【掌編小説】コスモスの約束
月めくりのカレンダーをめくる。
旅先にまで持ってきてしまった。
カレンダーの、今日の日の余白に目を落とす。
「一緒に旅行に行こうよ」
それは、ここ数年のわたしたちの間の合言葉みたいだった。顔を合わせる度に、同じセリフが互いの口から出た。
ノートパソコンの前に顔を寄せあって、わたしたちは「二人で行く旅行の目的地」について議論した。
「あ、ここがいい!」
そう言ったのは、あなただった。
一面のコスモスが、秋の風に揺れていた。
わたしたちは大学時代からの親友だった。ふたりとも第二外国語で中国語を履修していたから、「閨密」という語を覚えて、ふたりだけの暗号みたいに使っていた。
クイ・ミー。なんだか新種の熱帯魚みたいだ。
結論を言ってしまえば、わたしたちがコスモスの咲き乱れる場所へ一緒に旅行することはなかった。
大学を卒業した後、別々の会社に就職したわたしたちは、お互い忙しかった。
連絡は毎日取り合っていたし、仕事の後で待ち合わせして食事したり、休日一緒に映画を観たり、互いの部屋に遊びに行ったりもしたけれど、それでもやっぱりそれぞれの会社にいる時間が生活の中心だった。自分の世界が広がっていくようで、仕事が面白くもあった。
「一緒に旅行に行こうよ」
わたしたちは同じ言葉を繰り返した。
毎日のLINEのやり取りの中で。お気に入りのレストランで食事をしながら。あまり観客のいない映画館で古い映画を観ながら。互いの部屋を訪ね、香りのいいお茶を飲みながら。
「今年こそ、絶対に行くよ。絶対!」
あなたがきっぱりと言い切ったのは、今年の春だった。近くの公園の桜が満開だった。
その時、あなたはわたしの部屋にいた。一緒にNetflixの海外ドラマを観ていた。
「うん」わたしがマグカップを口に運びながら頷くと、
「それがだめなんだって」あなたは厳粛な顔で言った。
「だめ? 何が?」いきなりのダメ出しに、わたしはびっくりして顔を上げた。
「口で言うだけじゃ、だめなの」
「じゃあ、どうすればいいの?」
あなたはボールペンを手に取り、わたしの卓上カレンダーをめくり始めた。
「ここ。この日、わたしたちはコスモスを見に行く」
※※※※※
ホテルにチェックインした後、わたしは荷物の中から小さなカレンダーを取り出すと、ベッドに腰掛けてそれをめくった。
今日の日の余白に、あなたの字とコスモスのイラストが書き込まれている。イラストは、お世辞にもうまくない。
カレンダーをベッドサイドテーブルに立てて、部屋を出た。
小さな林の中の道を歩いていく。やがて道が上りになり、息が少し乱れた。いや、乱れた気がしただけだったのかもしれない。
突然、ぱあっと視界が開けた。
パソコンの画面で見たよりも、十倍も百倍も美しい景色が広がっていた。
やわらかな日差しが降り注ぎ、やさしい風が髪をなぶる。
どうしてもっとはやくこなかったんだろう。時間なんて、本当はどうにでも都合がついたはずなのに。
わたしは泣いた。泣いたのだと思う。体が水のように透き通っていく気がして、どこまでが体でどこからが涙なのか、自分でもよくわからなかった。
世界は、とても静かだった。日差しが降り注ぎ、風がわたしを包んだ。コスモスが揺れ、わたしも揺れた。
そう言えば、さっきのホテルも妙に静かだったとわたしは水のような心で思う。ちゃんとチェックインしたはずなのに、フロント係の顔もよく思い出せない。いや、フロントに誰かいただろうか。そもそもどうやってここまで来たんだっけ?
光や風が、わたしの体の中を通り過ぎていく。なんだか眠くなってきた。このまま陽だまりの猫みたいに丸くなって寝てしまおうかしら……
――コスモスの海が、風にそよいでいる。
(了)
※「シロクマ文芸部」に参加いたします。
※見出し画像は、「みんなのフォトギャラリー」の「まりっか」さんの素敵な写真を使用させていただきました。