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無理やり傷を抱えさせられた時に、腹を括らないといけないこと

世の中は理不尽だ。

この先の文章は、"ある日突然、理不尽に傷つけられ、日常に生き辛さを抱えさせられることになった人"はどんな心情なのか、そして決定的に欠けてしまうことは何か、そんな人にたった1つ覚悟を決めないといけないことは何かについて書きます。

ある日突然、平穏は奪われることがある

私はある日突然、平穏を奪われたことが何度かある。

いじめだったり、性被害だったり、パワハラだったりと様々ある。

元々、両親や親族から虐待されていたことを考えると、そもそも私には平穏なんてなかったのかもしれないが、
私のミリ単位くらいあった平穏を潰したきっかけは、間違いなく小学生時代のいじめが始まりだ。

わずかな平穏がなくなってしまえば、私の心はあっという間に壊れた。
周りは毎日学校に来ているのだから死んでいないと判断して、無遠慮に「死ねばいいのに」「お前に価値なんてない」と平気で言う。
こいつらの名前を遺書に書いて死んでやろう、自分の命と引き換えに、こいつらの人生をめちゃくちゃにしてやりたいと毎日思っていた。

肉体が動いていれば、他人は"その人は生きている"と平気で判断する。
心を壊されたせいで精神に異常をきたしても、それは加害者のせいではなく被害者自身のせいにされる。

加害者は何のお咎めもなく、ただ私は自殺願望を持つ、異常な人だと決めつけられてしまった。

小学生という責任能力のない状態で、悪気なく100%悪意を振りかざした加害者たちによって"死にたいと思うくらいの傷"を抱えさせられてしまったのだ。

そして、今でもふと思い返しては、その時の傷はうずくし、たまに夢にも見る。
それくらい深い傷になり、私は今もカウンセリングに通っている。
けど、加害者には何のお咎めもない。

その後も、責任能力が本来あるはずの人たちから深い傷を何度も負わされることがあった。
けど、加害者には私が納得いくようなお咎めはない。

気付けば、ただ傷を抱えさせられたまま、癒されることがない自分だけが残っていた。

平穏を奪われたら、奪われる前には戻れない

ここで残酷なことを1つ伝える。

それは、"平穏を奪われたら、奪われる前には戻れない"ということだ。

私は複雑性PTSDの治療のためカウンセリングに通い続けている。

私の複雑性PTSDの症状の一例として、性被害にあった時のことがフラッシュバックをした時は、身体が硬直するし、男性とすれ違うことに強い恐怖を抱くし、呼吸が乱れるし、下腹部に痛みが出たりする。

どうしてそうなるとかというと、簡単に言えば被害を受けた時の出来事が、私の中で過去の記憶になっていないからだ。

恐怖や屈辱、悔しさ、痛みなどの感情や感覚が今の出来事のようによみがえってくる。

自分の何がいけなかったのだろう?と、出て来ることのない問いを延々と繰り返しながら、当時の感情や感覚を何度も思い出しては感じる。
これが、トラウマのしんどいところ。

多かれ少なかれ、人それぞれ思い出すと胸が痛む記憶があると思う。
その記憶を思い出した時に「あぁ、嫌だったなぁ」で終わらせることができるのは、その出来事はすでに過去の記憶になっているからだ。

私のように、今もまだリアルに感情や感覚がふとした時に思い起こされるようなトラウマを抱えている人にとっては、まずは出来事を過去の記憶にすることが重要になる。

そして厄介なのが、感情や感覚が蘇らないようになったとしても、記憶や出来事は消すことができないということだ。

平穏を奪われたら、奪われる前には戻れない

私たちは、"それ"を経験してしまえば、"それ"を経験しなかった自分に戻ることはできない。

出来事は事実として残るし、忘れない限り記憶として、自分の中に留まり続ける。
一個人の軽率な悪意によって、一生涯苦しまなくてはいけない理不尽さを押し付けられる。
傷をつけられた人は、傷を抱えていく覚悟を決めることを余儀なくされるのだ。

腹を括る

傷ついた人は、たった1つ覚悟を決めないといけないことがある。

それは、"傷を抱えたことを認めて、それを含めて生きていく覚悟"だ。

何でこんな目にあわないといけないのか!?と考えているうちは、過去にはできない。
傷ついた人にとっては死に値するくらい苦しいことだが、出来事を現実にあったことだと認めてしまうしかない。

いつも突然に、私たちは誰しもが理不尽に遭うことがある可能性を抱えていて、たまたまそれが降りかかってきたのだ。
例え、あなたに原因があったとしても、その原因を理由に攻撃する気を起こす人が周りにいなければ攻撃されることはない。

たまたま、偶然、理不尽にも、不運にも、不幸が降りかかってしまうことがまかり通るのだ。

だからこそ、その出来事が起こったことに、"どうして私が?"とか"あの人には起こっていないのに!!なんで!?"とか、理由を求めても仕方ない。
被害者が納得できるような理由を、加害者が持ち合わせていることは決してないのだから。

"自然とそうなる"が、なによりも大事

嫌な出来事をただの記憶にするというのは、言ってしまえば、嫌な出来事という濃厚な味のするガムを、ただの味のしないガムにしてしまうことだ。

もうほとんど味がなくなっているのに、ほのかに残っている味を敏感に感じ取るのを止めて、新しいお菓子を探す方に目を向けるためにガムを捨てることが、生きていくには必要な過程になる。

ようは「前を見ろ」「これからが大事」「人生はいつだってやり直せる」ということだ。

私はこれらの言葉が大嫌いだったし、理解できなかった。
けど、のたうち回って苦しみぬいた先で待ち受けているのは、結局は上記のような心境なのだ。

そういう意味で、これらの言葉の価値は回復していく過程で嫌でも気づくことになるだろう。

しかし「笑う門には福来るだよ、笑いなよ」とか「被害者ぶるの止めなよ」とか「感謝をしなよ。もっと苦しんでいる人はいるよ」とか、傷ついた心境を理解しようとしない人の言葉は無価値なので、なるべく聞き入れない努力をすることが大切だ。

既に傷ついた人を追い詰めるようなことを言って、よくなるはずがない。
むしろ無理をすると、余計にトラウマの傷が深くなるので、とっととそんな人とは縁を切ってしまおう。

何か小細工しなくても、安全な場所を確保してその中で過ごしていけば、人は自然と心に余裕ができる。

その余裕ができた時、人は自然と「自分は変わってしまった部分はあるが、そのことと未来は関係ない」と思えるようになる。

否応なく自分の背中にのしかかり、背後に迫って来る苦しみや憎しみ、理不尽に対して、なるべく早く覚悟を決めて対応できた順番に苦しみから解放されていく。

最後にもう一度言う。
"傷を見て見ぬふりをするのではなく、傷があるのも自分だと思って生きていくこと"が、傷つけられた人に求められる覚悟だ。


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