《小説》缶珈琲 ep.6

ep.6 旭の葛藤


眩しすぎる夕日が静かな校舎の廊下に差し込んでいる。


いつも自習室で勉強していく絵麻が今日は来なかった。
家に帰ったのだろうか。


絵麻との放課後は、とにかく真面目に、時々苦手分野を教え合いながら高め合う、受験生らしい時間だ。
どこかのポンコツとは絶対に作れない時間である。
絵麻は留学も考えているのだが、寂しがり屋の音澄にはまだ伝えてないらしい。


僕はいつもより少し早く自習室を出て、美術室へ向かった。


僕が一年生の時から続けている事。
放課後の美術室をこっそり覗く事。


ストーカーだって?
いやいや、別に音澄が見たくて覗いてるわけじゃない。
音澄の描く絵が少しずつ出来上がっていくのを見たいだけだ。
うん、決してやましい気持ちじゃない。


部活をやっていた頃は、教室にスクール鞄だけを置いておいて、部活終わりに鞄を取りに行くと部員に伝えて、一人で美術室へ向かえる口実を作っていた。
タイミングが合えば、音澄の絵も見れて、一緒に帰れる。
男友達という立ち位置を築いている僕は、音澄に気持ち悪がられたりもしなかったし、ただの友達として、というナチュラルな雰囲気が作れていた。


ただ、三年になってからはまだ行けていない。
美術室に向かおうとする所を絵麻に見つかったからだ。
凛とした姿からは想像も出来ない意地悪な顔で、ふーんなるほどねと、声には出てなかったけど確実にそう言いながら、僕より先に美術室に入って行った事があった。


たまたま近くを通っただけだっていう僕の言い訳の叫びは、ドアを閉める音で消されてしまい、次の日違うんだと説明しても信じてはもらえなかった。
おかげで僕は、音澄の事が好きだということを絵麻に白状した。
もうあんな恥ずかしいのは御免なので、今は絵麻がいない日の放課後だけ美術室に行く事にしている。


今朝買った缶珈琲を差し入れするだけ。
会う理由にはなるだろう。


もう間もなく美術室。
何て声をかけようかと考えながら、階段を上がりきって右に曲がろうとした時だった。


「うおっ!びっくりした危ねぇ…大丈夫?」


もの凄い勢いで、こちらに曲がってきた女子生徒とぶつかった。
思わず抱きとめた形になってしまって、ゆっくり引き離すと、真っ赤な顔をして、彼女は目にいっぱいの涙を貯めていた。


「絵麻…?」


「ごめっ、陽向君ごめんなさい!」


慌てて涙を拭きながら絵麻は二歩後ろに下がる。
僕は距離を詰めて、鞄からポケットティッシュを取り出し絵麻に渡した。


「僕は大丈夫だけど、どうしたの?何かあった…?」


「ううん、何でもないよ!大丈夫。ごめんなさい、ティッシュありがとう」


一枚引き抜いて、絵麻は止まらない涙をまた急いで拭いた。
鞄は持っていない。
美術室から来た事も間違いない。
音澄と喧嘩でもしたのだろうか?


「大丈夫って感じじゃないだろ。音澄と何かあったのか?美術室にいたんだろ?」


「うん。で、でも喧嘩とかじゃないよ!全然、むしろ何で私が泣くんだろうって感じで…。陽向君、美術室行くの…?」


「えっ、あぁ、音澄にちょっと用事があったんだけど、今日じゃなくても良いかなって思ってたとこ」


きっと美術室に絵麻は戻るだろうから、今日は僕はいない方が良い。


「そっか。音澄の絵、まだ見てないよね?陽向君、見ない方が良いかも。いや、陽向君からしたらラッキーな絵なのかな?」


彼女は無理矢理そう笑いながら、僕にポケットティッシュを返した。


「私飲み物買いに行くとこなんだ。音澄待たせてるから行くね。また明日」


僕の返事を待たずに階段を早足で降りて行く絵麻を見送って、僕は美術室へ向かった。


よく分からない事を聞かされてしまったから、どうしても絵が気になってしまう。
絵麻が戻ってくる前に帰ろう。


美術室のドアに埋め込まれたガラス窓から、音澄が絵を描く準備をするのが見えた。
音澄はいつも、窓に向かって絵を描いているから、ここからだと絵自体は見えない。
だから必ず、彼女に声をかけて見せてもらわないと見る事が出来ないのだ。


