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【文学フリマ京都8】『悪天を裂く』 試し読み

 土砂降りの朝だった。灰色の雨雲が空を覆い、湿気のせいか陰鬱としていた。雨音がやけに大きく聞こえ、耳を塞いでも遮ることができない。雨に責め立てられているようで胸のうちがざわざわする。背中に鉛が乗ったように重く、十時になってもベッドから起き上がることができなかった。
 朝七時半に母さんは仕事へ行った。最近は忙しいらしく、帰るのが遅い。夜十一時くらいに帰ってきて、冷凍食品を温めている。そして俺に小言を言う。「家にいるんだったら家事のひとつくらいやっといてよ」「女手一つで育ててきたのに」「会社は大丈夫なの?」大丈夫ではないと思うが、行く気が起きないのだからどうしようもない。
 会社を無断欠勤してから今日で一週間だった。毎日のように部長から電話がきたが、全部無視していた。出たら絶対に怒鳴られるだろうし、余計に病みそうだった。この国で安楽死が許されていたなら、今すぐにでも死ぬのに。真っ暗な布団の中で手首の傷をそっと撫でた。
 スマホの着信音が鳴る。設定していたクラシック音楽が大音量で鳴り響き、心臓が跳ね上がった。布団から顔だけ出し、恐る恐るスマホの画面を見ると、「藤崎」とあった。画面の上で指を漂わせていたが、十秒くらい経ってから、そうっと画面に触れた。
「もしもし、西沢?」
 ビー玉みたいに煌びやかな声が機械から流れ始める。
 藤崎は同期だった。同じ不動産会社の営業で、同じ店舗に配属されていた。なかなか契約が取れない俺と違って、藤崎はどんどん件数を稼いで、いつの間にか営業部トップの成績を修めていた。部長は俺がミスするたびに藤崎を引き合いに出し、藤崎はあんなに頑張っているのにお前ときたら、とか、藤崎はお前の何倍も貢献しているのに、とか、俺への愚痴が止まらなかった。
「聞こえてんのかな。西沢、あのさ、あんまり自分を責めるなよ」
 藤崎は一人で喋り出した。
「前にも言ったけど、頑張りすぎて疲れてんだよ。無断でもいいから、今は休んだ方がいい。部長は俺が宥めとくし、このまま退職しても、戻ってきてもいいよ。西沢がしたいようにすればいい。……そんだけ。それだけ、伝えときたかったから。じゃ」
 電話は切れた。窓に当たる雨音だけが、うるさいくらい鼓膜に響いていた。
 藤崎はよく俺に気を遣った。配属されて三ヶ月経ったとき、俺の成績が振るわないことに部長が怒るようになった。愛想が悪いからだとか、お客様の言葉を聞いていないんだとか、声が聞こえないとか、目つきが悪いとか、俺の悪口を散々言われた。それを見て哀れに思ったのか、藤崎は声をかけてくるようになった。
「最低だな、部長。ストレスを西沢にぶつけてるだけだよ、あんなん。なぁ、金曜の夜空いてる?」
 その一回だけ、藤崎と飲みに行った。酔った勢いで、藤崎にいろいろ愚痴ってしまったかもしれない。けれど、藤崎は変わらず俺に話しかけてきた。他の同期は俺のことを避けていて、挨拶以外は言葉を交わさなかった。たまに陰口を言っているのを聞いたことはあった。
 電話での藤崎の言葉を聞いて、ひどく安心していた。俺の味方をしてくれているのが嬉しかった。藤崎以外は俺のことなんか誰も気にしていないし、早く辞めろと思っているだろう。母さんでさえ今の俺は呆れてものも言えないと思う。それくらい最低なことをしているという自覚はある。でも身体が重くて動けないのだ。頭の中に靄がかかってうまく考えられないし、生きている意味がわからない。何もしたくない。生きていたくない。このまま泡のように消えられたらどんなにいいだろう。今、この場から自分がパチン、と弾けて消える姿を想像する。それだけで、世界が綺麗になるような気がした。
 ピンポーン。ピンポピンポピンポーン。
