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音楽とLGBTQ+と同窓会

昨日、同窓会的なところにいってきた。とはいっても同級生に合うわけじゃない。ある時期を一緒に過ごしたであろう人たちと、あってきた。

それは有名なハウスDJ SHINKAWAの30周年記念パーティだった。SNSを通して連絡を取り合っていたそのDJから、是非来て下さいねといわれた。20代にずっと追っかけのようにパーティに参加していたDJなので、そのパーティはとっても楽しみだった。

恐らく30年前に流行った曲がかかる。30年前に見たシーンがある。それを確認したくって前日から寝れなかったぐらいだ。

場所はLGBTQ+タウンである新宿2丁目のクラブ「isotope」であった。ジャンルはハードハウスから、多幸感のある歌モノまでかかる。

そもそも、ハウスミュージックはゲイカルチャーと近い場所にある。シカゴで古いローランドのリズムボックスのビートと、ソウルミュージックを合わせることで産まれたハウスは、ブラックゲイミュージックとしての原点をもつ。

その後、NY、イギリス、東京と飛び火したハウスミュージックは、新宿2丁目のゲイコミュニティにも受け入れられ、俗にいうゲイ箱というメンズオンリーのクラブでかかることが多くなっていった。

基本はシカゴで産まれた音からソウルな雰囲気を取りのぞき、もっとミニマルでハードな男らしいサウンド、ハードハウスが新宿では流行った、しかし一方で、朝4時頃を過ぎると、多幸感のある歌モノがかかり、ゲイの乙女性を刺激するのだった。

新宿2丁目のクラブでは、音楽にあわせて踊るGOGO BOYSという人達がいて、パンツ一枚で鍛え上げた肉体をくねくねして踊るというパフォーマンスがある。みんな短髪で、かれらのことをゲイのジャンルで「ガチムチ系」という。

わたしはちょうど30年前、友達のそれもわかりやすいガチムチのゲイの子に誘われて、友達たちと新宿2丁目のクラブ「Bar Delight」に行っていた。そこで出逢ったのが、今回のパーティの主催者であるDJの新川君と、GOGO BOYSたちだった。

通常この手のクラブはゲイオンリーだけど、たまにミックスといわれる、ノンケや女性(ゲイを追っかけてるからオコゲといわれてる)も来ていい日があって、その日に合わせて通ってた。もちろんわたしはゲイでもない、そのときはノンケの男の子だった。

DJのかける多幸感サウンドに魅了されたわたしは、毎週のようにクラブに通ってた。べつに男の子に恋心はもたないけど、GOGO BOYSは、自分が中性的な人間だったがからか、余計にすごく男子で憧れた。

その頃、まだLGBTQ+なんて言葉はなかったけど、まったくそういうのには関係ないテクノがかかるクラブができて、そっちにも行くようになる。そこで偶然であった女の子と仲良くなって、結局、一緒に暮らし結婚をして、こどもを作ることになる。

夫婦そろってクラブキッズだ。こどもを置いてクラブには行けない。結局、こどもが出来たことで、そのDJの追っかけは出来なくなってしまった。子連れでいけるところをさがしてると、ちょうどその頃イギリスから入ってきた、レイブパーティ、いまでいうところのフェスの走りみたいなものが始まっていた。

クラブ仲間も家庭を持つ人が増えて、キャンプ場でゲリラ的に行われるレイブパーティには保母さんがいるキッズエリアがあることもあった。わたしたちは家族でレイブに通うようになる。

レイブでかかる曲は、当時2つのジャンルがおおかった。ゴアトランスとプログレッシブハウスだ。これらはLGBTQ+というより、ドラッグとの繋がりが強かった。

ゴアトランスはインドのゴアというリゾートで生まれた音楽で、大麻とつながってる。エコファッションというかヒッピー風の人達が大麻を吸いながら、淡々と刻まれるリズムに体を揺らす。

プログレッシブハウスはイギリス人の若者のリゾートである、スペインのイビザ島でかかってる曲が多かった。基本ブリティッシュロックを原点にしたようなオールジャンルで歌モノがおおいのだけど、別名アフターアワーズといあわれるように、早朝のキャンプ場の朝焼けにあう多幸感のあるサウンドがかかるところが特徴だ。ドラッグはエクスタシーが多かった。

