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らーめん南はどのようにして金澤流麺らーめん南になり、今後どうなっていくのか?

前回の投稿で

体に優しい味作り

を志すきっかけになるエピソードを披露しました

今回は

②自然環境に寄り添うらーめん作り

を意識し始めた時期の話を書いておこうと思います

アニキ分の影響

当時神奈川県藤沢市で暮らしていた僕にはとても影響を受けたアニキ分(と僕が勝手に慕っている)方がいました(もちろん今も慕っています)

その方は音楽活動を10代の頃から続けられていて、社会的ない問題にもとても敏感か方でした

その方の活動の中で

「自分の音楽活動で必要ない電力くらい自分で作り出したい」

と言い出され、友人知人の飲食店から廃油を集めてクリーンディーゼルを作り出す、という事業を始められたことがありました

僕も協力することを名乗りでました

そして実際に自分の音楽活動を自ら作り出した電力によって賄っておられました

有限実行

その方の口癖は

「やらない善よりやる偽善」

でした

常に行動を起こす、その姿勢には本当に影響を受けました

東日本大震災

あの日本国民全員が忘れられない東日本大震災

藤沢市もかなり揺れましたが、街自体には被害はありませんでした

その中でニュースで次々と伝わる被災地の惨状

「俺はらーめんを作ってていいのか?」

と自問自答したことを覚えています

しかしその当時のオーナーは自分達の利益優先

いかに自分達が生き残るか、ということのみを考える人だったので僕は一人苦悩しました

結局僕は何もできませんでした

ここで原子力がいいか?悪いか?という話をしたいわけではありません

この時に味わった苦悩や、計画停電による不安な状況の中で僕が痛感したことは…

『ラーメン屋は都市生活の賜物なのだ』

ということでした

顔の知らない誰かの作った電気が止まったり、誰かが供給してくれる水が止まったり、誰かが供給してくれるガスが止まると、たちまち営業はできなくなるのです

存在としてとても無力感を感じました

豚骨時代

当時、人気が高まりつつあった藤沢市辻堂での豚骨専門店時代のらーめん南は、毎日莫大な量の豚骨を仕入れ、最大の火力で一日中スープを煮込み、そして大量のゴミを多額の処理費をかけて処分していました

「こんなにエネルギーが必要な仕事なんだな…」

と痛感したのもその時期です

エネルギーを自給自足することは不可能にせよ、

「ラーメン屋だから仕方がない」

というそれまでのメンタリティに疑問を持ち始めました

これは僕の中で大きな転換期になりました

そして石川県への二度目の移住

「都市生活の賜物だとしても、なるべくエネルギーを控えた上で、美食として追求できないか?」

と考え始め、できることから始めたいと思うようになりました

そこで小さな一歩として始めたのが

ゴミを減らしたメニュー作り

です

日々の仕込みでどうしても出てしまう野菜の端材を乾燥させ、冷凍して保存しておきます

その端材とお世話になっている無農薬農家の方から「商品になりづらい」とされている野菜をまとめて購入し、野菜出汁をとりヴィーガン仕様のらーめんを開発したり、基本の牛スープを作る時の素材のひとつでもある牛のアキレス腱を、スープが仕込み終わった後に捨ててしまわずにフードプロセッサーでペーストにして基本のスープとブレンドして濃度を出したパイタンらーめんなどを作り始めました

無農薬農家の方々との交流を積極的に行ったのは、皆さんの

野菜作りは土地作りから

という考えに共感したことが大きかったです

無農薬で野菜を作ることで土壌を本来ある姿か戻したい、そんな生産者の気持ちを支えたいという想いと、そんな生産者の存在をお客様にも知ってほしいという思いとがありました

そんな僕の行動のひとつひとつは小さくて無力なものだとは思います

それでも何か行動を起こすことで経験や知識や知見を広め、次の行動へ繋げたいと考えました

そうです

僕なりの

「やらない善よりやる偽善」

でした

アニキ、僕なりに受け継いでますよ

復活したら次はどんな行動で自然環境に寄り添えるでしょうか?

まだ店を復活させる目処すら立たない今だからこそ学べることもあると思います

アンテナだけは立てていたいなと考えています

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