 チャイムが連続で鳴らされている。身体が重くて立ち上がれない。宅配なら置いておくか再配達の紙を入れておくだろう。俺はさらに深く布団を被った。
「西沢! おい! 西沢、いるんだろ!」
 聞き覚えのある怒鳴り声だった。一気に全身の血の気が引いていく。動悸がして、呼吸が乱れてくる。はっ、はっ、と犬みたいな息が口から漏れる。下に自分の声が聞こえてしまうことが怖くて、両手で口を押さえて声を押し殺した。
「出てこい! 社会人なら連絡くらい寄こせ! どんな教育を受けてきたんだまったく! そんなんだから信用されなくて契約してもらえないんだろ! 表面だけで繕ったってお客様にはバレるんだよ!」
 喉の奥が引き攣ったように痛い。息をするのも苦しくて、もう死ぬんだと思った。これで死んだら部長は殺人罪になるのだろうか、なんて馬鹿なことを考える。
「おい! 出てこい! 西沢!」
 ドンドン、ドンドン。叩く音は止まない。それどころか、徐々に強くなっている気がした。扉が壊れるんじゃないかと思った。扉が壊されたら、部長は二階に上がってくる。そして俺から布団を剥がして怒鳴り散らすだろう。どれだけ迷惑をかけたら気が済むんだ、とか、やる気がないならさっさと辞めろ、とか、これまでの鬱憤を晴らすために言いたいことを捲し立てるだろう。くそ、誰のせいでこうなったと思ってんだ。あんたのせいだぞ。あんたがいなけりゃ、俺だって無断欠勤はしなくて済んだ。ことあるごとに怒られるから動けなくなって、家からも出られなくなったんだよ。俺を引きこもりにしたのはあんただ。あんたなんか、パワハラで訴えればすぐ勝てるんだよ。
 扉を叩く音はそれからもしばらく止まず、布団に包まって身を潜めていた。早く帰れ。早く帰れ。帰れ。帰れ帰れ帰れ。心の中でずうっと唱えていた。その思いが通じたのか、気がつけば音は止んでいた。たぶん、諦めたのだと思う。よかった。一日中叩かれていたら精神がイカれてしまうところだった。まあ、あいつも仕事があるだろうし、さすがに一日中はないか。とにかく嵐が去ってよかった。何か冷たいものでも飲んで落ち着こう。
 ずっと布団を被っていたせいで汗をかいていた。布団を剥いで額の汗を拭う。窓の外はまだ雨が降り続いている。今日は一日中雨という予報だったっけ。最近梅雨入りしたって、昨日テレビで言っていた気もする。
 水を飲もうと階段を下りる。飲んだらいつものプレス機動画でも見て気を紛らわせよう。さっき部長がこの家に来て扉を叩いていたのは夢だったような気もするし。だってこの雨の中、人の家の前で怒鳴って扉を叩いていたら警察を呼ばれてもおかしくない。そうだ。夢だったんだ。雨で薄暗いし、ストレスで悪夢を見てしまったんだろう。そうに違いない。
 リビングの扉を開け、キッチンへと向かう。棚からコップを出して流しで水を汲み、ごくごくと喉を鳴らしながら水を身体へ浸透させていく。だんだんと頭がすっきりしてきた。朝からこの調子なら、明日は頑張って行ってみてもいいかもしれない。藤崎には電話してくれたことのお礼をしたいし、ついでに退職を考えていることを相談したい。次の職場で上手くいくかわからないけど、今のところにずっといるよりはいい。もしかしたらいい職場に巡り会えるかもしれないし。
 水を飲み干すと、コップをスポンジで洗って水切りラックへ置いた。
「見つけたぞ」
 振り向くと、部長と目が合った。雨で濡れたのか、前髪がおでこに張りついている。いつも通りの仏頂面で俺のことを睨んでいて、しわくちゃのスーツは雨でグレーから濃いグレーに変わっていた。
「来い。言い訳は会社で聞く」
 部長が俺の腕を掴む。理解が追いつかなくて、言葉が出てこない。
「鍵かかってなかったぞ。不用心な」
 そこで、母さんが鍵をかけ忘れたことを理解した。けれど、それがわかったからと言ってこの状況の説明にはならない。このクソ上司は、鍵がかかってなかったら他人の家にずかずかと入っていくというのか。
