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私は君がお茶の時間に何を好むのか知らない

1日に一回、私はかならずお茶の時間を設ける。

特別そう意識しているわけではないのだが、思い返してみればおそらく幼少期からずっとそうだったのかもしれない。子供のころは母や父の一服タイムに付き合うことから始まり、そして定着していったのだろう。

私に忙しい日なんて特にないけれど、例えあったとしても、駅のホームかなんかでお茶と甘いものを少しだけ口にいれるだろう。(実際忙しなくしていた時期のお茶タイムはこんなだった)1日のうちで少しの時間だけ、立ち止まって何も考えずボゥっとする時間を設けないと、どうもいけない気がする。私が私でいられなくなってしまうような怖さがある。

これといって、お茶タイムがなかったから失敗したなどといったこともないのだが。

私にとってその時間は「とても大事」とかでなく「1日のスケジュール」に組み込まれているごく当たり前のことで、「1日3食食べるべし」にプラスして「お茶タイム」があるわけだ。

そんなことなのに、私は、君が「お茶タイム」に何を飲むのか知り得ないのが悔しくて悔しくてたまらなかった。

君が、コーヒーを飲むのか、それはコーヒーフレッシュをつかうのか、砂糖をいれるのか、あるいはカフェラテとかそういったものを好むのか。

はたまた紅茶、中国茶などを選ぶのだろうか。カフェインとかは気にしているのだろうか。君のことだから「白湯一択」とか言い出しそうでもある。ならば、お茶菓子は?どんなお菓子があれば、君のお茶タイムは「充実したもの」になるのだろうか。

どうして私は君の、そんなことも知らないのだろうか。悲しくなる。そして、焦ってしまう。君の、お茶タイムのことをよく知っている別の人間が、羨ましくなってしまう。

「親密性」コロナ禍において、時たま語られるようになった言葉だが、親密であるということはすなわち「お茶タイムに相手が何を好むのかを知っている」ことなのではないかと思えてきた。

親しい友人たちがお茶したい時に、何を選ぶのか私はひとりひとり、とてもよく知っている。

ある子は、意外にも甘い物が好きのようで、ホットチョコレートとか、甘いカフェオレとかそういうもの、それとタバコ。

ある子は、茶葉を蜂蜜漬けにしたチャイラテだったりする。いつもそれが好きだったのに、「最近は朝にコーヒーを飲むんだよ。」なんて鼻高々に言ってきたりした。

ある子は、必ず紅茶。少しだけのお砂糖を入れるが、蜂蜜でも良いらしい。家に彼女が遊びに来る時は必ず紅茶を用意しておく。

ある子は、アイスコーヒーが好き。少し前まで「シロップとミルクをいれないと飲めない」などといっていたのに、近頃めっきりブラック派のようだった。

ある子は、いつも私と気分がぴったり合う。コーヒーを好んで飲む私が、「お茶でも」と言って、その子とカフェに入ると、同じケーキと紅茶を選んでしまう。


だけど、やっぱり私は君が君のお茶タイムに何を選ぶのか、ちっとも知らない。
一緒にお茶なんてしたことがないのがそもそもの原因なのだ。

私は君がお酒か水を飲んでいるところしか知らない。

お酒なんてのは、社交的で、いつでもどこでも誰にだって公開されてしまうようなものだ。「お酒は飲む?」「飲むよ。ビールなんか好きだね。」なんて会話はありきたりのくせに、「お茶タイムは取る?」「必ず取るよ。」「何を飲むの?」「気分によるかな」なんて会話はあまりしなかったりする。(今度から、もっとたくさん知りたい人にはそう聞いてみることにしよう)

お茶タイムはいつも、時間と時間の間にひっそりと佇んでいる。小道の家と家の間にある小さなカフェなんかがその時間に特化しているのはそのせいかもしれない。

それで、私はもしかしたら君のお茶タイムなんて知り得ないまま一生を終えるのかもしれないと気がついてしまって、底なしに悲しくなってしまった。

私は君がお茶タイムに何を好むのか知らない。

君も私がお茶タイムに何を好むのか知らなくて、知りたいとも思わないだろうし、そもそも、語る対象にもならないかもしれない。

そんな私と君の差異からできた穴ぼこ。そこを、君の情報でいっぱいいっぱいに詰め込んでしまいたくなるのだ。


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