短編小説【はな】
「あれ?ないなぁ…。」
声のする方を見てみるとそこには同僚がカバンを漁っている背中があった。
夕方、仕事が終わって俺とその同僚以外はみんな帰ってしまったが、その同僚は少し薄暗くなった部屋でガサガサとしつこくカバンを見ていた。
「何がないんだい?」
そう声をかけると同僚はカバンを漁りながらこう言った。
「僕のはながないんだ。」
「花?男が花を持ってるなんて珍しいな。」
「いいや、僕の顔の鼻がないんだ。」
鼻?どういうことかさっぱりわからなかったが、同僚が振り返ってようやく理解できた。
確かに同僚の顔の目と目と口の間にあるはずの鼻がすっぽり無くなっているのだ。
「わぁ!どうしたんだその顔は!」
驚いて声を上げると
「気がついたら無くなっていたんだ。とにかくとっても困っているんだ…。」
泣き出しそうになりながら同僚がそう言ってまたカバンを漁り始めた。それを見て、俺はすぐに切り返した。
「鼻がカバンの中にあるもんか、もっとよく無くしたところを思い出してごらん?」
「ええっと…」と同僚は目をキョロキョロと動かして考え始めた。
「朝はカーテンを開けて挽きたての豆で入れたコーヒーを飲んだ。とても香りが良かったのを覚えているから、きっとその時には鼻はまだあった…。」
そして同僚はまた少し考えてから話し始めた。
「会社に付くと隣の席の女性の香水の匂いがいい香りがしたから、目をつぶってその匂いを味わった。」
「ああ、あの女性か。なかなかの美人だが、俺は香水がきつくてあまり近寄りたくないんだ。」
同僚は俺の話を聴き終わる前に顔を曇らせた。
「そういえば、お昼前に上司に呼び出されて叱られてた時に上司の体臭が気になって嫌な思いをしたけれど、午後は何も感じなかったな。」
「じゃあ最後に匂いを嗅いだのはあの嫌な上司の匂いか?」
そう同僚に言うと同僚の顔はさらに曇った。
「うーん。ずっと叱られたことにくよくよしていて、その後なんの匂いを嗅いだか覚えていない…。」
うーん、と二人して考え込んでいたが、ふと思いついて質問をしてみた。
「今は何か匂いを感じるかい?」
同僚は「え?」と最初驚いたが、目をつぶってしばらくじっと匂いを感じているようだった。
「臭い!」
同僚は目をパチっと開けて顔をしかめた。
「わかった!トイレだ!」
そう言ってトイレに向かうのでそれに付いて行くと、男子トイレの個室に同僚の鼻がティッシュに包まって置いてあった。
…ははぁ、わかったぞ。同僚は上司に叱られた後この個室トイレで涙を流したのだな。その時鼻をかんでそれと一緒に鼻を置いてきてしまったのだ。
それを知られたくなかったのか、同僚は何も言わずにそそくさと鼻を顔に付けて俺に軽く会釈をした。そして帰り支度をして「お疲れ様」と小さく言って帰ってしまった。
俺は自分の鼻を触りながら思った。エアコンのカビと埃の匂いがする職場の空気。俺の鼻はちゃんとここにあるようだ。
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