第九話 災 難
私は、悠々自適の生活を楽しんでいる。
やっとである。
舅姑に仕え、娘二人を嫁がせ、舅姑の介護をし看取り、やっと夫婦二人でゆっくり過ごせると思っていた矢先に夫を亡くした。
そこへ早くに未亡人になっていた母が痴呆を発症した為、嫁ぎ先の家は夫の弟家族に譲り、母の介護の為に実家に引っ越してきて大変な介護の末、母を看取った。
やっと、生まれ育った懐かしい実家で悠々自適と言える生活をしているのである。
長年、放置していた畑で自分が食べる分だけの野菜を作り、単調な毎日をちまちまと楽しんでいる。
単調で穏やかな毎日に楽しい刺激を与えてくれるのが都会から帰省する娘家族だ。
その日は、孫の食い初めの祝いをわが家ですることになっていた。
その幸せな日に、弟から聞いたのか、いそいそと松子がやって来た。
迷惑だ。
不快だ。
何の役にも立たないうえにご祝儀の一つも包んでくるという常識や配慮すらないのだ。
何しにやって来たのだ。
松子は、もうすぐ六十になる弟の彼女だ。
数年前に離婚した弟は、高校時代の同級生で×1子連れ松子と再会し何故か交際を始めたのだ。
弟も弟だ。
今日は、来るなと言わなかったのか。
しかも、二十五歳のマザコン息子とセットでやって来たのだからたまらない。
「お忙しいでしょうから、お手伝いしたげよう思って来てあげたよ。」
『したげよう』『来てあげた』とは、相変わらず日本語をきちんと話せない松子である。
お前が何の役に立つというのだ。
「邪魔さえしないでくれたら、それで充分です。二階に上がって、下りて来ないでちょうだいね。お膳はあなたたちの分は用意してませんからね。」
本来、私は気遣いの遠慮しいの人間だ。
腹が立つ事があっても口にしない。
しかし、松子に対しては、言うしかないのだ。
普通の人に対する様に接していては、松子には伝わらないのだ。
その証拠に、
「またまたぁ。お姉さん、そんなに遠慮しないでくださいよぉ。ちゃんとお祝いの席に着きますよ。お祝いは人数が多い方がいいですからね。だから、わざわざ、洋ちゃんも連れて来てあげたんですよ。私たち、よそいきも着てきたし、ねっ。」
と、洋ちゃんことマザコン息子と目を合わせて頷き合っている。
って、よそいきって、その中学生が着そうなテロンテロンのミニスカートがよそいきですかっ!と呆れている間に松子は台所に入り込んで
「わぁ、綺麗。美味しそう。」
と、私の作った料理に舌なめずりしている。
そして、何か手伝うとしつこく言う。
何かってあんたに出来る事は一つもないし、料理も全部仕上げてある。
が、あまりにもしつこいので頭をひねり考えた挙句、上の孫が、コーンの入ったサラダを好んで食べていたことを思い出し、
「とうもろこしとアスパラのサラダを作るから下準備をしておいて。」
と言い放ち、私は着物を着る為に二階の自分の部屋へ行った。
今日の為に新しい帯を買ったのだ。帯を眺め幸せな気分になったが、ふと思いついて、私は襖を開け首だけ出し階下に向かって叫んだ。
「松子さん、袴をちゃんと取ってよ。」
松子のことだ、アスパラを切れと言われたらそのままザクザク切るだけに違いない。
「袴を忘れないでよ。」
と、もう一度叫び、着付けに没頭していたら
「姉さん、俺も着物、着なあかんのか。」
と、弟が声をかけてきた。
はあ?あんたも松子のアホがうつったのか。
昨夜、着る服を準備したではないか。何を今更言っているのか。
「昨日、服、決めたやろ。」
と、イライラしながら答えると
「マッチャンが、姉さんが着物着るように言うたって、今、和ダンスゴソゴソしてるで。」
「はぁ?何言うてんの。そんなこと一言も言うてません。あんたは、昨日決めた服!松子とあの子は二階におらせてよ。」
そこへ松子が、
「お姉さーん、リュウの袴どこですかぁ。探したけど、わかんないですぅ。」
「誰が袴を着ろと言ったの・・・。」
いや、それ以前に『リュウ』ってなんやの。
弟の名前は龍也。
た・つ・や。
