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セフレ君のリミット

セフレ。ある時からこの言葉はみんなが使うような言葉になっていた。言葉は文化だ。つまりそれだけ、セフレという関係をみんな持っているということになる。

私がセフレとなる人と関係を持つ際、どんな相手であれ死守するルールがある。「酒の場以外の同伴外出の一切を禁ずる」だ。つまり、対象人物と時間を過ごすのは密室内(ホテル・自宅等)またはバーなどの飲み屋のみで、他のことを一緒にするのは禁止している。相互関係に情が生じすぎるのを防ぐためと、痕跡を至るところに残さないため(記憶という面と、目撃者への配慮という面)でもある。

割合、自分自身が性に奔放な生活スタイルを送っていると、あらゆる他人の性の話を聞く。多様な関係性の中で、さまざまな感情をそれぞれの人が抱えているようなのだ。
そんな中で最も私が総冷めしてしまうのは「セフレを好きになってしまう」という状態の話を聞いた時だ。

あと、投影型も困ったものだ。つまり、「そいつ、絶対君のこと好きだよ!」「言うて、好きじゃないと君もそんなことしないでしょ?」とかだ。聞いてない。好きとか嫌いとかは。
こういう人は大抵、自分が好きになってはいけない人へ好意を寄せており、自己の感情を私に投影し、論じる。(このような形で恋愛話をする人は多い。)

はっきり申し上げるが、その状態は恥じるべきものである。懺悔として発言する以外には、言葉として表出するべきではない。くだらないし、だらしがない。「セフレ」という関係に確固たるポリシーを持っていないが故に、君はその感情に苦しむ羽目になっているということに自覚していない。何事にもポリシーがない人は格好悪いなと思う。

まあ、そんなことはどうでもいい。他人のセフレなんて私にはさらさら関係がない。ただ、今後セフレポリシーを立ち上げようという方々に一つだけ申し上げておきたいセフレ理念がある。

それはセフレにはリミットがある。ということだ。まるで初めから決まっていたことかのように、ある一線を超えてしまうとパタリと関係は終了する。そして、その時は無駄にあがくことなく終了させなければならない。いつまでもエンディングロールを眺めていてはダメなのだ。

数々のセフレくん達と楽しく人生を過ごして来たが、この「一線」を私は感覚的な部分でハッキリと把握しているように思う。それは、期限までは美味しく食べられる賞味期限のようなものではない。糖度がじゅくじゅくと上がっていき、一口かじれば舌の上で溶けてしまう完熟状態の果実だ。その翌日から、よぼよぼと生気を失い腐っていくだけの。

私はセフレくん達に会う度、一緒にジャージャー麺とかをすすりながら、くだらない映画を見ながら、シャワーを浴びている音を聴きながら、「この人はいつまで持つかな」とポツリと心で呟く。

セフレ関係とは、非日常を赦す場所だ。懺悔室に近い。双方の日常生活では抑制されている何か(性癖、悪癖等)をひけらかしても構わない場であり、非日常の空間である。
セフレ同士は、窓のない閉鎖されたラブホテルの部屋で、配偶者・恋人のいないカーテンの閉ざした部屋で、という枠組みの中では、好きなだけ愚痴ったり、わがままになってみたりすることが赦されている。
それが互いの今したいことであり、普段あまりできないことである以上、互いはただそれに頷いたり笑ってみたりするだけだ。気にくわないことがあれば、もう会わなければ良いだけの話なのだ。

ここが日常との明らかな違いである。恋人や家族、職場の人であったら、本来は嫌われるべきではないし、関係性を持続すべき存在であるため、なるべく相手の嫌なことはしないように努めるのが普通だろう。相手の気にくわないことがあったら、関係を維持したいがために「そういうところ、どうかと思う」と指摘することだってある。

