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私が自己探求を続ける理由①―子供時代

「生きづらい」という言葉が簡単に聞こえてくる世の中になった。情報化社会により個人の感覚や意見が別の個人へと大きな声で届くように変化してきたと思う。私が子供の頃の時代から比較すると、生きづらさを抱える当事者の存在が社会の中で浮き彫りになり、当事者のみならずメンター側からの発信者が増えたことで対処法への到達もずいぶん容易くなった。時代の流れを感じる。

生きづらい人。私もそのうちの一人だった。
ただ、生きづらさとひと言で言っても理由は様々。そこへ真正面から踏み込むというより、今から書いていく話は完全なる〝自分語り〟である。

なぜ、人生の折り返し地点をとうに過ぎたのに私はまだ『自分探し』をしているのか? 

ひと言でいうと、人と関わるときいつも感じている『違和感』のせいだ。その違和感について納得のいく理由を知りたい。これが理由。感情的な動機というよりは単なる知的好奇心である。

この『違和感』が起きる背景を紐解くため、少し話が長くなるがシリーズで綴ってみたい。(※今後noteの文体は、知識のまとめは敬体、自分語りは常体にしてみようと思う。)むろん『自分探しなんて、いい歳して厨二病チックだぜ、恥ずかしい奴』とか、『自己肯定感が低いせいで悩んでるだけだろ』とか呆れに似た反応があって当然だしそれを承知の上で踏み切る。いや、そもそもこれを読む人などいない可能性が高いから、気にする必要も更々ないのか。気楽にいこう。

先に述べた「生きづらさ」に関して、私はもうかなりのレベルで疑問への答えを得てきたつもりだ。数々の先人たちの知恵を知り、メタ認知を活用して、自分で自分を生きやすい方向へと誘導する訓練を積み重ねてきた。大まかにいえばほぼ克服したといっても過言ではない。むろんHSPであるゆえの日常における細々した問題には直面するけれど、乗り越える術や上手く付き合っていくコツをあふれるほど習得してきたのでそれを活用しつつやっていけている。

それでもまだ残っているこの違和感の正体を探るうち、最近〝ギフテッド・アダルト(アンダーアチーバー)というものによく似た何か〟が浮かび上がってきた。今の段階ではあくまでも「似た何か」としか言えない。すぐに結論へ飛びつくような早計な真似はできない。概ねそれだ、と思っているわけでもない。むしろ普通に考えて違うと思っている(笑) 今あるのはただの『?』だけ。したがって、まずはこの『?』へ至るまでの道程をざっとまとめてみる。

問題多き子供時代

子供時代の私が抱えた人と違った問題は、ざっくり分けると二つある。

一つは、外的な要因。
家庭内暴力という問題だ。詳細をここでどれだけ書いたところで誰かに「リアル」が伝わることは決してないと思う。暴力に向き合うときの心臓が冷えるほどのあの恐怖。痛みと苦しさ。あれは経験した人にしかわからないものだ。実のところ細かい表現の伝わりにくさを思えばこうして文字に表わすことが怖くもある。だから何もかもを書くことはしないが要は、貧しい母子家庭の中で家族に暴力を振るう人間が存在していて、毎日毎日その人間と顔を突き合わせる環境にあったということだ。

片親なのもあり家庭はかなり深刻な経済的問題を抱えていた。生活保護の元にスレスレで成り立っていた。母親は気の優しい善良な人だが無知で意志薄弱で主体性のない人間だった。寛大な目線で評価してもおよそ親としての威厳など持ち合わせていなかった。
長女である私、極端に短気で自己中で暴力的な図体のデカい二つ下の弟、歳の離れた妹。この弟が、母を毎日殴る蹴るの繰り返し。わが家は罵声と叫び声であふれていた。反抗なんていう生やさしいものではない。止めようと間に入る私にも、殴る蹴る、髪を引っ張り引き回す。包丁を出してきて刺されそうになったこともある。ある日私は電話機(昔の重い黒電話)で頭を殴られ血を流し救急車で運ばれたこともある。
軟弱な母親はこの弟への対処がまったくもってできず、泣きべそをかきながら右往左往するばかり。身を縮こませて震えていた。本来なら親として私を庇うべき場面でも、殴られる恐怖から私を悪者に仕立てたことさえある。致し方ないとはいえ今親となった私の感覚からすれば人としてどうかという話だ。ただそのときの私は、母は私より頭が悪いと思っていたので驚きはしなかった。冷静な心で『ああ、私には親がいないんだな』と悟った。あまりに酷い状況だったので通報されて刑事がやってきたこともある。児童相談所や民生委員のお世話にはなっていたが、学校を始めどんな施設や指導者でも、過剰な暴力を振るう弟に対しては「お手あげ」状態だった。