でも今日は、たまたま今日は、音澄の背中と大きめのキャンバスに描かれた絵がこちらを向いている。


僕は、声が出なかった。
足も動かなかった。


絵麻が戻って来る前に早くここを去らないといけないのに、音澄の絵がしっかり見ろと言わんばかりに僕の心臓を締め付けてくる。


立ち上がった音澄が振り返りそうになったのをきっかけに、足がやっと動き出して、走っていた僕は気付いた時にはもう昇降口にいた。


美しい絵だった。
本当に素晴らしい絵だった。
でも、「私の幸せ」と言うテーマなのに、なぜあの絵なのか。
音澄は僕が隠している秘密も全部知っているのか?
絵麻が泣いていたのはあの絵のせいか?
っていうか何がラッキーだ。
ラッキーな要素なんて何もないじゃないか。


整理のつかない頭の中で色々な事がぐるぐると回って、とにかく早く帰ろうと、靴を履き替えて、逃げるように僕は学校を後にした。


「おかえり陽向」


走りすぎてヘトヘトになりながら、家の玄関に入ると、母さんの声じゃない声が僕を迎えた。


「兄貴…」


今、一番会いたくなかった人。


「母さん、買い物に出かけた。焼き菓子持ってきたんだ、食おうぜ」


今、一番話をしたくない人。


「俺はいいや」


「話があって帰ってきたんだ。この前の、変な感じで終わっちゃっただろ。聞けよ」


兄の真剣な顔が圧をかけてきて、僕は渋々リビングに入り、ソファに腰掛けた。


「音澄ちゃんには、お前より前に伝えてあったんだ。結婚するって」


「え?」


ぐしゃぐしゃになった頭の中のパズルのピースが一つハマった。
既に用意していたのであろう紅茶と、店に置いてあるマドレーヌを旭が運んで来る。


「陽向の試合の前の日、学校帰りに音澄ちゃんが店に来たんだよ。俺が試合見に行くのか聞きに来たんだろうけど、ちょうど仕事終わりの心春も店に来てて、紹介したんだ。まぁ、突然だったし、彼女いる事も別に言ってなかったから、邪魔しちゃ悪いんでってすぐ帰っちゃったんだけど」


「ショックだったんだろ」


「うん、そうだよな」


僕と兄貴はアールグレイを同時に飲んで、少し沈黙した。
時計の針の音だけがリビングに響いている。


「正直、音澄ちゃんみたいなお客さん結構いるんだよ。俺と話すのも楽しみに来てくれる女の子。オープン前の知り合いとかも含めてさ。だから、陽向に言われるまで、音澄ちゃんが、俺に、その、そういう気持ちを持っててくれた事に気付けなかった。いや、気付いてたけど、気付かないフリしてたのかもな、俺。彼女いるのかとか、そういうのも聞かれなかったからさ」


「あいつ、探ってみようとか言ってたくせに何も聞いてねぇのかよ…」


「うん。ただ、学校の話とか、陽向の話とか、普通の会話だけだったんだよ。結婚を伝えた次の日も、陽向と会う前にいつも通り店に来てくれたし、気にしてないもんだと思い込んでた」


「そうやって自分の感情隠すのが癖なんだよあいつは」


「そうだったか。何も知らなかったんだなぁ俺。陽向と上手くいくとばかり思ってたよ」


お前が言うな。


苛立ちが口から出てしまいそうで、アールグレイを流し込んだ。


「音澄とは友達だよ」


「そうか、すまん。あぁ、そうだ、最近、展覧会の話してたな。陽向はもう絵見たか?」


気まずい空気を変えたかったんだろう。
旭はワクワクしたような表情を作りながら話題を変えた。


また心臓が握り潰される感覚が襲う。
僕は何も言わず首を横に振った。


「なんか、プレゼントするから展覧会には来るなって言われたんだけど、やっぱり行かない方が良いかな?こっそり見に…」


「絶対行くな」


頭で考えるより先に出た言葉が、旭の言葉に被ってしまった。


「そんなの絶対行かない方が良いだろ。その約束くらい守ってやれよ」


「うん。そうか、そうだな。見れないわけじゃないしな」


「もう良い?今日まだあんまり勉強出来てないんだ」


「あぁ、すまん。良いよ、ありがとう。頑張れよ」


「うん」


勉強する気はこれっぽっちも出てこないけれど、もう鈍感の話を聞くのがしんどかった。
結局ただのモテ話じゃないか。


旭は座ったまま、深くため息をついた。


僕は、まだ口にしていないマドレーヌの乗った皿を持って立ち上がった。
複雑そうな兄貴の顔には何も触れず、僕達は残りのアールグレイを飲み干した。


次回「ep.7 音澄の幸せ」

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