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コミュニケーションのあるところ

人が2人以上で一緒に何かをする時、そこにはコミュニケーションが生まれる。会話はもちろん、向かい合ってするゲームや、スポーツでもそうだろう。
よく考えれば不思議なことだけれど、言葉を使わなくとも、アイコンタクトや空気感、相手と共有した時間からくる経験をも使って、私たちは日々誰かとコミュニケーションをとっている。

以前、『ボールルームへようこそ』というアニメにハマっていた。
主人公は中学生の男の子で、競技ダンス(競技としての社交ダンス)に出逢い、男性のリード、女性のフォローという役割の中で、自分はどう踊りたいのか、相手をどう魅せるのか、相手とどう1つのダンスを作っていくのか、という事を、時に相手と言い合いをしながら模索し、向き合っていく。

"アンサンブル"と似ているなぁ、と思った。
音楽でいうアンサンブルにも、リード&フォローのような関係性がある。リード&フォローというと誤解が生まれそうな気がするのだけれど、競技ダンスにせよ、音楽にせよ、それはあくまで対等な関係の上に成り立っている物だ。

小学生の頃から、ピアノ伴奏や連弾をずっとしてきた。音大でも、アンサンブルの機会をたくさん頂いていた。でも、ある時から、アンサンブルに苦手意識を持つようになった。それは自分のやっている事が"伴奏"ではなくて"アンサンブル"なんだと気づいた瞬間だったのかもしれない。合わせる事はできる。主張すべき箇所では主張もする。アンサンブルが嫌いではない。"曲"としては形になっている。だけど、私が思い描いているような、お互いが自由に演奏しているように見えて、それでも絶妙に美しく絡み合っているような、そんな音楽には、なかなかならなかった。

今度は映画の話だが、私の好きな映画『before sunrise』の中にこんな台詞がある。

I believe if there's any kind of God it wouldn't be in any of us, not you or me but just this little space in between. If there's any kind of magic in this world it must be in the attempt of understanding someone sharing something. I know, it's almost impossible to succeed but who cares really? The answer must be in the attempt.

もし神が存在するなら,人の心の中じゃない。人と人との間のわずかな空間にいる。この世に魔法があるなら,それは人が理解し合おうとする力のこと。たとえ理解できなくても,かまわないの。相手を思う心が大切。(字幕)

『ボールルームへようこそ』であるような言い合いが、ちゃんと1つのものを作るためのコミュニケーションとして意味を持つのも、お互いに良いものを作りたいという意識があり、かつ相手を理解したいという気持ちがあっての事だ。

少し前に、大学時代からの付き合いになるフルーティストの友人と、家で遊びのアンサンブルをした。(遊びといっても真剣である。)
彼女とは卒業後も何度か一緒に演奏する機会があったけれど、その中にはうまくいかなかったこともあった。たぶん、一緒にいいものを作りたいと思うあまりに、お互いに過剰な期待を持ち、そのくせ自分の音楽を貫く事に懸命だったのだと思う。

それぞれに音楽を追求し続けて、大人になった私たちは、譲り合うのでもどちらか片方に寄るのでもなく、アンサンブルを楽しんだ。合わせるとか主張とか、そういう事ではなかったんだな、と思う。信頼を持ってお互いに自立しつつ1つの音楽に没頭したら、演奏の全てがコミュニケーションだったのだ。
あの時は言わなかったけれど、あぁ、神様がいる、と思った瞬間が私には確かにあったよ、ひろちゃん。

彼女のお陰で、アンサンブルというコミュニケーションが心から好きになれそうな気がしている。

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