「おい、聞いてるのか」
 部長が俺の腕を引っ張る。背に冷や汗が流れた。
「か、帰って、ください」
 絞り出すような、掠れた声だった。その声を聞けば、普通の人なら怯えているとわかるだろう。けれど、部長はさらに腕に力を入れた。
「ふざけるなよ。一週間だぞ、一週間。連絡もなく休んで許されると思うな!」
 部長の唾が飛ぶ。唾が顔にかかって鳥肌が立った。怒っている時の部長になにを言っても無駄だ。頭ごなしに否定されて怒鳴られるだけだ。それは、今までの経験で嫌というほど理解していた。
「お前のせいで俺がどんだけ迷惑してるか。どんだけ周りに迷惑をかけてるかわかってないだろ。お前が途中で放り出した案件、あれ全部藤崎がやってんだぞ」
 それから、また藤崎がどれほど優秀なのかを語り出した。それはもう聞き飽きている。藤崎がすごいやつなのは俺も知ってる。だから今は顔を見せないでほしい。
「それに比べてお前はほんとなんもできないな。売上に貢献できないなら会社にはいらないんだよ。契約取ったの、たった二件だけだろ。いつも何回も打ち合わせして最終的に別のとこに取られるんだもんな。お前には魅力がないんだ」
「……そ、それ、人格否定、じゃ」
「は? お前に能力が足りないから契約が取れないんだって話だよ!」
 部長が興奮して声の音量が上がる。びりびりと鼓膜が震えて、身体が縮こまった。部長の言葉は止まらず、俺の小さな胸の傷を抉る。
「マニュアル通りの対応しかできないなら、ロボットにでもやらせればいい! 人間なら対話をしろ! 相手が欲しがっているのが何なのかちゃんと聞き出せ! 新人だからできないのはしょうがないとか思ってんだろ! お客様からしたらこっちはプロだ! わからないからって不安な表情と声を出すな! 全部伝わるんだよ!」
 ここへ来て急に正論を並べるな。そんなこと自分が一番わかってる。それができれば苦労しないんだよ。優秀な人間と俺を比べないでくれ。
 突然、あの日のトラウマが蘇る。窓口で部屋の相談をしに来た穏やかな老夫婦。良かったらどうぞ、と手作りのスイートポテトをくれた。お礼を言って、その日はいつくか部屋を紹介して終わった。その三日後、老夫婦がまた来店する。実際に部屋を見ることになってアパートまで移動した時、おばあさんは「スイートポテト、美味しいって言ってくれないのね」と言った。三日前に言ったお礼を忘れたのかと思った。けれど、俺は美味しいと言ったかについては思い出せなかった。おばあさんは「スイートポテト美味しかったです、ってことくらい言えないとダメよ。なんでも、あなただから契約したいって思うのよ。美味しいです、って言ってくれないんじゃ、あなたが紹介してくれた部屋で決めようとは思わないわ」と言って、おじいさんと部屋を出ていった。
 自分が勝手に渡したくせに、感想を強制するのか? とその瞬間は苛立ってしまった。けれど何度も咀嚼するうちに、美味しいと言えばいいということでもなくて、俺の気持ちが一切伝わらなかった、ということなんじゃないかと思った。「あなたが紹介してくれた部屋で決めようとは思わない」。俺は存在を否定された気分だった。
「ったく、ちょっと叱ったらパワハラだなんだと訴えやがって。こっちだって怒りたくて怒ってんじゃねぇんだよ。お前が普通に仕事して契約取ってきてくれるなら怒らずに済むんだ。わかったら来い」
 怒りたくないなら怒るなよ。俺だって、こんなにできないんだって、自分に絶望してんだ。俺の上司になってしまったことには同情するよ。さっさと退職するから、今は早く出て行ってくれ。
「さっさと来い! 西沢!」
 ぐい、と強い力で腕を引っ張られ、バランスを崩した。身体が前に傾いて、そのまま部長を下敷きに倒れてしまう。部長の呻き声がして、部長のまるいお腹が眼前にくる。それを見て、さぁっと血の気が引いた。
