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演出とは何か 覚書

 下記の文章は、第一回演出勉強会で発表したもの。アニメにおける演出とはなにかをめちゃくちゃ荒くまとめた。まだ未完成で、思考の軌跡みたいなものをまとめただけなのでやや強引なところがあるのはご容赦ください。

 皆さんはアニメ演出家が何故生まれたのか知っておりますでしょうか。あるいはいつ生まれたのか知っておりますでしょうか。多少なりともアニメ演出家のその生誕とその後の歴史を知ると、アニメにおける演出とは何をすることなのかを理解できます。
 極論を言いますと、そもそもアニメは絵が動けば成立するメディアなのであって、必然的に絵描き=アニメーターだけいれば事足りるわけです。絵さえ動けばそれはアニメーションになるのです。作品として成立するか否かは別として。なので絵描き=アニメーターがいなければアニメは作れません。当たり前です。一方で演出はどうでしょうか。ディレクションはするものの、実際に画面を作るのはアニメーターであり、従って力関係は演出よりもアニメーターが断然強いと言わざるを得ません。現にアニメ黎明期(戦前から戦後数年の期間)はアニメーターが現場を主導して作品を作っていました。もちろん演出という役職はありました。当時の作品のスタッフクレジットを見ればわかります。また、絵コンテも存在していました。しかし戦前にアニメーション制作を始めたアニメ作家たちの多くは絵描きの経歴を持っており、そして演出家である以前にアニメーターであった。絵の描けない純粋な演出家はいなかったわけです。また、現場で求められるスキルも今とは違ったと思います。ではそのスキルとは何か。
 その前に東映動画(現在の東映アニメーションの前身)の歴史についてお話いたします。何故なら今の演出家の仕事というかその姿勢を規定しているのは当時の東映動画の経営方針から出発していると思うからです。東映動画はアニメーションを日本で初めて商業ベースで持続的かつ包括的な事業として製作し始めた会社です。現存しているアニメ会社の中では最も古いスタジオです。1958年に日本で初めて長編カラーアニメーションとなる『白蛇伝』を製作しています。余談ですが、当時中学三年生だった宮崎駿がこの作品を鑑賞しアニメーションに関心を持ったと言われています。ヒロインの白娘(パイニャン)に恋したと何かのインタビューで述べています。それはともかく、演出とアニメーターのパワーバランスはまだ後者が優勢でした。まず企画の段階で作画監督を最初に決めてから演出を誰にするか会議していたのです。高畑勲の長編処女作『太陽の王子 ホルスの大冒険』は大塚康生が上層部から作画監督に任命され、その後に大塚の指名により高畑が選ばれた経緯があったのです。演出よりも絵の描けるアニメーターに権力的な意味で力があった。
 ところが東映動画がテレビアニメ事業に参入してから事情が変わります。長編アニメーション映画とは違い、毎週放送されるテレビアニメはとにかくスケジュールがタイトです。また長編映画とは違い予算も限りがある。そんな中一つの変化が生まれた。それは、テレビアニメの大変な納期を守るために経営陣は現場をより効率的にそして合理的に回すよう求めたのです。誰に求めたのか。演出家です。演出は特に絵コンテを制作する段階である程度の作画枚数を抑え、撮影による面倒な特殊効果も抑え、とにかく無駄を省き現場をコントロールするよう求めたのです。結果、何が起こったかというと、先ほどの演出とアニメーターのパワーバランスが逆転したのです。高畑勲はこれを「演出中心主義」と呼びました。それは作品創造の主体としての意味ではありません。絵コンテが、作品創造だけでなく、スケジュールや予算管理のために重要かつ根本的な役割を果たすことになったことを意味します。なので、「演出中心政策」と言い換えた方がいいかもしれません。経営者側は作品のスケジュールや予算を崩壊させないために、演出家にその管理を求めた。しかしそれは経営者側の管理の対象になったことをも意味するのです。演出家を現場の中心に位置させることで(コントロールすることで)作品制作を合理的に進める体制に変化していったのです。現代に通ずる演出家像はこうした形で作られていったのではないかと自分は思っております。スケジュールと予算を左右するのは演出であり、制作はそのサポート(コントロール)が仕事である。皮肉にも、そういう形で演出家は現場の中でアニメーターよりも優位に立ち、中心的役割を果たすようになったのです。
 演出はスケジュールや予算の兼ね合いから、作画枚数やその内容、仕上げや撮影までも含めてその管理を求められる。つまり素材の管理が演出の仕事であるということができる。作品の創造はその管理の上で初めてできるということなのです。演出は管理職です。事故が起こらないよう届いてくるレイアウトなり原画なりタイムシートをチェックする。東映動画の経営合理化によって演出家は管理職としての意識が生まれ、あるいは強くなっていったのではないかと僕は睨んでいます。
 例えば昔は撮出しをするのが普通でした。撮出しとは撮影する前に素材が全部出揃った段階で仮組みする工程のことです。本撮に行く前に事故が起こっているかどうか、ちゃんと演出家の意図通りの画面になっているかどうかチェックするのです。昔はアナログの時代でしたから、一つ不備があると直すのに時間がかかります。演助の仕事でしたが、素材に対する意識をますます強めたことは想像に難くありません。

