「学校で習ったことっておとなになってからも役立つのか?」という問いに対する考え
よく「学校で習ったことっておとなになってからも役立つのか?」という論争がある。
たとえば「因数分解」。
あれ、本当に嫌だったよね。
自分なりに一生懸命がんばって覚えたけど、いまとなってはエックスだのワイだの、その程度のことしか覚えていない。
もちろんいまの仕事において何の役にも立っていない。
だから学校で勉強することは意味がない……とは言い切れない。
というか、めっちゃ大事だとこの歳になって気づいた。
先日、ふと車窓から消防署が見えた。
これ「訓練塔」っていうらしい。
初耳。
消防士さんが垂直に登ったり、塔と塔の間に渡されたロープをいったりきたりする訓練に使う訓練塔。
で、これを眺めていてふと思った。
「火事の現場でこんなシチュエーションってあるのか?」
と。
僕も15年ほど消防団員として活動しいて、火事場にも数回出動したことあるけど、正直消防士さんが壁を垂直に登っているところは見たことがない。
建物と建物のあいだをロープでいったりきたりしているのも見たことがない。
だけども全国の消防署には訓練塔があって、消防士さんはそれを使って日々訓練をし有事に備えてくれている。
ここで思い出してほしいのが消防士さんの本来の仕事って「火事が起きている現場にいって火を消して鎮火させること」であって、壁を垂直に登ったり、ロープでいったりきたりすることでは決してない。
あくまでも火事の現場が消防士さんの仕事場だ。
(正確にはもっとたくさんあるけど)
だけどもだけど、その火事の現場をつくって訓練することがほぼ不可能に近い。
家を建てて、火を放って、訓練する……
そんなことしたらそれこど大騒ぎだ。
あまりにも現実離れしている。
だから、訓練等を使って日々訓練しているのだ。
この理屈を学校の勉強にあてはめてみると面白い。
学校で教わることってすべてが総論的だ。
おとなになってからふりかかってくる種々の問題(まさに問題)って、めちゃくちゃ個人差がある。
それぞれ仕事の内容もちがうし、家庭の事情もちがうし、何もかもちがう。
そのひとつひとつに対して答えを導きだしていく必要がある。
となったときに学校で教えられることって、どうしても総論的なことにならざるをえない。
例えば
・売上を上げなくてはならない
・こどもが不登校になってしまった
・恋人ができない、結婚できない
などなど、挙げたらキリがないほどの問題が待っている。
そのどれが、誰の前に立ちはだかるなんて、誰にも予想できない。
学校の先生にも親にも、ましてや本人にも。
だーかーらー、学校で問題の解き方を教えることなんて不可能だ。
だーかーらー、学校でおそわることは総論的にならざるをえない。
消防士さんでいうところの訓練塔と同じこと。
それぞれの火事の現場がどんな場所で、どんな環境かなんて誰にもわからない。
でもって火事場をつくることはできない。
おとなになってからどんな問題が立ちはだかるのがわからないことと同じ。
でも火事は起こるし、問題は立ちはだかってくるので、訓練と勉強が必要なのだ。
学校でいろいろ習うことは、おとなになってから立ちはだかる「問題」に対して、いかに最適解を導き出すかの練習だと思う。
消防士さんが壁を垂直に登る練習をして火事の現場に備えるように。
いろいろな問題に対して、正確かつ素早く解を導き出す力。
家を燃やして訓練ができないから訓練等があり、さまざまな問題をひとつひとつ再現することができないから勉強がある。
学校の勉強自体はおとなになっても役には立たないが、おとなになってから立ちはだかる種々の問題に対して最適解を導き出すための訓練にはなる。
これが今回の結論。
もっとわかりやすくいえば「自分の頭で考えて、行動できるようになるために勉強する」ということだろう。
どうやったら素早く壁を垂直に登れるのか……
どうやったらロープを使って正確にいったりきたりできるのか……
それらを日々考えて、行動しているからこそ、本当の火事場で消防士さんは活躍できるのであーる。
降りかかってくる火の粉で我が身を燃やさぬよう勉強していこう!!
新潟県でカメラマンとして活動しています。特に飲食店などのメニュー撮影、ブツ撮りに定評あり。ポートフォリオ→https://jinbo-lab.jp/。一般社団法人 愛南魚沼みらい塾理事。1980年生まれ。