能力的に尖っていた方が良い、というのは本当か?

タイトルにあるようなことを考えたのは、自分が社会人を8年ほど経験してきて、見聞きしたことを総合すると以下のような教えに集約される、と考えたからだ。

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主体性とは「他人を客体としてみる」こととセットの概念である。

売り込みとは実績に基づくものである。
実績とは活動に伴う「受賞/表彰」「順位」「XX数」などをKPI化した売り文句である。

職業とは機能=関数(Function)なので、ある入力に対してある出力を求められる。
これが「あなたは何ができるの?」の意味である。
家電製品の説明書のように、自分には何が必要で、何さえあればコレコレのパフォーマンスを発揮します、ということが、実績を証左としてプレゼン可能になっていることが望まれるのである。
プレゼンありきなので、必然的に「コミュニケーション能力」と呼ばれるものが必要になる。
これは笑いを取るとかそういう情緒的なことではなく、交渉・折衝・主張・意思表示ができることを意味する。
だけでなく、無論、単一の関数でできる仕事もしれている=他の関数と連携が必要なので、「同僚の作業に気を配る」など一定のケアの能力もあると望ましい。
いずれにせよあまり情緒的なケアワークは必要なく、あくまで関数同士の円滑な接続に必要な範囲でのコミュニケーションが必要となる。

会社は「使う」ものだ、という話はよくされる。
「使われる」のではなく、この会社でできることをやるだけやって次に行く、というマインドセットをもて、的な話である。
これは、会社を(上司を、同僚を、部下を、顧客を、外部パートナーを)客体としてみることが、自身の主体性につながるという話でもある。
「あいつにこれをやらせるおかげで自分はこれをできる」という状態を相互合意の上で作るのが望ましいということになる。

能力的に尖っている方が良い、という最近それとなく見聞きする価値観はこの考え方によると見て良い、と言えそうではないか。
つまり「自分のやりたいこと/できること」と「仲間のやりたいこと/できること」が極端に異なっている方が、むしろ衝突が少なく、WINーWINの関係性を築けるという話になるからだ。互いが互いを客体として扱えて、ちょうど良い人間関係となる、ということだ。

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ただし、こうした考え方の先鋭化には注意を要するのでは、というのがタイトルに記した問いかけである。
互いが互いの得意=好きなこと【だけ】をやる、という関数同士の自律的な協調が理想型ではあるものの、得てして受発注の関係性はそこまで綺麗に収まらない。
必ず、それぞれの業務=受託範囲の「間」で、認識の齟齬やトラブルの種が生まれ、場合によっては炎上する。
これを未然に防ぐには、どうしてもマネジメント業務を行う者が必要となる。
関数同士の連携をサポートするメタ関数であり、一見すると専門性が薄くも見えるので、上記の価値観が言動や評価に反映され過ぎれば、プロジェクトマネージャーのポジションが軽視される、ということになりがちだ。
それぞれの関数=専門職が互いをケアすれば良いんじゃないの、と。
結果、理想には及ばぬ現実の中で炎上案件が噴出してしまう。
その防止とトラブルシューティングを、各種契約書と議事録を持って遂行する関数が必要、それがないのは無保険で自動車を買って運転し続けるようなもの、と認識を持っておいた方が良いのではないか。(ドライバーor車両同士が協調して無事故社会にするのが理想ですよね、でも現状無理ですよね)

そして、マネジメント業務を含む「生産労働」に対して、この労働力を「再生産」する労働と位置付けられているのが、前回の書評で触れた再生産労働、すなわち家事育児や介護などの本来の意味でのケアワークであり、主体性を尊重する価値観(の先鋭化)からは「ケアされなくなる」領域のこと、、すなわち【家政】なのだった。
家政学は簡単ではないが、能力的に尖っていることで円滑になるものではない。
「アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?」は、もっと正解に言えば「作り【続け】、生活を支え【続け】たのは誰か」である。
明確な受発注などあるはずもなく、期間的な制約、、子供が独り立ちするまでとか、、しかもうけようがない。
このことは有償家事労働の現場でもしばしば起きているらしいことは前回みた。(契約時には説明のなかった家事をやらざるを得ない状況)

そんなことばかり、最近は考えている。

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