記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

夏目漱石の「こころ」はメンヘラの私にとって負の感情の着火剤

教科書の教材として国語の教科書に載っていることがある夏目漱石の「こころ」
私の地域ではこころが題材として載った教科書は使われなかったため触れて来なかった。
同じく読書感想文の推薦図書には選ばれていたが、私は選ばなかった。

そんな学生時代を経て、今になって読んでみた。

これは、メンヘラにとって負の感情の着火剤な気がした。

※かなり偏った見方をしています
※内容が悪いとかではなく、メンヘラの私が読むには辛いという話です

※重大なネタバレをするので注意

負の感情の着火剤

こころを読み切るのは、正直とてもしんどかった。
どうしても、気持ち悪さを感じてしまって嫌だった。

時代背景が違うから、理解し辛いことも仕方ない部分はもちろんある。
例えば、大学の卒業祝いをしようと話をしていた時に明治天皇がご病気になったというニュースを聞いて「やめよう」となるところ。
昔の日本人は国への忠誠心がかなり高いことを歴史の教科書で習ってはいたが、ここまでなのかと私は驚いた。

こうした時代の違いについては受け入れられる。

ただ、人間の嫌な部分について書かれたところ、そして何が言いたいのか?というところについてはメンヘラの私にとって辛いものがあった。

  • 主人公が浮世離れした人に惹かれるところ

  • 主人公が就職を回避しようとすることばかり考えるところ

  • 先生の遺書の後半部分と結末

主人公が浮世離れした人に惹かれるところ

これは私が痛い思いをしたからかもしれませんが・・・。

仕事をせず、資産で生きているという生き方はかなり珍しいですよね。

しかも出会った時には当時はまだ珍しかった西洋人を連れていたり

どこか人を寄せ付けない雰囲気を持ち、実の妻から「昔はあぁではなかった」と評されていてミステリアスな空気感があって

そして、大学を出て学問を追い求めている姿はあるのに、自分は世の中に出てはいけないと言って自罰的に自分のことを捉えている。

しかし自分が追いかけるように関わろうとすれば、関わってくれる。
しかも意味ありげな言葉を返してきて、なんだか自分よりも大人な雰囲気を纏っているように感じてしまう。

心を閉ざした人に魅力を感じてしまった描写が様々な形で書かれている。

これ、メンヘラだった私から見るとすごく共感するんですよね。

影のある人が魅力的に映り、汚れた世間に嫌気がさした"汚れていない大人"に見える。
そして子供である自分にとって新しい刺激をくれる。
本当なら、自分に新しい刺激をもたらすのは年齢も性別も人種すら関係ないのに、その時にピタッとはまる人が出てきたら、"この人だけが"という気持ちになってしまう。

先生はたまたま、主人公にとって直接的な害を与える人ではなかったから良かったものの、悪い人だったらどうなっていただろうか?
そういう、無警戒が故の危うさが感じられた。

結局、先生は別に悪い人ではなかった。

ただ「最後に誰かを信用したい。あなたはその信用できる人になってくれるだろうか」という言葉を学生に言い放つところ

自分の自殺をするための遺書を主人公に送りつけておいて「妻には何に悩んでいたのか言わないで」と辛いことを主人公に背負わせたところ

そして妻はKを自殺に追いやった罪を持っている(嫉妬させるようなことをするから結婚の申し込みを焦らされた)という匂わせを主人公にするが、妻本人にKのことをどう思っているのか確認しない卑怯なところ

これらの描写からは、少なくとも精神的に健全な大人だとは感じられなかった。

自分のために他人に苦労を背負わせて、自分はとっとと楽になるなんてあんまりではないか?

私はこれだけ苦しんでいるのだから許して欲しいというような生き方も、私はどうかと感じる。
(これは、私にも当てはまるところだからこそ、もどかしくなる)

これは悪意が自分に向いているだけで、他人に怒鳴り散らして言うことを聞かせよう、自分が優位に立とうとする人と、本質は変わらないのでは?とすら感じた。

けど、これは今の私だからであって、絶賛メンヘラ中の私であれば先生にかなり共感をしていたと思う。

しかし、影のある人って魅力的だよね、というメンヘラの弱った心を刺激するようなところが、私は負の感情の着火剤な気がした。

世を汚いものとして感じてしまうのは当然!!、折り合いをつけられなくて生き辛いのに共感!!みたいに、自分のメンヘラを変に肯定させる要素になると感じた。

これを見たのが今の自分で良かった。
絶賛メンヘラ中の時に見ていたら、たぶん、ずぶずぶ沼にハマってしまっていたと思う。

主人公が就職を回避しようとすることばかり考えるところ

主人公は東京に出て都会の楽しさに夢中。

就職について両親から話をされると、もっと勉強がしたいと逃げることしか考えていない。

友達が就職先の紹介をしようとしてきたら、経済的に困っていないから別の人にと言って自分は就職に対して動くつもりはない。

経済的に困っていないのは、自分の両親がお金を出してくれるからで、決して自分で稼いでいるわけではないのに。

「東京の方が就職先が良いところが見つかるから、仕送りを続けて欲しい」と、お金を両親からもらおうとするところだけはちゃっかりしている。

両親が就職することを望んでいるのは理解しているが、期待されても困るという心情がずっと書かれている。

両親は、まぁ普通の人に感じた。
主人公の性格を考えずに卒業祝いに近所の人を招いてお祝いをしようと言った時に嫌がる主人公に対し、勉強をすると理屈っぽくなると言って、自分のエゴを押し付ける父親はどうかと思うけど。
母親は慕っている先生(母親は会ったことがない人)に就職口のあてがないか相談しなさいと勧めるが、これも昔の日本はお互いが助け合いながら生き、結婚相手も近所の人が世話をしてというのが当然なので、理解できる。