「す、すみませんっ」
 部長の身体に乗っかったら怒られる、と慌てて起き上がった。部長は頭を抑え、俺のことを睨み上げた。
「てめえ殺す気か!」
 びりびりと家が揺れた気がした。頭を抑えながら立ち上がると、鬼のような剣幕で俺の方へ近づいてくる。
「傷害罪で訴えるぞ!」
「すみませんっ、えと、だいじょうぶ、ですか」
「大丈夫なわけねぇだろ!」
 部長に胸ぐらを掴まれる。鋭利な目に捉えられ、金縛りに遭ったように指一本動かせない。
 どうしよう。通報されたら圧倒的に不利だ。今までパワハラしてきたのは部長の方なのに。部長が被害者になってしまう。
 部長がスマホを操作し始め、数字が並んだ画面が見える。一一〇。その数字を押すのが見えた瞬間、俺は部長のスマホに手を伸ばしていた。
「ごめんなさいっ、ちゃんと行きます! ちゃんと、契約取ります! い、慰謝料も払います! だから、警察にはっ」
「これでお前は犯罪者だな」
 部長の目が気味悪く歪む。その勝ち誇ったような笑みを見て、なにかがふつふつと湧き上がってきた。顔が熱い。このまま俺は捕まるのか? 嫌だ。それだけは。それだけはなんとか阻止しないと。
 部長のスマホを叩き落とす。スマホが音を立てて床に落ちるのを見て、素早く足でスマホを踏んだ。バキ、と音がして、足を上げると画面はひびだらけだった。
 これで通報はできない。
「なにやってんだてめえ!」
 部長は顔を赤くして激昂する。また俺の胸ぐらを掴んでくる。
「クズが! このまま警察に突き出してやる!」
 部長の汚い唾が顔にかかる。気持ち悪くて吐き気がした。
 どん、と部長の胸辺りを押した。部長はまた床に倒れ、呻いた。
 どうにかしないと無理やり警察へ連れていかれる。どうにかしないと。部長を黙らせればいいのか。それか、動けなくするか。簡単には帰ってくれそうにない。
 キッチンに空の酒瓶があるのが目に入る。母さんの好きな焼酎の瓶。おもむろに近づいてそれを手に取り、倒れている部長のところへ戻っていく。
「は? なんだよそれ、おい、なあ」
 これで黙ってくれるかな。
「おいおいおい待て! やめろ!」
 部長の叫び声を聞きながら、酒瓶を振りかぶった。

    ○

 俺はずぶ濡れで路地裏に黒いゴミ袋を捨てていた。家から少し離れた、寂れた商店街にある路地裏だった。ゴミ袋は大きく膨らんで、ごつごつしていた。
 どうしてこんなところにいるのか、肥溜めの中を探るように記憶を呼び起こしていく。部長の顔を思い出した途端、ぶわっと全身から汗が噴き出した。
 キッチンにあった酒瓶を持つ手の感触。地を這うように逃げる部長の怯えた表情。動かなくなった部長と床に広がる血の海。それらが一気に押し寄せ、俺を現実に引き戻した。
 大きく膨らんだゴミ袋を見る。あれは部長だ。俺がゴミ袋に入れて捨てたんだった。ひ、ひ、と引き攣った笑いが漏れる。身体の真ん中がぽっかりと空洞になったような感覚だった。大きな塊に押し潰されそうな気持ちなのに、潰れないのが許せなくて、自分の左腕を思い切り引っ掻いた。血が地面に流れていった。
 土砂降りの中、俺は路地裏でしばらく立ちすくんでいた。誰かに思い切り叱ってほしいような、慰めてほしいような、よくわからない感情に苛まれながら、これからのことを考えた。
 とりあえず逃げよう。誰も知らない、遠くの町へ。部長は今日、どこかへ用事があったんだろうか。わからないが、気づかれる前に逃げなければ。
 ふと、藤崎の顔が浮かんだ。人当たりの良さそうな、優しい笑顔。朝にわざわざ電話で慰めてくれた、優しい同期。藤崎なら俺のことをわかってくれるかもしれない。倒れただけなのに犯罪者にされそうになって怖かった、って言えば、同情してくれるかも。なあ、藤崎。まだ俺の味方でいてくれる?
