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自己愛

私は可愛い。

何度鏡で見ても顔の作りから身体のバランスまで、全て自分の好み通りの仕上がりである。

ただ、そのことは私だけが知っていれば良い。

私のことを「可愛い」「可愛くない」と他人から判断される必要性は全く無くて、私は、私の基準によって「最高に可愛い」私であるのだ。

「可愛い」これはもはや呪いのように世の中にはびこっている。

私は私の基準によって最高に可愛いだけなのだが、多数の男性になぜか「可愛い」と言われる。はっきりと申し上げるが、全く嬉しく無い。

「余計なお世話です。」と言いたいのをグッと我慢し、「そうですよね。私可愛いですよね。知ってます。」か、うざいなーこいつというタイプにだったら「趣味悪いですね。(笑)」と返すことにしている。(性格悪)

最近、アメリカ出身の男性にこんなことを言われた。

「君、アメリカ行ったらすごくモテると思うよ。長くて黒い髪の毛に、小さい顔、ちょうどいい目に、小さい口、そして大きなお尻!パーフェクトだ。」と言われた。

これじゃあまるで、「駅から徒歩5分!バス・トイレ別最新の湯沸かし器、IHクッキングヒーターに、WIFI回線完備の新築1LDK!」じゃないか。

私は商品ではない。買ってくれるなら買ってくれればいいのだが、こういう人は大抵買ってもくれないくせに、こういった罵声ばかりを浴びせてくる。

またある夜には、初対面の日本人男性には「君可愛いね」とばかり言われたが、私があまりにもシカトしていたせいか「可愛いっていうより、なんだろう雰囲気があるよね」などと付け加えられたのだ。

あのな、容姿をお前の判断でジャッチされるのが気に障ってるのよこちらは。

世の中の人はよくもまあ、人の感情を読めないものである。みなさん鈍感で羨ましい限りだ。

私は、容姿を売り物にしてシゴトをしている訳ではない。

もし私がモデルさんとかだったらそういったことを言われても仕方がないことかもしれないが、私はそうではないのだ。

ゆえに、他人に容姿を判断される筋合いなどさらさら無いのだ。

しかし残念ながら接客業をしているので、そういった心無い男性から心無い低脳な言葉を与えられがちなのも事実である。

容姿でしか他者を評価できない人と会話をするのは男女共に退屈だ。口を開けばあの子が可愛いだの、あの子の顔のここがだめだの、年取っただの、若く見えるだの、自分もここを整形したいだのそんな話をほっとくと4時間くらいやってるなだろうな。あーもう知らねえよ😀🌟そういう人って、自分自身のことも容姿基準でしか判断できていないので、基本的に中身が発泡スチロールくらい軽い。

かわいそうな人たちなのだ。

それなので、そんな憐れみを含めて今日も「可愛いね」と言われれば、「知ってますよ?」と微笑み返してあげることしかできない。

そういったかわいそうな人々はもしかしたら知らないかもしれないが、実際には一定の知能を備えた正しい人間たちが時たま発っする「可愛い」もこの世には存在する。

実はこの「可愛い」は対象人物の人格やらを総合的に見た上での「可愛い」つまり、「魅力的」「愛すべき」といった本来の意味が表現されているのだ。

なので、私と同様に、己を己の理想通りに磨き上げているような人に「可愛い」と判断されると、私もやっと素直に喜ぶことができる。

「私が可愛い」ということを、「己が己の最高」に磨いた他人と共感することができた。ということを意味しているからだ。

そうですよね、私も、あなたも、最高ですよね!!!!あなたの最高なところ、私の最高なところ、お互い補って生きてきましょ!!!!

それぞれ自分の基準で自分を大好きな人って、だいたいこのスタンスなので、他者を軽蔑したりすることが無く、心を安心して開くことができる。

つまるところ、自分の基準で自分を最高に磨いていくことが自己形成の上でもっとも重要であり、そもそも「可愛い」と判断されるべき点は、その努力している姿勢(=「愛すべき存在」)なんですよねえ。

(あと、「なんで可愛いのに彼氏いないの?」も良い加減にしろ🤤)

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