ちなみにわたしはこどもがいたので万一の子とを考えてドラッグはほとんどやってない。決めてなくても音だけで飛べる特技があったから大丈夫w。

この頃、LGBTQ+とはまったく関係がなかった。ただ、ホワイトカラー、ブルーカラーと分類されるなら、イエローカラーとかレインボーカラーといわれるような、クリエターとして格好勝手なカッコをしていた。髪も超ロングにしたり、ショートにしたりして、一度もスーツをきて仕事をしたことがなかった。スーツに吐き気さえ覚えていた。ディレクターになったときは打ち合わせのときだけオンジャケットだったけど、ジーパンのままだったし、打ち合わせがないときは短パンとビーチサンダルで会社に行ったりしてた。なにか、ステレオタイプな男性像にしっくりこない感はどこか感じていて、自分らしいカッコを常に模索してた様な気がする。

独立して会社を作り、こどもを産んでくれた妻とは別れて、あたらしパートナーと引き取ったこどもと3人で暮らし、いろいろあったけどこどもは無事大人になって自立した。そしたら、ある意味ビジネスパートナーだった後妻ともお互い自立することして家族解散することにした。

話は戻るが、じつはLGBTQ+との出会いはこのクラブ活動が最初じゃない。6年遡ることハタチのとき、大学の同級生に恋をした。上京したわたしの家に友達があつまりご飯を食べた後、その彼女はうちに泊まって行くって言った。チャンスと思ってドキドキしてたら、みんなが帰ったあと彼女に言われた、「わたし、女の子が好きなの…」彼女はレズビアンだった。その後がまずかった。「でも、あなたは大丈夫かも…」そんなことない、試して見たけどダメだった。

どうすればいいのかわからなくなった自分は、インターネットもない時代に、唯一あった別冊宝島のレズビアンのドキュメンタリー本を買った、目がさらになるぐらいよんで、その世界を理解して出した結論は、自分が女になるしかないかもしれない…しかし当時、性転換してる人といえば、カルーセル麻紀さんだけだった。いまでいうオネェの走りだった人達は、基本的に男性が好きだから性転換したり、女性のカッコをするのだ。女性に好かれたいから女性になるなんて聴いたこともない。

結局彼女とはその後ソウルメイトとして、彼女の失恋話に付き合わされることになる。そういう関係が、結婚するまで続いたのだった。それがまだなかったLGBTQ+という世界との出会いだった。

離婚して、仕事を棚卸しして、新規事業を模索した。それがいつのまにか自分探しになる。これまで書いた様な思いでを引きだしからだし、そういえば随分前からLGBTQ+なる世界と関係があったんだなぁと思った。そして、なんで自分だいわゆる男性社会とうまく馴染めず、だからおじさんとして上から目線で仕事をするのが苦手で、そんなことしてる暇があったら、友達と美味しいスイーツを食べに行ってるほうが楽しいことの訳をさがしていった。

この頃は踊る元気もなくなっていて、エレクトロニカとよばれる、オーディオスポンジ〜新生YMOがかけてたような、緩やかな音響系の音楽ばかり聴いていた。

物心ついたころから、高校卒業までイジメをうけてて、学校の友達と馴染めなかったこと。大体部活では、唯一の男子部員だったりすることが多かったこと。男の子がとても苦手で、女子と連んでるほうが気楽だったこと、などなどつらつら考えてたら、ハタチのと彼女から言われた言葉に引っかかった。

「あなたなら、大丈夫かも…」

結局どうやら、自分は男子じゃないのかもしれないと思った。男子じゃなければ女子なのか、自問自答した。すくなくとも女子として生きていったほうが楽で楽しそうな気がした。ガチガチの男子が女子になるのは難しいかもしれないけど、もともと中性的に生きてた自分が、人生の後半を女子モードで生きてみることはできるんじゃないかなと思った。

そもそも、自分がこれからおじいさんになることがどうしても想像できなかった。なぜかおばあさんになった自分は想像できる。男性更年期で男性機能がなくなっていたこと、それなのに、男性特有な加齢臭や薄毛が始まってることも生理的に許せなかった。こどもをもう一人欲しいともおもわないし、男性機能なんてあるほうがストレスが溜まるとおもってたので、解決するには男性ホルモンを補充するより女性ホルモンを補充することのほうが理にかなってるような気がした。

結局、わたしは女だったんだ。結論はでた。あとは早い。わたしはインターネットのプロだ。数日ないに、どうすれば、女性を取り戻せるのか、その為には誰にあえばいいのかわかった。