私には『達也さん』と言うべきでしょ。
高校時代のニックネームで『リュウ』『マッチャン』と呼び合うのはあんたらの勝手やけど、私に言うんはおかしいやろ。
私にならまだしも他人様の前でもおかまいなしのあんたらは、中学生のバカップルか。
我が弟ながら情けないと怒りつつ、何故、着物を着ろと言われたとなったのか考える。
「あっ!あんた、さっき私が言った袴を・・・。ばかっ!アスパラの袴をちゃんと処理しなさいと言ったのよ。」
「アスパラの袴って?なあに?」
何故、ここで首を傾げながら「なあに」とぶりっ子する必要があるのだ。
?顔の松子に
「もういい。とうもろこしだけしといてっ。」
と言い放ち、ピシャリと襖を閉めて着付けに戻る。
久しぶりに着るし、新しい帯は体に馴染んでないのでしめにくい。
汗をかきかき何とか結べたところへ
「お姉さん、とうもろこしの粒、全部取ったよ。」
と、襖を開けつつ松子が自慢げに言った。
こいつは、ホンマに礼儀知らずな奴だ。
襖だからノックは出来ないが、こちらは着替え中とわかっているのだから、開ける前に声をかけろよ。
と思っているうちに、すでに部屋の中央の私のそばまで来ていて
「わぁ、綺麗な帯。真っ白で綺麗ねぇ。」
と、私のお太鼓を撫でている。手、洗ったんやろな。
とうもろこしを付けてないやろかとビクビクしながら鏡を見る。
お太鼓とそれに張り付くように見ている松子が映る。
「うん?」
今、帯に何か汚れが見えた。
お太鼓の天井側のちょうど真ん中。
少し体をよじり、鏡を見る。
「うん?何か赤茶色のような・・・。光の具合か?」
光がよく当たるようにさらに向きを変えてみると赤い丸い点が表れた。
何だ?
視線をお太鼓の背の部分に動かすとお太鼓を覗き込んでいる松子の顔が同時に視界に入った。
「えっ!鼻血?あんた鼻血出てる!」
松子の鼻からテクテクと血が垂れている。えっ!帯の汚れって
「ちょっと、あんた、帯に血付けたんちゃうやろねっ。」
と、私が叫んだら
「あ、付いてるぅ。」
と、呑気に言いつつ、松子は血を垂らしながらティッシュペーパーを取り、帯をこすり始めた。
「ちょっと、やめてよ。」
「でもぉ、薄くなったよ、良かったね。」
って、あんたが動く都度、血がテクテクとあちこちに。
「自分の鼻押さえなさい。動くな!」
私は、汗だくになりやっと結んだ帯を慌てて解く。
はぁぁぁぁぁ!やっぱり帯の真ん中にしっかり血の染みができている。
「どうしてくれるの!これ、真っ新なのよ。今日の為に買って、高かったし。第一、今日の帯がないじゃない。どうしてくれるの!呼んでもいないのにノコノコ息子まで連れてやって来て、挙句がこれかっ!あんた、私に何の恨みがあんの。アホにも程がある。自分の鼻から血が出てんのも気ぃ付かんのか。とにかく、この帯は弁償してもらいますからね。
ああ!もう、私は今日どうしたらいいのっ。」
わめき、嘆く私に
「お姉さん、他にも帯持ってるやん。」
と、呑気に言う松子に余計に腹が立つ。
「あんたは、ホンマに謝ることもできんねんな。あんたは、教養ないからわからんやろけど、帯と着物は合う合わへんがあるし季節もあるし、とにかく、今日は私の大事な孫のお祝いなのよ。新しい帯で祝おうと思っていたのに。帰って。二度とこの家には来ないで。出入り禁止!さあ、早く帰って。」
「バカみたい。アホくさ。」
松子の言葉に、私の血管はブチっと切れ、頭のてっぺんから叫んだ。
「出て行けーーーーーーーーーーーっ!早く出て行け!今すぐ帰れ。二度と来るな。二度と私に顔見せるな。」
飛んで来た弟がまず目にしたのは、血をボタボタ流している松子だったらしい。
「どうしたん?」
松子に寄りながら心配そうに声をかける弟にさらに腹が立つ。
「その鼻血で私の真っ新の帯を血だらけにした!」
私は怒鳴る。
「鼻血ちゃうぞ。鼻、切ってるぞ。」
「へっ?」
私の口から勝手に素っ頓狂な声が出た。
鼻を切ってる?鼻を切るってどうやって?
