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俺か、俺以外か。

ー愛情に関してー

もし重石になったとしたら天秤でかけるとちょうどおんなじ重さの愛情で、私はMとAを愛していた。でも、その2つの愛情は両極端に枝分かれしている。

Mへの愛情というと、尊敬が一番最初に存在する。時に私とMは兄弟のように、時にはライバルのように、親密に過ごしていた。彼の素晴らしい部分をもっと多くの人に知ってもらいたいと願うし、私は彼の生涯をずっと見守る役目を勤めたい。彼には、なるべく、長く生きて欲しい。美しい彼の存在を世界の人に広く知ってもらえるくらいには、長く。そしてなによりも私が、この世界に彼という天使がいてほしいのだ。

一方、Aへの愛情というと、性愛が一番最初に存在する。何度も何度も何度も、離れようとしても、どうしても彼の密かな呼吸が私の日常に影を落とす。その寛大な海のような安定感と、人格の芯の研ぎ澄まされ方が合わさって、どんな場にいても彼はすぐにその場の人々を魅了してしまうのだ。そんな彼が憎くてたまらない、世の中の人々が彼の魅力に堕ちてしまうのをなるべく防ぐために、彼には「早く死んじゃえばいいのに」と思う。

不思議なことにこのMとAへの愛情の重さは、同じくらいなのだ。ま、適当に100kgとしよう。「愛情」という一つの要素に2つのカテゴリーがあるのだ。

ー美味しいものに関してー

先日職場の面々でランチ忘年会をしている際に気がついたことがある。我々はコース料理をいただいていたのだが、スープからメインまでどれも美味で、どれも私を大変喜ばせてくれたのだが、私は最初に啜ったスープを隣の人と共有したい!と思った。(実際にそうした)美味しいから、隣の人にも知ってもらって、一緒に「美味しいね!」と言いたかった。ほとんど本能的にそう判断した。

一方、メインには肉料理を選んだのだが、こちらは誰にも共有したくない美味しさであったのだ。「ごめんだけど、これは味見させてあげられない。もし食べたかったら、もう一皿注文してください。」私は同じ席にいた人々にそう告げ、丸々とした肉料理をすっかりと1人で平らげたのだった。

つまりこれも、「美味しい」という一つの要素に、2つの「共有したくなる美味しさ」「独り占めしたくなる美味しさ」があったということになる。

「愛情」に一度話を戻してみると、Mに対する愛情は「共有したくなる美味しさ」だったのかもしれない。と、するとAに対する愛情は「独り占めしたくなる美味しさ」になるのだ。

まったく愚かなもので、私はこうして理論立ててしまわなければAへの愛情を完全なる自己の「欲望」として認めることができない。

この世には二つものものがあるのかもしれない。共有したいものか、独り占めしたいものか。

今後もこの基準を様々な要素で探してみようと思います。

以上です。

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