小学低学年から十代半ばまで、私は家庭でひとり安らげる自分だけの空間というものを持てなかった。小学生のころ物理的な自分の部屋といえば押入れの二階があったが、そこも簡単に、弟が家に引き入れてきた不良仲間らの侵入により掻き回され、シンナーの匂いで充満し、爆音を撒き散らされ、凶器の類で占領され、ズタボロにされた。いとも簡単に。
小中学生の女子で、家の中で文字通り安らげる場所がないという経験をいったいどれほどの人がしているか。わからないけど私は、母親が勤めに出ていない夜の時間、幼い妹を連れて家を飛び出し夜の公園で過ごすこともしばしばだった。

「私」がこの気弱い母親の「親」にならなければいけないんだ。私が母と妹を救おう。それしか道がない。……心にそう誓った。それでも、苦痛を逃れるためにはいっそ死んだほうが楽に違いない、私の平穏な日々をズタズタに引き裂く弟を殺して自分も死のう、私が犯罪者になれば母と妹は助かる。……いろんな思いが巡り苦悩した。

離婚した父親が一度やってきたことがある。父親は母親と対照的な性格の持ち主で、人に威圧感を与えるような強烈な存在感を持つ人間だ。ヤクザの親分ともわたり合えるような人で、ある時は会社の社長である時は総会屋などもしていた。全てを見透かしたような目の怖いものなしの自信家で、大阪の人間特有の大きな声で喋り何事にも筋を通したがる人だった。筋が通っていない人間には容赦がない。親が離婚する小学一年生まではよく一緒に外食に連れ出されたが、食事に入った店の味が不味いと辺りに客がいようがお構いなく大声で「この店は不味いのう!」と唾を吐き捨てて店を出るのが常だった。
その人物が、小学生の私に机をバンっと叩いて大声でひとこと言い放った。「◯◯(弟の名前)が荒れてるのは姉であるお前の責任やっ! お前がもっとしっかりせんかいっ」と。この時も私は思った。ああ本当に、本当に、私には親がいないんだなと。私を認めたり守ったり助けてくれる大人はどこにもいないんだなと。すでにわかっていたことだけど改めて痛感した。

不良仲間がたむろする家庭、親は精神的にいないも同然の家庭、いわゆる「機能不全家庭」である。弟は家庭内のみならず学校や街中でも問題を起こし続けた。児童相談所の介入がない時期などはなかった。荒れまくった家庭に対し、当然ながら近所からは不平の嵐。引越してもその町に居られず、引越しに引っ越しを繰り返した。その流れでむろん転校も余儀なくされた。都度、私は母や妹を慰めたり励ましたり、金銭感覚が麻痺している母にお金の正しい使い方を教えたり、精神的に引っ張ってきた。二人も私を頼りにしていた。

自分も子供なのに家族を支えるため大人にならざるを得ない。……この状況下で起こる子供の内面の苦しさを文字で上手く伝えられない。当然の成り行きとして小学〜中学生時代、私はずっとストレス過多による自律神経失調症に悩んだ。自律神経など常にぶっ壊れていた。そのせいで様々な身体的、精神的不調を経験した。◯◯症、◯◯障害、そんな名前のものとたくさん付き合ってきた。ここに書ききれないほどある。一つ一つが大変で思い出したくもないエピソードばかりだ。