だからこそ取り立てて毒親とかでもないのに、病で倒れた父親があと2~3日はまだ生きれそうということを確認したら、先生の元に向かうところに私は複雑な気持ちになった。

確かに、先生が亡くなったということが示唆されているから仕方ない部分もあることは理解できる。
まだ父親は生きているから、既に亡くなった人に駆けつけるのは当然だという倫理的な観点もあるとは思う。

けど恐らく、倫理的にどうとかではなく、それだけ主人公は先生を大切に思っていたから先生の元に向かったのだと感じた。

けどそれは、自分にとって耳の痛いことを言ううざったい両親よりも、自分にとってミステリアスで興味の惹かれるものを優先した、
子供がつい、お買い物の途中でおもちゃやお菓子に興味を持ってしまったような衝動的なもののように感じた。

私は自分のことをモノのように今でも扱ってくる、虐待を散々してきた両親のことを憎んでいる。
だから両親と友達が同時に危篤になったら、迷わず友達の方に行く。
この感覚は正常だと思っている。

しかし、この主人公についてはどうだろうか?と疑問に思う。
なぜそう思うのかと言うと、前述した通り"先生は果たして主人公のことをどれだけ大切に思っていたのか"疑問を感じる人物だからだ。

私は先生が、心の弱った部分に付け入って支配しようとしてきた性加害者と重なって見えてしまって仕方がない。
虐待されて傷ついてきたことを隠しながら生きてきたことを見抜き、そしてその部分について共感し慰めてくれた加害者に対して私は信頼を感じていた。
しかし、実際のところはそうした優しい態度は、ただ性加害という目的のためのものでしかなかったことを突き付けられて目が覚めた。
私は無知であり、心が弱っていて正常な判断ができなかったが故に完全に騙されていたのだった。

"相手が傷つくことなんてどうでもいい"として、ただ自分のためだけに関わり、自分は大人であるという立場を示しながらものを言い、常に自分にとって優位な立場で関わるということしか考えない。

そういうところが、先生と性加害者はそっくりのように感じる。

そんな厭らしさに気付かず、あともう少ししか生きた時間を共に過ごすことができない父親を置いて先生の元に駆けつけてしまうのは、何とも言えない気持ちになった。

現実に起きている問題と向き合うことをせず、自分を理解してくれるもの、自分の興味の惹かれるものにいってしまうのは仕方ない(主人公らしい性質)という表現は、
メンヘラにとっては「自分の憧れに一直線でいることの何が悪いの?」「大切な人というのは血の繋がりや時間で決まらない」みたいな、ロマンチックな思想(他人に支配されやすい危険思想)を加速させる着火剤になる気がした。

先生の遺書の後半部分と結末

先生の遺書の前半部分は「自分のコミュニティにぼっちの子を誘ったら、その子の方が上手く馴染んで自分の居場所がなくなったような気がした」ような、そういう感じ。
苦いような酸っぱいような、子供の頃に似たようなことがあったような気がする、人間関係の微妙さが書かれていた。

問題は、後半の三角関係からの友人の自殺と先生の自殺について。

三角関係については仕方がないと思う。
主人公の取った行動も(多少の悪意があったものの)全てが本当の悪という訳ではない。
ライバルに「彼女のことを諦めろよ」と言うのも、抜け駆けして先に告白(こころでは結婚の申し込み)するのも、まぁあるだろう。

ただ、そのライバルが「自分は信念に反して恋心を抱いてしまった」と悩んでいたことを知っていたことが問題だった。
自分のしたい勉強をするために養父にも実親にも勘当されたという悲しい経験を持っていた苦学生のKに「養父たちを騙してまで勉強した道を恋のために諦めるの?」と罪悪感に付け込むようなことも言った。
しかも自分の口からは結婚のことを言わないという、卑怯なことをした。
Kはかなり堅物な人間だと、先生は知っていたのに。

小さな悪い事が重なると、大きな出来事になるということは、まさにこのこと。
先生の友達Kは、友達だと思っていた先生に裏切られたと思ったことが主な自殺の原因になった。

Kにとって、恋心を抱くというのは自分の信念に反していた。
(昔の日本ならではの時代背景もあるのかもですが)
そんなの人間なのだから、心がコントロールできないのは仕方がないじゃない?と私は思うが、それを許せないのが堅物のKだった。
養父たちに勘当されることも経験して、自分は絶対に道を諦めてはいけないと固く自分に誓っていたからこそ、とても悩んでいた。