そしてコロナが始まった…

女性化サイトなる有料サイトにお金を支払い、女性化のためのステップを完全に把握した。ホルモン剤も海外から個人輸入した。声とメイクとコーデがポイントだと思い、コロナでおやすみしている乙女塾に面談の連絡だけ入れ、返事をまった。その間、Amazonで切れそうなレディースの服を買ってみた。

そしてその3ヶ月後には診断書を手に入れ、ホルモン治療を婦人科での注射に切り換え、ツーブロックのロングだった髪を伸ばすため美容師さんにカミングアウトしてタッグを組んだ。

乙女塾はコロナが少しおちついたところで再開し、緊張しながらも受講し、ボイスレッスンとメイクレッスンを受け、気がついてたらスタッフになっていた。

性別移行のペースが速すぎる。半年後にはフルタイムで女性として暮らしてた。

覚悟がきまって元気になったときに、昔聴いた新川くんのDJやGOGOBOYSを聴きたくなってきた。しかしすでに女子になってるわたしはゲイクラブにはいれない。

おそろおそるSNSで新川くんに連絡をとり、事情を説明したら、思いっきり男装して見てもいいよ。そのかわりちゃんと男装してね。と連絡がああった。長くなった髪をジェルで固めてキャップの中にしまい、ダボダボTシャツに短パンといういかにもゲイ風なカッコで、むかしかよったDelightと同名の(経営はちがうらしい)クラブに行ってみた。

そこには30年前の姿があった。違うのは新川君が新川さんになっていて、彼もわたしも老けたことだけだった。

女子化は、コロナで対面打ち合わせがないこと、仕事を減らして、事業転換に力をいれていたことも幸いした。

しかし、1つ困ったことがあった、女子になら、男子を好きにならないといけない?と悩んだ。いや男子はそもそも否定した存在だから、それを好きになるとかあり得ない。パンセクみたいに性別とわずに人を好きになるというのが理想的だけど、どこか男性に壁を感じてしまう。でも、じゃ女性を好きになるといっても男性として女性をすきになれない、それは自分の男性性を肯定することになるから。女性のように受容的に受け身で愛されたい。自分から口説きたくないし、リードしたくない。女性にたいして支配的に行為をするのではなく、サバサバしたハンサム女子に心で愛されたい感がある。ハタチのときの恋と全く同じ感覚が自分の原点だったんだって気がついた。

え、女子として自己を同一化していて、ボーイッシュな女子に愛されたい?それってレズビアンなの?って思いそうだけど、同性愛というのは、基本同性同士の身体を重ね合う営みだ。もちろん女性としての自認があれば成立する場合もゼロではないけど、少ないだろう。要するにわたしは袋小路に入ってると思った。まぁいい。いまさら恋愛をする歳でもないだろうって諦めていた。

それでも一抹の期待をしながら、ビアンバーで一人飲んでた。まぁ可能性なんてないよなって思って。以外にも何人かの子から声をかけられて、そのうちの一人とLINEを交換した。わたしはその日は終電を逃すかもって思ってたので、近所のホテルを予約してあった。そこに帰ろうとしたとき、その子は付いてくるっていう。正直に、自分は身体的女性じゃないんだよって、やんわりと告げると、それがどうしたの? あなたは女子でしかないじゃない。気にしないよって言う。

結局その子は、ホテルについてきて、部屋に入るなり押し倒されて、初めて女に女として抱かれる経験をしてしまう。そしてピアニストの彼女が、留学のためにベルリンについて、SIMカードを入れ替えるまでの半年のあいだ、付き合ったのだった。

SIMを変えてから連絡がとれなくなった彼女に、わたしは降られたとおもって、元カノというようになった。唯一、インスタのリールだけは見てるようで、たまにいいねが付いてた。昨日のガチムチみたかったでしょって、イヤミのようにメッセージを送っておいて、GOGO BOYSのダンス動画をリールに上げておいたら、久しぶりに連絡がきた。

「行きたかった…」やっぱりw。

ベルリンのラブパレードはピアノのレッスンで行けなかったこと、ベルリンでの暮らしには大分なれたことだけを短く交換して、久しぶりの連絡は終わった。なんだったんだろう。もともとからSNSは大の苦手なタイプなのだけど。とにかくピアノがすべての生活をしてるので忙しい人なんだ。

これが、昨日の夜から、今朝までの日記のようなもの。誰がこんな文章読むんだろう…

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