悲しいのは、暴力を振るう人間が私より年下の子供だったために誰にもこの苦しさを理解してもらえなかったことだ。友達に話しても「え? 弟なんかむりやり言うこと聞かせればいいじゃない」と言われるだけ。一番仲の良かった友達に「うちの家族はちょっと複雑でさ……」と話し始めても「複雑ってなに? お父さんお母さんがいて弟と妹がいて住む家があって……何が複雑なの?」と笑われたこともある。まあ、とにかく何も伝わらないことは最初からわかっていたから、そもそも話すこともあまりしなかった。行政や教育機関の人間が家に援助に入ったときも「ただの兄弟喧嘩」として片付けられる。大人には何一つ私の苦悩は伝わらなかった。これがまだ、『酒飲みの父親による暴力』などのように世間からの同情や共感を買いやすい形をしていたなら、少しは小学生の少女が抱える問題に向き合ってくれる大人もいたのだろうか。

ただ、今でも振り返ってみて私の変わった面だと思うことがひとつある。
暴力のない家庭で暮らすクラスメイトや友達のことを、私はそれでも『羨ましい』と思う瞬間は一度もなかった。学校が終わって家に帰ったら、例え愚痴っぽくても褒めたり叱ったりしてくれる母親がいて、少し怖くても頼れる父親がいて。兄弟だって、例えケンカが絶えなくても一緒に食卓を囲んで笑ったりする時間はある。大抵の家庭はきっとそんな感じに違いない。それに何より自分の部屋があって、安心して勉強したり遊んだりできるスペースがある。叩かれたり殴られたり蹴られたり髪を引っ張られたり引き摺り回されたりする恐怖などたぶんなくて、何ならお小遣いを貰っていたり服だって買ってもらえたりしている。親にちょっぴり反発したりすることも、親が「親」なので口答えだってできる。もちろん個々に色々問題はあるだろうけど、まあそこそこ普通の家庭。そういうのって楽なんだろうな、と思ったことはある。

でも、『羨ましい』はなかった。私の頭と心にあった、苦しさよりももっと大きな思考と感情は、『この試練を乗り越えることに意味がある』というものだった。大人はわかってくれない。誰も味方してくれない。助けてもくれない。でも、自分が誰より賢くなって強くなりさえすればなんとかなる。そして私は誰よりも賢い人間になりたい、そうでありたい、私ならなれる。これは私に課された試練だから必ず乗り越えてみせる。……今思うと、子供ながら精神パワーがすごかったと思う。世の中の不条理な出来事から家庭内のどうにもならない事情まで、どこか俯瞰して見ている自分がいた。確かに同年代の子らは楽しく子供らしい日々を過ごしているけど、私は苦労というものを知ってそれを乗り越えることで、人として一段上の道をいくのだ、と考えていた。だから試練のない所でぬくぬく過ごしている人たちを「すごく過ごしやすいだろうなぁ」とは思っても「うらやましいな」と思うことは一瞬たりともなかった。『人として誰より強く賢い道を歩みたい』という心の奥底から湧き上がる意志と強い情熱が、前へ進め! と私を常に突き動かしてくれていた。もう限界だと思う場面も、はっきりいって死んだ方が楽だ、と思える場面も、すべて精神力と忍耐力で乗り越え、自らが自らの親となり根性一つで生きてきた。

そんな私にも弟が問題を起こして少年院に入っている間だけ束の間の平穏が訪れた。それは日々暴力に耐えてきた自分への神さまからの小さなご褒美だと思った。そして弟が少年院から出てくるまでにいつもしたことがある。この少しの安らぎに目一杯感謝して、そして、自分のプライベートな権利を何もかも奪い去った弟を『許す』ように決意した。これはなかなか大変だった。賢い人間になるための心の訓練だと思って祈るように自分を制御した。許そう、許せる、どんなに苦しくても常に相手の立場になって考えよう、そう思った。そして出所した弟を迎え、また同じ暴力に向き合うことになる。小学〜中学生時代はそれの繰り返しだった。

たぶん同年代の子たちは、悩みといっても友達同士のいざこざだったり、親や勉強や自分の性格のことだったりするのかもしれない。勉強なんて……。毎日家で忍耐ばかり試されていた私には落ち着いてそれに取り組める時間やスペースなどありはしなかった。本当にひどかった。暴力と闘ってきた私からみれば他の人の悩みは至極小さなものにすら思えてしまう。事実として、やはりそんな感覚はあった。