松子のバカが鼻を強く押さえた為に切り口が開いたのだろう。
どんどん血が溢れている。
そこへ
「どうしたんですかぁ?」
と、呑気にマザコン息子がやって来た。そして、血を流している松子を見て
「ママ、ママ、どうしたん?ママ、しっかりしてぇ。死なないで。」
と、おいおい泣き出した。
本当に鬱陶しい。
私が呆れている間にマザコン息子は救急車を呼んでしまった。
救急車を呼ぶほどではないだろうが、もう電話をしてしまったものは仕方がない。
「ママが、ママが顔から血を出して、血だらけで死にそうなんですぅ。」
と、電話口で泣いている。
本来なら、私はどんなに嫌いな人でも怪我や病気であればそのことに関しては同情する気持ちを持ち合わせているが、松子親子に関しては怒りしか湧いてこない。
救急車に乗り込む松子に
「もう、来ないでね!病院からそのまま帰ってね。」
と、冷たく言い放ちマザコン息子に一緒に救急車に乗って行けと言ったのだが、救急隊員は、おろおろ泣いているひょろ長い奴では役に立たないと判断したらしく弟に一緒に乗るように言った。
気のいい弟は咄嗟に拒否する言葉も見つけられず救急車に乗り込んだ。
救急車を泣きながら見送っているマザコン息子に呆れながら
「あんた、病院に行ってそのままお母さんと帰りなさい。あんたのお母さんは、今までも腹立つことあったけど、今日はもう取り返しのつかんとんでもない事をしてくれたから、もうこの家には出入り禁止です。あんたもサッサと帰って。」
と言う私をマザコン息子はいつものごとく返事もせず、ボーと見つめている。
やっと口を開いたと思ったら
「僕、どうやって帰ったらいいんですかぁ。」
はぁ、たまらんわ。
「知らんがな。早、この家から出て行って。」
何かもごもご呟いているマザコン息子を玄関に残し、私は台所へ行った。
救急隊員が、松子の鼻を見て、ナイフか包丁で切ったのではないかと言ったら、松子は、包丁を使っている時に鼻に当たったと答えていたので、台所が気がかりだ。
包丁でどうやって鼻を切る?
指ならわかる、鼻だ。
まあ、確かに松子の鼻は大きい。
いわゆる鷲鼻などとは違う。
大きいのだ。
いや、目と口と歯まで小さいから鼻が大きく見えるのか。
いやいや、やはり大きい。
松子の鼻は大きい。
しかしだ、どうやって包丁で鼻を切るのか不思議でならない。
第一だ、何故、切ったことに気付かないのだ。
痛くはないのか。
などと思いながら台所に入りまず祝い善の料理を見たが、今朝準備したままで安心・・・・血だ。
ゲー、ゲゲゲー。
気持ち悪い。
料理のあちこちに点々と血が付いている。
気持ち悪い。
こんな物食べられない。
よく見れば血の付いていない部分もありそうだが、目に見えないだけで付いているかも知れない。
もったいないし悔しいし腹が立つが全部捨てよう。
もう一時間もすれば娘家族がやってくる。
今から作る時間も体力も気力も材料もない。
娘たちがやって来たら鯛を睨んで乾杯だけしよう。
今更、仕出しを注文しても間に合わないだろうからお寿司でもとろうと考えながら、料理を全部ゴミ袋に放り込む。
「もう、ムカつくわ。」
「もったいないわあ。」
「このお肉高かったのに。」
「松子、絶対に許せないっ。」
苛立ちが勝手に口から出る。
怒りに任せ料理を勢いよくゴミ袋に放り込んでいたら、ドンッ!ガッシャーン!と激しい音がした。
何?何の音?え?何が起こったの?
台所から恐る恐る首だけ出し、右を見る。
右正面には玄関が見えるのだが、今見えるのは車の後ろ姿。
車がガバッと見事に玄関にはまり込んでいる。
私の車だ。
一体、何が起こったのだ。
どういうこと?
恐る恐る玄関に近付く。
やはり、私の車だ。
きっちりと玄関に車の後ろがはまり込んでいる。
そっと車の中を覗く。
後部座席を通り越し運転席へ視線を動かすとマザコン息子と目が合った。
えっ?どういう事?
呆然としていると台所から娘が飛び出して来た。
「お母さん!お母さん、大丈夫?」
たった今、着いた娘は玄関に車が刺さっているのを見て、私が運転を誤ったのだと慌てて駆け寄ると見知らぬ男が運転席にいたので、
泥棒か何かと思い私の身を案じ台所の勝手口から入って来たら、私が玄関で呆然と突っ立ていたのだ。
その間に、娘婿は110番通報したらしい。
警察への対応、玄関にピッタリ挟まった車を動かす為に業者への依頼など全て娘婿に任せ私は居間で三才になる孫と今日の主役の赤ん坊を遊ばせながら娘に今日の出来事をまくし立てた。
ようやく、事の顛末を話し終え、娘婿の尽力のお陰で玄関から車が抜かれた時、弟が松子を連れノコノコ帰って来た。
「二度と顔を見せるなと言うたやろ。玄関の敷居はまたがせません。」
と、松子に怒鳴り、
「あんたもあんたや。よう連れて帰って来たな。」
と、弟に言うと、松子が弟の腕に絡みつきながら
「お姉さん、リュウを怒らんといてぇなぁ。洋ちゃんが心配やったから・・・。」
「マザコン息子は警察です。」
「えっ?」
「えっやないわ。見てわからんか。あんたが今立ってるそこっ!玄関壊されたんや。」
「玄関壊したくらいで、洋ちゃんを警察に突き出すんですかっ!」
逆ギレか。
玄関壊したくらいて。
怒り心頭の私に代わり娘婿が簡単に起きた事を説明すると
「良かったあ。洋ちゃんは無事なんですね。保険で直せますから心配いりませんよ。」
と、平然としている松子。
まず、謝れよっ!