他人から見るとどうでもいい悩みでも、本人にとっては真剣なことはよくあることで、この描写もまさにそれだったのだと思う。

先生は"自分は孤独だ"と言っていたが、本当に孤独だったのはKだ。

・片思いの相手は自分の親友と結婚をする→自分ばかりが舞い上がってバカみたいだ。
・自分が恋心を打ち明けた時に諦めろと言った親友は片思いの相手と結婚する→自分の恋心を知っていて、どうして何も言ってくれなかったの?
・下宿先の奥さんは嬉しそうに親友と娘の結婚について話す→奥さんは自分の心情に気付かない。
・養父も実親とも縁が切れている。

自分は一体なんだったんだろう?と強い孤独を感じたのではないだろうか。
被害者ぶっているように見える先生は、遺書の中でも最後まで卑怯だったように感じる。

しかし、あまりにもこれは先生が可哀想だと思った。

先生はKに対して向き合うこともできず、罪悪感を抱きながら苦しみ生きていた。
先述した通り、先生の行動は大きな悪意はなかった。
小さな掛け違いが重なった結果、Kにとって厳しい現実になってしまったに過ぎない。
だからこそ、先生の苦しみとKの命をかけるには釣り合いが取れていなさすぎるから、かなり胸糞。

Kにしたことはどうかと思うけど、その時の行動は先生の生涯を苦しめるほどのことだろうか?と思ってしまうのだ。

些細なことが人の命を奪うこともあるというのは、私は身をもって知っている。
虐待、いじめ、パワハラ、性被害を経験して、何度そうしようと思ったことか。
ほんの些細な、いつもならスルーできることも、心が疲弊している時はそれがきっかけになったりする。
それも、私はとてもよく理解している。

そう考えると、先生は確かにKを傷つけて背中を押してしまったのかもしれない。
けど明らかに悪意がないことが分かるからこそ、すれ違いだったからこそ、すごくKのしたことの方が重たく感じてしまう。

そして先生はKへの罪悪感に苦しみながら自殺を選んだ。
自分は叔父に遺産を騙し取られるという傷つき体験をしているに関わらず、自分こそKを傷つける側に回ってしまった。
それが罪悪感の大きなところだった。

絶賛メンヘラ中の時に見ていたら、恐らく私はKに感情移入しすぎていたと思う。(今もKにしか感情移入できない)
"些細なことがきっかけで、そっちを選ぶのは変なことじゃない"、"繊細な心を理解せず傷つけられる辛さが常人にはどうせ理解できない"というメンヘラの怒りや苦しみに対しての着火剤になりそうな気がした。

しかし先生の苦しみもまた、"些細なことだと思っていたのに人を傷つけてしまった自分は幸せになって良いのだろうかと葛藤している自分"や"人を傷つけた汚い自分"というのもメンヘラという生き方に美点を感じてしまう着火剤になりそうな気がする。

元メンヘラは多感な時期に読むことは勧めない

私はこころを読んだ後、すぐに感じた感情は怒りだった。

この本の言いたいことは何だったのか?
私が受けた印象は「誰しも人を傷つける側に簡単に回ってしまう」だった。
これは事実なのだけど、メンヘラにとってはかなり負の感情を刺激される言葉なんですよね。

メンヘラは「私を傷つけないで」という気持ちが強い性質があると思っている。
嫌な言い方をすれば、被害に敏感なので、自分が加害者だと言われることは許せない一面があると思っている。

そういうメンヘラにとって、誰でも加害者になるという言葉は「はぁ?私は被害ばかりですけど」という怒りしか感じない。
けど、そういう私だって加害者だったことはある。

現実として誰でも加害者になることがあるなんて、当たり前なわけです。

そして大多数の人が「被害者になると大変だから、できれば加害者にもならないように中立でいるけど、必要なら加害者になるよ」という感じでしょ?

学校はこころを題材に取り扱って、何を教えているの?
誰でも加害者になることはあるよ、だから人を慮ろうとか言うの?
そもそも私は、教師に自殺未遂するほど嫌がらせをされましたけど?

この本の言いたいことと、自分が経験した学校の実態が合っていなさ過ぎて、多感な時期にこの文章を読まされたら、心に傷を負った子は変に負の感情を刺激されるんじゃないかと思った。

この文章が理解できる思春期の時期なんて、積極的に加害者になる人は既に"加害者マインド"が出来上がっているから、こんな文章を見たって響かないんじゃない?

大多数の被害者にも加害者にもならなくて済んで来た人たちには「ふーん」って感じ。
積極的に加害者になる人たちにいたっては、Kのことも先生のことも見下して笑いながら読むだろうよ。

最近のアニメや漫画でも、かなり心情がリアルに描かれているものは確かにある。
しかし、こころの中に出てきた出来事は多くの人が感じたことがあったり、どこかで見たことのある身近なことがほとんどだからこそ、ダメージが大きいのでは?と感じた。しかも、結末は自殺だし。

こんなに生々しくてキツイ文章を、場所によっては強制的に読まされることがあるのかと思うと、私はすごく辛くなった。

心が弱っている人には、本当にこの本は勧めない。
言葉の書き方とかは面白いのだけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?