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「明るい遺書」と言う言葉

1年に1度の健康診断に向かう電車の中でこのnoteを書いているのだけれど、40分立ちっぱなしでやっと座ることができた。久しぶりに通勤時間帯の電車に乗ったけれど、電車ってこんなに疲弊するものだったっけ…。ぐったりしすぎて検査結果に影響する気がする。

まぁ、そんなことはどうでもいいのだけれど。

健康診断の日に、捉え方によっては物騒な感じのnoteを書いているのだけれど、
心身に不調があって心配だとか、そう言うことではない。

昨日、こんな記事を読んだ。

「中川翔子 明るい遺書だったSNS」

中川翔子さん、しょこたんはご本人曰く「ずっと真夜中の感覚」の時にブログを始めたようで、その時からポジティブなことしか書かないと決めていたらしい。

それは、「呪いの言葉」ではなくて「前向きなこと」を残しておきたいと思ったからだそうだ。

「これが好き」とか「これがいい」とかポジティブなことしか書かない。それをマイルールにしたんです。
 そう決めたのは、ブログを“明るい遺書”としてやろうと思ったからです。「これを書き残して死んだ場合、この“呪いの言葉”を人が見たら『うわ、暗い…』『キモッ』と思うだろうな」と考えて。せめて残るものには「これが好きだった」と前向きなことを残しておきたい。
(中川翔子さん インタビューより抜粋)

あぁ、わかるなぁと思った。

私はnoteは匿名で、身バレしたくないなぁと思いながら書いているのだけれど、
その反面、身バレしてもいいように意識して書いてもいる。
特に、家族や親しい友人に読まれてもいいように。

何というか、私が元気なうちは絶対に読んでほしくないのだけれど、もし私が意思疎通ができないような状態になってしまった時には、このnoteを見つけて読んでほしいと思いながら書いている。

その時に、「うわー、何か気取った文章書いてるなー。」という意味でお互いに?恥ずかしい思いをするのは許容できる。

だけど、暗い気分になって欲しくはない。呪いの言葉は残したくないのだ。

私が面と向かって伝えられなかった感謝とか、私が日々どんな思いで暮らしていたかというのは、残してしまったかもしれない人たちに届いて欲しいと思う。
だけど、私の辛かったこととか、苦しかったこととか、恨み言とか、そう言ったものは届いて欲しくないと思うのだ。

以前、姉に対する葛藤を書いたことがあって、消した方がいいかなと思ったこともあったのだけれど、結局そのままにしてある。
家族には、きっとちゃんと伝わる。

本音を言えば、重たい話を明るく書けるようになりたい。
同じように苦しんでいる誰かの救いとなるような文章を書きたいとも思う。

そう言う素晴らしい文章を書ける人達がnoteにはたくさんいて、羨ましくて仕方ないこともあるけれど。

とりあえず私は私のまま、ネットの海にそっと言葉を残していこうと思う。

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