その当然のことが、信じられないように思われた。女は、私の意思も関せず勝手に今までだって動いていたのだから、これからも勝手に動いていそうな気が、どうにもしているけれど、私がこうして川面を眺めているその随分と前には、もう灰となっている。
 ごうごうと激しい大川の水音が耳に押し寄せて、あの情景につきまとう、強烈な百合の匂いが急激に蘇る。女に買ってやるつもりだったのは確かに、百合の柄の着物であった。紫紺地に白百合の銘仙。しかし彼女に似合うと思っていたのはその花の柄の方ではなくて、きっと地の色の方だったに違いない。
 棺の花は毒だったのだろう。むせ返る匂いが鼻の奥をいまだに痛めている。その匂いを思い起こされるたびに、私は死へと招かれているような気分になる。そんなことは、女の一存ではなかっただろうに。けれど女だって、もう少し待てば、百合なんかではない花を棺に詰めてやれる季節になっていたのだ。それをやすやすと、夏の間に死んでしまうものだから。
 吸殻を大川に落とすと、一瞬でどこかへ消えてしまった。この流れの速さなら、少しは苦しむだろうが確実に死ねるだろう。思考を行ったり来たりさせながら川面を眺めていたけれど、私はやっぱり棺に竜胆を入れてもらわねばならない気持ちがして、欄干に凭せていた重い身体を引き起こした。


盛岡デミタスさんのアドベントカレンダー(2020)寄稿です


下記の書籍にも収録しています。


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