本当に謝ることをしない女だ。
それに、保険って。
何の保険や?
『マザコン息子がアホな事して弁償する時に使える保険』が存在するとは思えないが
「保険って、どういうことかしら。何にせよ車と玄関の修理代はあんたの息子に、帯はあんたに弁償してもらいますからね。」
と言うと、松子は
「車は保険に入ってるでしょ。交通事故だから車の保険が使えるから心配いりません。」
と、上から言う。
「車の保険は年齢制限があります。しかも家族限定!あんたらは家族ちゃうから使えません。それに、あんたの息子は勝手に車の鍵を持ち出して運転したのだから盗難届けを出しました。だいたい、あんたは本当に図々しいわね。私の保険を使おうだなんて。仮に使えても使わせませんよ。どっちにしろ、保険は使えないの!わかったっ?」
「ひどぉーい。盗難届けって。それじゃあ洋ちゃんがどろぼうみたいじゃん。」
じゃんって。
じゃんって何?
みたいじゃなくてどろぼうですと心の中で言い
「とにかく、帰って。二度と顔見せないで。龍也、二度とこの親子をうちに入れないで。私に会わせないで。別れなさい、この女と付き合うんはやめなさいと言いたいけれど、六十のおっさん捕まえて言うんもアホらしい。私は、自分の弟がアホの大馬鹿で情けないだけです。この女と付き合い続けるなら出て行きなさい。今すぐ。」
女には逆らわないのが身の為と学習している弟は、私に言い返せないし松子にも何も言えない。見かねた娘婿が
「ま、ま、お母さん、今日のところは、こちらの方は息子さんが警察にいるのだから、警察に行っていただいて。おじさんのことは、また、おいおいでいいのではないですか。」
と、とりなす。それを受けて松子がまた弟の腕に自分の腕を巻き付けながら
「リュウ、洋ちゃんが心配だから警察に行こうよ。」
と、言う。
「あんただけでどうぞ。龍也は今から我が家の祝い事がありますから。」
と、私は松子が腕を絡み付けていない方の弟の腕を引っ張り
「せっかくとりなしてもらったんだから、あんたがここにいることは、今日は認めます。早上がんなさい。」
と弟に言い、松子には、
「早帰って。」
おろおろする弟に
「おじさん、今日のところは、こちらの方だけで警察に行っていただいたらどうですか。もうすぐ、玄関の修理の人も来はるし、車の修理もどうするかとか色々あるしおじさんにはいてもらわないと。」
と、またもや娘婿が助け舟を出してくれる。
松子がぐずるのでバス停まで弟が送って行くということで話しは落ち着いた。
「はぁ、やっと邪魔者は消えた。ご苦労さんでしたね。ありがとう。」
頼りになる娘婿をねぎらう。
「あのバカ女がお料理をダメにしてしまって本当に悔しいわ。すごいご馳走を作ってたのよ。また改めてお祝いしましょうね。今日のところは鯛で乾杯してお寿司でもとりましょう。」
と、台所に行くと鯛がない。
そういえば、鯛をずっと見ていない。
表の座敷に運んだのかと見に行ったがない。
もう一度台所に戻った私は、ガスレンジに懐かしい大鍋が乗っているのを見た。
棚の奥にしまい込んだままもう何年もいや何十年も使っていない大鍋。
私が学生の頃、我が家は大家族だった。
祖父母がいて両親、父の妹である叔母もいて食べ盛りの私と弟がいた。
叔母の婚約者もよく来ていたし叔父一家や父の職場の人たちも集まり食卓には常に十人はいた。
その時代、母がよくこの大鍋で煮物を作っていた。
四十年以上も昔の話しである。
あの頃、この家は賑やかでまさかここに一人きりで住むことになるなんて考えもしなかった・・・・
などと感傷に浸っている場合ではない。
一体、何故この大鍋がここにあるのだ。
誰が引っ張りだして来たのだろう。
とりあえず、蓋を開けてみた。
たっぷりの黒い液体の中で、にらみ鯛が泳いでいた。
尾が立つように爪楊枝をさされたまま煮付けられ、皮がめくれ白い身が見えている。
私は、大鍋の蓋を持ったまま気を失った。
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