 現在のアニメ業界を見てみますとアニメーター出身の演出家が増え、その需要がますます増しているようにしか見えません。それは作品のクオリティが異常なまでに求められた結果です。
 作画監督は動きまでチェックはできずキャラ修正しかできない(まぁその結果としてキャラ修正は上手いが原画は下手くそな作監が出来上がりますが)
 まともなアニメータースキルを持っていないアニメーターが原画を描いてしまい結果ひどい上がりが出てしまう。撒き直す時間はないので、絵の描ける演出家が直接BG原図や動きを修正することで、無駄を減らしていくのです。また、絵は描けるがまともな演出経験もない新人が登用され、素材管理がおろそかになってしまう事態も発生しております。
 作品を創造する能力と予算やスケジュールを管理する能力のほかにアニメーターとしての能力も求められているのが現状なのです。
 演出家主導からアニメーター主導へと最悪な形で揺り戻しが起こっているのではないかと私は考えております。その結果として何が起こっているか。予算やスケジュールを管理しきれず、作画カロリーもコントロールしきれない作品が出てくるわけです。(呪術廻戦がいい例です。画面を見てみますと、物語を語るというよりはアニメーションを見せるということに比重を置いた作品だと思います。)
 作画枚数制限のあった東映アニメーションのワンピースのアラバスタ編など見ていると、確かに現在のアニメと比べて全然動いていないのですが、しかし演出は冴えていました。クロコダイルを倒すエピソードなど面白いです。ゼロ年代の作品で印象に残る回は神戸守とか山内重保とか、佐藤卓哉とか、高松信司とか、アニメーター出身ではない演出家たちの仕事だったりする。こち亀や初期の銀魂、苺ましまろも面白かった。もっと昔だとうる星やつらの押井守回もそうですね。高畑勲のハイジも演出の勝利だと思います。(アニメーター出身ですが古橋一浩はスケジュール管理はしっかりしてると評判です)
 そんな現状の中で、演出家はどうあるべきなのか。ますます問われていくであろうと思います。高畑勲は演出中心主義にならざるを得ない現状に憂いておりました。彼にとってアニメーション制作はまず集団制作であり、アニメーターだけでなく関わるスタッフ全員が意見をとにかく出し合い作品のイメージを固めていくのが理想像なのです。その結実が『太陽の王子 ホルスの大冒険』です。ホルスは民主的に作品を作った稀有な例です。では現代のアニメ現場でそれができるかというと残念ながらできない。アニメーター主導という揺り戻しが発生している現在、それにどう対抗し自分の作りたい作品を作るために制作体制をどう整えていくか。難しい問題だと思います。これが現在のアニメ業界の最も大きな課題だと僕はおもいます。