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大和川治水記念公園 ~江戸時代に付け替えた川~

 河内長野から北に向かって流れている石川。この石川は最終的に合流するのが大和川です。大和川は奈良県桜井市の北東部、貝ヶ平山を源流として西に向かって流れています。

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 ちょうど真ん中あたりに石川との合流点があります。元々はここから北のほうに流れて行き、昔存在した河内湖を経由してさらに北にある淀川方向に流れていたそうです。

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 ところが江戸時代に大幅に川を付け替えて今の様にそのまま西に流れるようになりました。そしてこの小さな水の別れは昔の大和川だったところのようで、今は長瀬川として、中河内地区の八尾市や東大阪市方面を流れています。

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 大木に、しめ縄がついていました。この辺りは「大和川治水記念公園」として像や石碑が並んでいます。 ここは洪水が激しい地域だったようで、古くは仁徳天皇や和気清麻呂ら江戸時代以前から治水工事が頻繁にあります。そして1704年に、抜本的な解決のために大和川そのものの付け替え工事が行われました。

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 ここには大和側の説明が書かれていました。下のほうにあるのは点字。           
 またここには関係する偉人を称えて記念した石碑がいくつもあります。

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 これは「久保田翁寿碑」というもの。高安郡万願寺村に住んでいた久保田伝次郎が久宝寺村の高田仁兵衛と共に樋を修復したそうです。そしてこの地域(六郷地区)の治水を行って農産物増収に貢献したことを表彰するものでした。

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 ちなみにこちらは「深瀬郡長顕彰碑」というものらしく、上には「長瀬此利」と書いているそうです。瀬和直という人が大和川の治水に尽力したとか。

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 こちらは明治18年の石碑。調べると「健野府知事顕彰碑」で、この年に沖田淀川大洪水の際に復旧に尽力して、水防に功績があったことがたたえられていました。

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 こちらは1906(明治39)年の石碑です。「畑中翁碑」とありました。畑中六右衛門が大和川付替え当時、代官万年長十郎に従い功績があったとのこと。それを子孫の畑中好太郎が称えて作ったよなもののようです。

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 そしてこの人が大和川付け替え工事に奔走した中 甚兵衛(なか じんべえ)という人の像で、50年近くかけて幕府に嘆願し続けて実現させて人物です。

 住んでいたのは東大阪市のた今米村の庄屋。工事は複数の藩の協力を得て行われました。工事自体は8カ月で完成。今の大和川となって、堺市と大阪市の間を通って大阪湾に流れます。

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 ここに説明書きがあります。一部引用します。

幕府は何度か付けかえの検分をしました。そのたびに新しく川筋となる村々から強い反対にあい、計画は中止されました。しかし、3年連続して河内平野が全て泥海と化すような大洪水もあって、幕府は対策に本腰を入れ専門家を派遣、工事を行いました。
この工事で淀川河口の水はけは良くなったものの、大和川筋は一向に改善されず、川床には土砂が堆積して田畑より3メートルも高い天井川になってしまいました。
しかも、幕府は付けかえ不要の方針を固めたため、依然洪水に悩む人々は、付けかえの要望が出来なくなり治水を望む運動の規模もどんどん縮小していきました。しかし、多くの文書や絵図を作成して状況の改善と新田開発の有効さを訴え続けた根気と情熱が、幕府の方針を変更させたのです。


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 ちなみにこれは大和川を付け替えて250周年を記念して作った碑で、1954(昭和29)年に作られたそうです。

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 そしてこれは付け替え直前の流域の地図です。

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 ここは偶然、近鉄の柏原南口駅から、安堂駅に向かう途中で見つけました。大和川の付け替えがあったことは以前から知っています。ただ今回詳しいいきさつなどがわかってなるほどと頷けました。

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 最後に大和川の遠くに見えるのが近鉄道明寺線。JR大和路線と近鉄南大阪線を結ぶ3駅しかない路線ですが、結構重宝しています。

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