セフレという関係性は、双方嫌いでも好きでもなく、ただセックスする知人程度のものである。さらに、公然的には関係性も持続すべき存在ではないだろう。(別に良いのにね)
故、密室の中で相手の大して見たこともない顔を眺めながら「もう会わないかもしれないなぁ」というのが、ある境界線までの間で何回も何回も重なっていくだけの関係性なのだ。

だから私は彼らの前で、そのこと「もう会わないかもしれないなぁ」以外はほとんど何も考えていない。

そして、その内にそれぞれのセフレくんで「あ、一線超えちゃったな。」と感じる瞬間が必ずやって来る。

それは、もう二度とこうして私達は会わないのだ。ということを意味している。お互いのその場だけの愛情のようなもの(「今、楽しい」みたいな感情に近い)が、同じ地点まで到達してしまった瞬間だ。果実で言うと、糖度が上がりきったところ、つまり完熟する地点。

隣に並べられた果実同士は、触れ合っているところから腐敗していく。

そんな風に、あまりにも特別に甘くて美味しい夜を過ごしてしまうと、パタリ。と連絡を取らなくなる。取ってもなんだか気まずい。

収穫した果実は放っておけば自然に糖度があがっていくもので、この上がりようを、「恋だ」だの「好きだ」だの言ってもらっては困る。元々、どこかの地点で終わるという契約なのだ。

あっ、終わった。あそこがリミットだったな。確かに、あの日が一番美味しかった。

それは、その完熟地点にいる現場でリアルタイムに察する。

ある夜、君が作ったパスタの皿をシンクに片付けた時に。

ある小雨の朝、仕事へ出る君にキスをした時に。

ある夕方、電車で帰って行く君がおそらく振り返りもしないで、私に手を振るのを見ないようにした時に。

私達はこの美味しい果実を、収穫してから一定の糖度を保ちながら、なるべく長く保管しておくにはどうするべきなのか?

そう、冷蔵庫に入れておけば良いのだ。

ここで、私が最初に述べたルールが活かされる。なるべく一緒に糖度が上がるようなことをしなければ良いだけの話なのである。

セフレくんたちはみんなそれぞれユニークで、とびきり可愛らしいのにも関わらず、楽チンで便利だ。

それぞれの良いところは美味しく楽しくいただくし、悪いところはもちろん美味しくないので、別のセフレくんの美味しいところで補うことが可能である。つまるところ、私はみんなをそれぞれ、大切に大切に、冷蔵庫で保存しているのだ。

ここまで読んでくれた人なら、なんとなく察するだろうが、私はそれぞれのセフレくんをきちんと大事にしている。相手の非日常的な癒しになれれば。という思いの元で彼らと接するが、それは私もまた彼らによって非日常を楽しませてもらっているからなのだ。

全ての人間関係はそのくらい、冷静で平等な関係性でありたい。つまり私にとって、セフレは最も理性的な関係性なのだ。

巷の「恋愛」という概念にどうも理解が進まないし、進めたくもない。ある勝手な概念によってお互いを振り回しているようにしか見えなく、その振り回しさえも「愛情」と言って満足したように踏ん反り返っている。

私にとって「恋愛」というものは、本能を隠したいがために、小綺麗に言ってみただけのシロモノとしか思えないのだ。

排泄をするための場所を「化粧室」と言ったりするのと何ら変わりない。

そして、そういう人たちは決まって、私のような思考の人間を卑下したりするのも興味深い事実である。私の生活(=性に奔放)を知って「まだそんなことしてるの?」という言葉をベースに話しを始めるー大抵の場合、説教じみたことー彼らは「恋愛」が絶対的な正義だと信じて止まないようだ。正義。

私にとっての正義は「セフレ」なのだ。最も正しく、理性的だと思える人間関係であり、これが私の信じる「愛情」だと言い切ってしまおう。その聖域を「恋愛」という滑稽な名前にタグ付けするのは、いい加減にして欲しい。

私はそうして、大切に大切に、それぞれの果実のリミットまでの間、暗い部屋の扉をたまに開けたり閉めたりして、一緒に過ごしたりするだけなのだ。


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