 路地裏を出て、駅の方へ歩き始める。いや、殺人だぞ。誰が味方すんだよ。いい人が殺人者の味方なんかするわけねぇだろ。俺の人生はもう終わったんだよ。あとはもう、警察から逃げるしかない。あーあ、俺の人生、なんもいいことなかったなあ。
 目頭が熱い。何かが頬を伝っていくが、涙なのか雨なのか、もうわからなかった。
 一番近い駅は無人駅だった。地元の人がたまに利用している程度で、いつも閑散としている。そこから電車に揺られて少し離れた町にでも行こうと思っていた。しかし、駅の前まで来た時、自分がスマホ以外何も持っていないことに気づいた。これじゃあ電車に乗れない。ずぶ濡れだし、怪しまれて警察を呼ばれる危険性もある。踵を返し、駅と家の反対方向へと歩いた。
 母さんが家に帰ってきたら、俺がいないことをどう思うだろう。血はできるだけ綺麗に掃除したつもりだが、拭き残しがあるかもしれない。殺人に気づかれなくても、家出したと思って警察に相談する可能性もあった。どっちにしても俺は捜索されるだろう。見つかれば、部長を殺したことも自ずとバレて捕まる。その時、母さんは俺を軽蔑するだろうか。会社を無断欠勤して、引きこもって、あげく人を殺したと知ったら。俺だったら、こんなやつ生まなきゃよかったと思う。犯罪者として帰ってくるくらいなら、勝手に死んでくれた方がマシだ。川に溺れるのでも、交通事故でも、なんでもいい。せっかくなら、思い切り迷惑をかけて死んでやろうか。
 駅から離れ、森林の中を歩いていた。雨と草の匂いが混じっている。もともとこの匂いは嫌いじゃないので心地いい。こんなところじゃ誰にも迷惑をかけられないのに、なんとなく引き寄せられるように歩いていた。ここで死ぬとしたら、首吊りだろうか。蔓を見つけて木に縛れば吊れる。そんなことを漠然と考えていると、ふと、木の隙間から家が見えた。蔦で覆われた、廃墟と呼べる平屋。横に広く、平屋の前には手入れされていない大きな庭があった。草はぼうぼうで踏めるスペースもなさそうだった。
 ここなら身を隠せるのでは、と思った。死ぬつもりだが、最期にゆっくりするのもいい。ベッドはなくても、寝るくらいなら屋根さえあれば大丈夫だ。雨ですっかりぐずぐずになった靴を踏み込み、平屋へ向けて進んだ。
 大きな庭の草を掻き分けて歩くのは思ったよりも大変だった。俺の目線くらいまで伸びた雑草は足に絡んできて、時々転びそうになった。なんとか平屋の前まで辿り着いた時には、服は草だらけだった。どうせ誰もいないんだから中で取ればいいやと、平屋の扉を開けた。
 中は静かだった。薄暗くて湿っている。玄関の右の靴箱の上には、前の住人が集めていたのだろう、熊やうさぎの置物が置いてあった。古くてすっかり黒ずんでいるが、逆に趣があって悪くないと思った。
 靴を脱ぐスペースはなく、玄関と廊下が繋がっている。靴のまま上がるスタイルのようだ。だが雨で気持ち悪くなっていたので、靴と靴下を脱いで玄関へ置いた。廊下は横に伸びていて、左手にすぐ扉があり、右手にはもう少し廊下が伸びて、いくつか部屋があるようだった。左手の部屋はリビングだろうかと、俺はその扉を開けた。
