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【掌編小説】うちそと

前話:鰻 / 次話:コスモスの約束

 着信音で、目が覚めた。
 
 手探りで枕元の携帯を取る。午前三時。
 
 なぜか出なければいけない気がして、通話ボタンを押した。
 
 風が、鳴っていた。
 
 風の中に微かな声が混じっている。
 
『……ユ……し……ユカ……わた、し……』
 
「ヒマリ? ヒマリなの?」
 
 頭が沸騰し、全身の血の気が引く。はやく電話を切れと本能が告げている。でも、わたしの手は携帯にはりついたように動かない。
 
 ……三年前のことだ。
 
 わたしが中学二年生の春、父の仕事の都合で、わたしたち家族はあの島に引っ越した。本土とは橋でつながっているから離島というわけでもないが、新しいクラスメートは皆、垢抜あかぬけないように見えた。
 
 その中にひとりだけ、はっとするほど美しい子がいた。ナギサという名前だった。
 
 同じ制服を着ているのに、ナギサだけはどこのお嬢様学校の生徒かと思うほど都会的で、上品な雰囲気があった。この子と友達になりたいと思った。
 
 ナギサにはヒマリという親友がいた。ヒマリは島っ子のクラスメートの中でも、とりわけじみなタイプの子だった。
 
 ナギサとヒマリは、転校生のわたしを受け入れてくれた。でも、すっかり打ち解けたように見えても、ナギサとヒマリの間には、わたしの知らない時間の地層があった。それは時折、ふたりの会話や目交めまぜのうちに揺らめき、わたしを妙にいらいらさせた。
 
 わたしは最初、ヒマリをナギサのお付きのような存在だと思っていた。ところが、実際は違っていた。ナギサの方が、むしろヒマリに依存していた。付き合ってみると、確かにヒマリは思慮深く、しっかりした性格だった。ヒマリは時に姉のような態度でナギサに意見を言ったが、ナギサは嫌がるどころか、かえって喜んでいるように見えた。
 
 わたしは、だんだんヒマリが邪魔になってきた。そこで、ある計画を立てた。
 
 ――岩屋で肝試きもだめししない?
 
 三人のLINEグループで、わたしはそう提案したのだ。
 
 島には〈岩屋いわや〉と呼ばれる海食洞かいしょくどうがあるのだが、その最奥にあるほこらに関する都市伝説じみた言い伝えを、島に来て早々、わたしは聞いていた。
 
 その夜、わたしたちは親に内緒で集まり、岩屋の中に入った。自ら進んで懐中電灯係りになったわたしは、左手に懐中電灯を持ち、右手でナギサの左手を握っていた。ナギサの右手は、ヒマリが握っていた。 
 
「ユカ、もう戻ろうよ。夜中にあの祠に近づいちゃいけないんだよ」
 右の壁際から、ヒマリの声が響いた。「向こう・・・へ連れ去られるんだって」
「向こうってどこよ」わたしは鼻で笑うと、右手に力を込めた。「ナギサも、そんな話信じてるの?」
 迷信深い島っ子と見られるのをナギサがひどく嫌うのを、わたしは知っていた。
「ううん」
 ナギサは案の定、いやいやをするように首を振った。
「だよね。ヒマリ、怖いならひとりで戻ってもいいよ」
 わたしが突き放すように言うと、ヒマリはもう何も言わなかった。
 
 やがて、祠に着いた。祠を囲むように太い木の柵があった。
 
 柵はさかいなのだろう。どちらかが内側・・で、どちらかが外側・・
 
「ほら、ただの迷信だったでしょう」
 
 わたしはわざと一旦ナギサの手を離した。ナギサとヒマリもつられたように、互いの手を離した。今だと思った。
 
「————!」
 
 いきなり悲鳴が上がった。
 
 何かを見たと叫び、ナギサの手だけを握って一目散に逃げる。闇の中にひとり置き去りにされたヒマリは、さぞやみじめにあわてふためくことだろう。いつも落ち着き払っているヒマリに恥をかかせてやること。それが、わたしの計画だったのだ。
 
 ところが、本来わたしが上げるつもりだった悲鳴を、ふたりのどちらかが先に上げてしまったため、わたしは混乱した。ナギサのいる方向に腕を伸ばし、指に触れた手をとっさにつかむと、後も見ずに走った。
 
 ……それからの記憶は、ひどく曖昧あいまいだ。
 
 ヒマリは結局、戻ってこなかった。中学生の女の子がひとり消えたのだから、島中大騒ぎになったはずなのに、わたしは当時のことをうまく思い出せない。
 
 一つ確かなのは、あの晩を境に、ナギサとも疎遠そえんになったということ。わたしは、ふたりの友達を同時に失ってしまったのだ。
 
 中学を卒業した後、わたしは両親の元を離れ、本土の親戚の家から高校へ通っている。
 
 島には、めったに帰らない。島は、わたしにとって忘れたい過去だから。
 
 ――でも、本当にそうだったのだろうか。
 
 携帯を持っている右手。三年前、確かにナギサの手を摑んだはずの右手に、今じっとりと汗が滲んでいる。
 
 あれは、ナギサの手だったのだろうか。
 
『ユカ……やっと……』
 
 一番忘れたい友達の声を、わたしの耳が覚えていた。身体は逃げたいのに、耳は声にすがろうとする。
 
「ヒマリも外に出られたのね。よかった」
 
『外は……内で……向こう……だよ』
 
 携帯が、手から落ちた。
 
 わたしは、摑んでいたものをようやく離したのだ。
 
 乱れた髪が頬にまつわる。
 
 真っ暗な風の中に、わたしはひとり立っていた。

                           (了)

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