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自責も他責も、欲しい方を選んでいるって不思議だよね。

他者との比較の結果は、自責か他責って思ってます。

人の思考や行動には目的があるって、聞いたことありません?

たとえ嫌な気分になることでも…。

“嫌な気分になりたいからなってる”って…信じがたいけど、

今まで通りの思考」を選ぶことが安心感につながるようです。

今までとは違う」を選ぶことは人間にとって恐怖だそうです。

私はとっても緊張しいです。

以前よりは慣れなどもあり、度合いは減ってきたように感じますが

それは「完璧主義」の副作用だと思っています。

手や声の震えは当たり前。

顔の表情は硬くなり、息も浅く倒れそうになる感覚に襲われることもありました。

「震えている自分」が情けなくて、

弱々しさをさらしているようで「なんで私はこうなんだ」「普通の人になりたいのになれない」と責めている日々でした。

私は「こうでなければならない」と思えば思うほど、

現実の自分をなくそう、なくそうと必死でした。

自分と反対のような特徴を持つ人を見つけては、羨ましがり、自分を責める材料として“備蓄”していたと思います。

【備蓄・・・将来や万一の場合にそなえてたくわえておくこと。】

そう。

万一、自分を肯定しそうになろうものなら、その材料を記憶のどこかから引っ張り出してきて

「(あの人と比べて)私ってこういうところがあるから…やっぱりだめだ。」と、

しっかり、ちゃんと責める材料として活用するのです。

しかしですね、

この思考の仕組みに気づくことができれば

「大きな一歩を踏み出している」ことになるんです。

そうか、「今は」そう思っているんだ。

そっちを選んでいるんだ。

そっちの感情が今の私には必要なんだ。

現在の「選べる自分」になってからは、たとえ突然の孤独感や虚無感などに襲われても

その時間が持続することはなくなりました。

「今の私」はそれを必要としていないようです。

悲劇のヒロインに飽きたのか、

充分に落ち込んでもその先には何もなかったことに気づいたからなのか。

ただ単に、「大人になった」という言葉では済ませたくないんですよね。

すっげ―苦しかったもん。

良くなろうと、まじでもがきまくった。

こどもだったからしょうがないなんて、思わないよ。

どの時代も、100%の私であったから。

もし今、似たような…苦しさを感じている方がいたら少しだけ想像してみてほしい。

その表情をすることも、

ため息をつくことも、

自分が無力であると感じて痛む心も、

「すべて自分で選んでいるのかもしれない」ということを。

別に幸せになる必要はないけど、

ずっと苦しみを与え続ける必要も、もしかしたらないのかもしれないです。

楽に生きれることもあるかもしれません。

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