「誰だ!」
 びく、と肩が震えた。扉を開けた部屋に包丁を持つ男がいた。男は色素の薄い長髪を首の後ろで纏めており、綺麗な顔立ちをしていた。ひどく動揺しているようで、俺に包丁を向ける手が震えている。
「なんで人が、くそっ、動くなよ!」
 男がじりじりと距離を詰めてくる。殺される、逃げろ、と頭に呼びかけてみるが、足の裏に何かが貼り付いているかのように動けなかった。男との距離が三メートル、二メートル、一メートル、と縮まってくる。どうしよう、命乞いをすればどうにかなるか? というか、この男はここでなにをしているんだろう。もしかしたら凶悪犯なのかも。それで、この廃墟に逃げ込んでいるのかもしれない。だとしたら、俺は口封じで殺されてしまうんじゃないか? 様々な憶測が頭の中で飛び交う。
「助けて!」
 男の子の声がした。男の後ろを見ると、両手を後ろ手に縛られた男の子がソファに横になっていた。大きな目が可愛らしい子だった。
「黙ってろ! 殺されたいのか!」
 感情が昂ぶっている男が後ろを振り向いて怒鳴る。男の子はひっと小さく悲鳴を上げて縮こまった。丸まった背中が小さく震えている。それを見て、誘拐だとわかった。
 男が視線をこちらに戻す。
「な、なにしに来た」
「……え、っと」
「まさか見られてた? いや、そんなはずは」
「あの、俺、その……殺しちゃって」
「え?」
「そしたら、隠れられそうな家が、見えて」
「……え?」
「ここに、隠れててもいいですか」
 男はなにも言わず、口を開けたまま固まった。
 もしかして、助かったのだろうか。これ以上こちらに来る様子はなさそうだった。ドクドクと鳴る心臓の音が、徐々にゆっくりになっていった。
 男はそっと包丁を下ろす。
「えーと、きみ、人殺したの?」
「はい、すいません」
「そ、ええー、まじか……。と、とりあえず座る?」
 右側にある立派なダイニングテーブルの席に促され、手前の扉側の席に座った。びしょ濡れだからとタオルを貸してくれ、顔と服を拭う。男はテーブルの向かいに座ると、微妙な空気感の中話しかけてきた。
「僕は見ての通り、誘拐したんだけど、えっと、誰を?」
「誰?」
「こ、殺した人」
「あ、部長です、会社の」
「そうなんだ。あ、僕、新名にいなって言うんだけど」
「西沢です」
「西沢くん、西沢くんね」
 新名さんは二度頷き、確かめるように俺の名前を繰り返した。
 部屋へ入った時の新名さんは、余裕がなかったせいか口調が荒くて怖い印象だったけれど、こうして向かい合って話してみると、穏やかで優しい雰囲気のする人だった。この人がどうして誘拐なんて、と思ったが、普通そうな見た目の人が犯罪を起こすなんてよくあることだろう、と自分に言い聞かせ、今は聞かないことにした。


『悪天を裂く』は1月14日の文学フリマ京都8で出します。
こちらはお品書きです。

WEBカタログはこちら。

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