二つ目は、内的な問題だ。
これは暴力とどっちが辛かったか、といえばどっちともいえないくらい私にとってキツいものだった。

対人恐怖症とHSC。
※HSCとは、ハイリーセンシティブチャイルドのこと。あらゆることに過敏さを持つ繊細気質の子ども。大人はHSPと呼ばれる。

HSCは生まれ持った気質なのでどうにもならないが、対人恐怖症は明らかに後天的なものだ。社会不安障害、SAD。極度の内気とでもいえばよいか。とにかく誰かと向き合うだけで萎縮して何も喋れず何もできなくなってしまう。心臓が死ぬほどバクバクして冷や汗が出てきて恐怖に苛まれる。皮膚も内臓も頭も神経も関節もあらゆる所が腫れ物のように敏感で過度の緊張におののくばかり。針の筵状態だ。
とはいえ学校ではかろうじて通常の授業を受けたり特定の友達と遊んだり、まあその程度のことはできていた。しかしそれ以外のことはもう全然駄目だった。
幼稚園の頃イジメに遭ったことがトラウマになっていたのか。先生に大声で名指しされ叱られた時の恐怖が意識に何かを植え付けたのか。今思えば原因はかなり幼い頃にある気がする。聞くところによると、就学前までは人懐こい活発な女の子だったようだ。なんというか……何かが起きたというよりも小さな頃に自分の中で何かが目覚めた感じを覚えている。その瞬間から、感覚も感情も何もかもが敏感になってしまったと思う。

しかし基本的に最大の原因は、親が私の精神面をケアしてくれないことにあった。ケアどころか親に関心を持たれていると感じられなかったことにあると今ではよくわかる。周りの大人の注意はすべて弟に注がれたし、母親は私の将来のことなんかこれっぽっちも考えてくれなかった。褒めたり叱ったりはもちろん何かを教えてくれることもなかった……。寄りかかれるもの、安心できる場所というものが私にはなかった。
今大人である私から客観的に過去の自分を振り返ると、本当に考えられない状況だった。それに加え大人になってからわかったこととして、どうやら『APD(Lid)』聞き取り困難症 だったことも人とのコミュニケーションの困難さに拍車をかけていたと思う。


いったい何重の困難があったのかわからないけど、大きく分けるとこのように二つの面で過酷な環境に置かれていた。これがつまり、どんなに人と関わろうと私の心のなかに大きな溝として存在している。子供の頃から人とは全く違う経験をしているから誰かから本当の意味での共感など得られなくて当然、という意識であり、幼い頃から抱いてきた思考や感情において他人との隔たりを感じる大きな要因になっている。

ただし、ここまでは大きく分けた背景的要因の話であって、『違和感』という問題の核に迫るものではない。幼少期から十代後半までの中で、何かが人とものすごく違うと思えたもっと深い内面の特質について、また続きに書いてみようと思う。読んでくれる人がいるかわからないけど、私が私のためにただ記しておきたいのだ。

今回のまとめ

私がこの歳になっても自己探求を続けている理由は、人と違っていると感じる拭いきれない『違和感』の正体を知りたいから。そしてこの違和感の中身を解明していくために、まず背景的な理由として子ども時代を振り返ってみた。機能不全家族(家庭内暴力、精神的ネグレスト状態)という問題と共に、気質や精神面での問題もあった、という二点を書いた。
自己探求を続けてしまう理由の、大元というか総まとめはシリーズの最後に書くつもり。そのときに、ギフテッドと言われる人たちに見られる性格的特徴(0E)との関連性について思うことも書いてみたい。

また、ギフテッドについては複数の書籍を読み込んだので、そこから得た知識もいずれまとめてみたい。(世間で思われている天才とイコールではないことや、秀才や優等生とも違うことなどを。)これは自身のパーソナリティ分析と関わる問題のみならず、単純に子供を持つ親の立場としても、現実を知る上でとても勉強になる優れた機会となった。

この記事は、ほとんど自分の心の整理のために書いた。過去のことは思い出すのもつらくて今まで書くことには目を背けてきたけど、今メンタルが安定している時期なのでそれを狙って書き始めてみた。もしこれを読んでくれた方がいたら、こんな個人のあわれな昔話につきあってくれたことに心からお礼を申し上げたい。

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