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苦しくてキライなのにとめられないもの

恋だ。

恋をすることは苦しい。みんなそんなこと知っている。

男女共学の中学校時代で密かに憧れていた男子生徒がいた。彼は学校中の人気者で特別目立つ彼の一挙一動にいちいち胸が締め付けられたり、勝手に影響されたりしてしまったりしてしまうので、なるべく彼を視界に入れぬよう、なるべく学校には近寄らないよう(コラ)に努めた。今思うと相当好きだったな。これ。

そして一人の美しい男子生徒への思いからそんな行動に出てしまう私を「ほとほと馬鹿げてる」と言える冷静な私と、どうしても彼の美しさに惹かれ続けてしまう動物的な私との激しい闘いが始まる。葛藤だ。

ということは、恋という感情自体が苦しいのではなく、理性と本能の間を驚くほどの短時間、あるいは同タイミングで行き来し抑制したり歯止めが効かなくなったりまた抑制したり、そんな両極端にある自己を(驚くことにどちらも正真正銘私なのだ、信じられない)内々に抱えることが苦しいのだ。

はらぺこの状態で飲食店にたどり着き、食事を注文し、その食事が来るまでの時間は人生で最も苦痛が凝縮されていると私は定義している。隣の席では、私が注文したものを美味しそうに頬張る他人の姿、店中には今から食すことのできるはずの料理の香りが充満しており、それが不可抗力的に私の鼻腔を通り、脳へ伝わり、私の脳内には最早注文した料理のイマージュでいっぱいいっぱいになってしまう。

それなのに、私の目の前の机にはまだそれがない。

私には、ただ料理が到着するのを、ジッ…と待つことしかできないのだ。早く食にありつけたいという欲求を押さえ込んで、「静かに料理を待つ」という理性的な私を振る舞っていなくてないけない。拷問だ。この料理を待つ短時間の苦痛の凝縮度たるや。とろっとろのエスプレッソレベルだ。苦痛のエスプレッソ。

この凝縮度は丁度、恋に踊らされる己の葛藤の濃縮度と近しい。恋の葛藤エスプレッソと名付けようか。葛藤エスプレッソでいいか。しかも恋の場合は、このエスプレッソを、毎日毎日、しかも一日中絶え間なく飲み続けなくてはならないのだ。そりゃ気も狂うはずである。恋という行為はもしや、修行なのか?と思うが、いやはや違う。

修行のように最終的に「無」に近づくための己の葛藤とは違い、恋という修行は限りなく「熱」「爆」などに近い所に向かって突き進んでいくための葛藤なのだ。「無」となればそれは「負け」を意味する。(あるいは、それは愛を意味するのかもしれない。果たして、ある種の“諦め”は愛なのか、愛は諦めなのか。これに関しては後日議論したい)なぜなら恋を追うことは、つまり繁殖を意味しており、「無」の領域とは無縁の生物学的本能であるのだから。

長々と話したが、そういった葛藤のエスプレッソを飲み続けるのが苦しくて私は人生で何度も恋なんて2度としたく無いと決心をしている。

そのため高校へ進学する際は恋をしないように女子校を選んだし、(無論学校外で恋に苦しむ羽目になった)

その後も、なるべく恋に堕ちないよう、つまるところ、「これが恋か?」と自覚しないように努めた続けた。

それでも不思議なことに、私は恋に堕ちてしまうのだ。

あんなに苦しいのに!!!味のしない焼肉屋のガムを噛み続けているくらい意味がないのに!!!!!エスプレッソを飲み続けた時さながら、胃がムカつくというに!!!!!一体何故!それでも私は勝手に恋に堕ちてしまうのだろうか!!!!

恋はその着火してから、激しく咲き誇る大きな打ち上げ花火のパターンと、キラキラと美しく輝く細かい閃光を放ち、突然ぼとりと消え落ちてしまう線香花火のパターンなどがあるが、それらの苦痛は大したことない。所詮そんな花火の輝きなんて、夜空に漂う煙となり、あっという間に風に吹かれてどこかへ消えてしまうということくらい27年人間をやってきたので知っている。

それに対し、長く長く引いた導線に着火し、じりじりと火薬玉に向かっていくような恋はひどい苦痛を要する。

その導線は私の日常の全ての時間に張り巡らせされており、仕事中も友人と過ごしている時も一人の時間を楽しんでいる時も常に、その導線が足元でジ…ジ…と静かに火を通しているのだ。それでもなかなか火薬玉には到達しない。

朝私が目覚めれば、寝起き5分で雑多に身支度をして家をドタバタと出る。きっと君は私よりももっと早く起きて、そして髭を剃ったりして、身なりを整えて軽い朝食を摂ってから職場に向かったりしてる。

私は電車で職場に向かうが、君はきっとその脚で歩いて職場に向かい、いつもの席に着席するのだろう。私も君も、それぞれの任務を粛々と全うする。

仕事が終わると職場でしばらくごろごろリラックスする私と違って君はきっといそいそと帰宅し、夕飯を拵えてから、街に酒でも飲みに行くのだろう。その頃私はきっと、まだ帰路である。

良い店に出会えば君に教えてあげたくなり、美しい夕方を見れば君に伝えたくなり、感銘を受けた本があれば、君にどう説明すれば良いのか言葉を組み立てる。

私がそんな風に一日また一日と導火線を引き延ばしているうちに、君は私なんか関係しない今日という日、どれくらい君の髪や髭は伸びて、なに食べて、どんなことを思い、どんな仕事を全うし、そしてどう己を癒しているのだろうか。

そんなことばかり。

君の毎日を知りたいという欲求を、私は毎分毎秒抑圧して過ごしている。これは恋ではなく憧れだと、そう理性に言い聞かせて欲を従えさせて気がつけば、季節が一周してしまった。

私は昔から憧れる対象を愛す。つまり、私と対極にある人を。中学校でなるべく学校生活に関わらず過ごしてきた私は、学校中で目立っていたあの男子生徒に憧れていたように。

君と過ごした小さな時間の数々は、窓辺に飾られた綺麗なガラスでできた小さなスノウドームのように、私の海馬に何度も何度も焼き付けるようにして飾り置かれている。

少しでも美しく立派な君に近づきたくて、私は今日も憧れの君に少しでも近づくために己を奮い立たせているに過ぎない。

そんなことをきっと君は知らないし、知らなくて良いし、どうか、知らないでいて欲しい。

でも知って欲しい、君は私の憧れだと、美しい存在なのだと自覚を持って欲しいと。

違うんだ、できれば、君のことなんて憧れてもいないし、なんとも思ってない、君の存在なんて忘れてたと言いたい。

そんなこと、言えるはずがないんだよ、そうなんだよ。

そんな葛藤のエスプレッソを、もう1年も飲み続けているのだ。苦しいくてたまらない。今にも吐き出してしまいたいし、そんなエスプレッソもう牛乳で割ってラテにしてしまいたいのに、牛乳が好きじゃないって言いながら、私は今日も明日もきっとそのエスプレッソを飲み続けることを、辞めれないんだ。毎朝目覚める度にそれを調整して、何度も何度も飲み続ける。

そして、はらぺこの私が食事を待っているように、私は君という悦楽が再び私の机に現れるのをジッっっと待つことしかできない。いたって理性的なフリをしながら。

なんたる苦痛であろうか。

私は、君にどうしようもなく恋しているのだ。残念なことながら。


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