「だらしなくなれる」けど「リラックスできない」

■ あるコメント

 昔のHDDのデータを整理していると、自分が少しでも気になった言葉を逐一書き留めた数年前のテキストファイルが出てきた。懐かしく眺めていると、ある文章に目が止まった。それは、何の動画だったかはすっかり忘れてしまったが、Youtubeのコメント欄で見つけたものだったことだけは覚えている。今回のテーマに該当する部分以外もなかなか癖が強くて面白かったので、全文そのまま引用する。

これなんだよなあ、日本人に無いのはさ。 
根底にある基本がないんだ。実際の仕組みを知らないんだ。
自分の頭の中にある想像力を知らないんだ。
キョロキョロして誰かの基本を持ってきて改造するんだよ。
何故って? 会話する能力がないし、会話を許さない社会環境だからさ。
想像力は会話を基本にして芽を出す能力だからさ。

多分、会話を許してしまうと日本の社会環境が破壊されてしまうんじゃないかなあ。 コンピュータやインターネットの専門化のような顔をしてテレビに顔を出している日本人でも本当の仕組みは知らないんだ。
まあ、タクシーや、トラックの運転手だね。指示する人の命令の通りに行くだけなんだ。 多分、1から10まで教わって、日本はアメリカの言うとおりに日本を運営しているだけなんだ。 だから、貧しいんだよ。経済的にも、生活環境的にも、精神的にもさ。 そして、その実態を知らない。 柵の中に居る家畜には知りようが無いしさ。 

日本の若い人の頭の中なんて、ぶっ固いよお。年寄りよりも固くて、古いよお。リラックス出来ないんだよ。だらしなくはなれるんだけど、リラックスは出来ないんだよなあ。多分、自由ってのがないんだよな。本当のさ。柵の中を歩き回るのは自由じゃないよ。
 
平成28年6月25日(土曜日)曇り 28℃ 午前11:56 世田谷区より。?

 丁寧にコメントの日付やコメント主の住所まで書かれている特徴的なコメントだった。日本にオリジナリティのある想像力が足りないと言う批判も一部わかるような気がするが、私が引っかかったのはそこよりも「だらしなくはなれるけど、リラックスはできない」と言う部分だ。何かわかる気がする。

■ 「だらしない」と「リラックスする」の違い

 「だらしない」と言うのは、「節度がない」とか「しまりがない」と言う意味で、「しっかりするべき時にしっかりしない」という意味合いが強いように思う。力を抜くことで問題が発生するが、それでも力を抜いてしまう。そう言うイメージを持つ。

 一方で「リラックスする」と言うのは「精神や肉体の緊張をほぐして、ゆったりする」ことであり、「和らぐ」ことだ。力を抜くことで、安らぎを得たり、それによってより良いパフォーマンスにつなげたりすることができる。そう言うイメージだ。

 このことを踏まえた上で自分について考えてみると、私は休みでも完全にリラックスすることができない。休むことに何か罪の意識のようなものを常に感じてしまって、微弱なストレスをずっと感じでしまう。休むことで、何か良い方向に自分を持っていけると言う確信がない。何か新しいことを試そうと言う余裕もない。安らがなくて自由じゃない。 逆に全力を出すべきところで、だらしなくなることも多い。全力を出さないことで、その結果に言い訳ができることを経験的に知っているため、無意識に力を抜こうとするのだ。テスト前に片付けをしたくなるアレだ。心理学的に名前までついていて、「セルフ・ハンディキャッピング」という。


■ 本質的な問題は何か

 私のこの問題を、一言で言ってしまえば「切り替えができない」ということだと思う。頑張るところを頑張りきり、休むところを休みきる。この切り替えができない。OnとOffがお互いに侵食し合っている。主にこうなっている原因は、絶望的に感じている未来への不安が心の中に常駐していることが大きいと思う。だから、健全な楽観主義を身につけなければならないのかもしれない。が、言うのは簡単、もう10年以上抱えてきたこの不安を簡単に心から追い払うことはできそうにない。 なんだかそうやって考えてみると、自分に自信がなくて不安で、ストレスが永遠と続いて、リラックスできない、自由でない感じは、休みの過ごし方って言うレベルじゃなくて、これまでの人生でずっと感じてきたものだと思う。だからもっと根本的でシリアスな問題だ。わかっちゃいるけど、なんともならない。そう言う一番厄介な問題だ。

皆さんは、同じような悩みを持っているだろうか。そして、どうやってこの問題に取り組んでいるだろうか。 ぜひ教えて欲しい。




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