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自意識という檻の話

私は自意識過剰な人間だ。

身体中の血管のようにいくつにも張り巡らされた自意識は、いつだって過剰すぎるほどのアンテナを張っている。非常に難ありである。

私が拗らせている自意識過剰とは、たとえば今一人でマクドナルドを食べているとして、斜め向かいに座っている女子高生たちば何かを話しながらケタケタと笑っている。それに対し、あれってもしかして自分のことを笑っているんじゃないか?と勝手に思い込んではこの世から消えてしまいたくなるあの現象のことだ。

外に出ると人の目が気になるし、向かいから歩いてきた人にすれ違いざまに笑われたんじゃないかと不安になるし、百貨店のコスメ売り場に行くと「場違いだ」と嘲笑われているように感じてしまう。人と目を合わせるのも苦手で、自分がその人にどう思われているのかを考えずにはいられない。

少し背伸びをして、僅かしかない勇気を絞り出し入った服屋さんの入口ですぐさま「いらっしゃいませ〜」ともに店員さんがつま先から頭のてっぺんまでじろりと舐めるように見つめてきて経済力やファッション性を品定めされているような、あの感覚は本当に最悪である。

なんで入ってしまったんだろうという猛烈な後悔に襲われながら「あ、そうですよね、私はここにいるべきではないですよね、すみません!」と言わんばかりに一目散にお店を出る。服の中はじわりと汗をかいていて、どのくらい気を張っていたのかが分かる。あ、また心がすり減った。

普通に日々を生きているだけでも、全然普通じゃない。

自分が周囲からどう思われているのか、どう評価されているのか、はたまたどのくらい必要とされる存在なのか。

居ても居なくても変わらない?

むしろ居ないほうがいい?

私って、なんなんだ?

考えれば考えるほど分からなくなって、喉のあたりが詰まって苦しい。ただ吸って吐くだけの息が上手くできない。助けの求め方も分からないし、分かったところで、笑われるのが怖くて人に打ち明けることもできないだろう。

この過剰なまでの自意識というものに囚われるようになったのは確か中学生の頃からで、それまではあまり周囲からの目や他人からの評価を気にすることはなかった。とはいえ0だったというわけでもないのだが、今ほど過活動ではなかったと思う。

中学生になると、クラスの中でいわゆるスクールカーストと呼ばれる序列が起こり始める。勿論私のカーストは下の方。最上部のクラスメイトに怯えながら過ごす日々、息が詰まる教室、個性が許されない空気感。友達がいないわけではなかったが、あの環境に上手く馴染めなかった私は自意識過剰を大きく拗らせた。

前髪を作って学校に行った翌日、教室に入った瞬間に指を刺されヒソヒソと笑われているような気がして本当に死にたくなったのを覚えている。髪切るだけでバカにされる世界、同い年なのに何故か見下されている感覚、その全てに嫌気がさしていたし、一人では何もできないくせに、集団になるとやけに強気になる姿を見て「ああはなりたくない」と反面教師にしていた。

中学校は本当にいい思い出がなくて、多分あの3年間が人生で一番しんどかったんじゃないかとすら思う(まだまだ人生の途中だけど)。地元の交友関係を断ち切るために家から離れた高校を選び、知り合いが誰もいない場所で生きることを選んだ。中学で培ってしまった自意識は高校でもしっかりと働いてしまい、思い描いた高校生活は送れないままだったが中学の頃よりも「息苦しい」という感覚は薄れていたように思う。

私にはこれまで、人から褒められた経験があまりない。

褒められたり認めてもらう経験が少ないことは自己肯定感の低さに直結する。不明瞭な自分の居場所、自分がいることの価値って?自己肯定感が低ければ低いほど、自意識は過剰になっていく。

だけど、こんなにも自意識を張り巡らせながら常日頃生きているということを他人に悟られたくないので、あくまで”普通”のふりをしている。「人の目なんてこれっぽっちも気にしてません」なんて顔をしながら、本当はめちゃくちゃ気にしている。メンタルはガラス細工のように脆いのにプライドだけは一人前。こんな私を世の中は可哀想だと思うのだろうか。惨めだと思うのだろうか。

「もっと美人に生まれていれば」とか「もっと運動神経が良ければ」とか、ずっとないものねだりを続けていた。願ったところで手に入るようなものでもないのに、手が届かないものほど喉から手が出るくらい欲しくなる。いつだって人と比べては劣等感を抱き、下を向いて歩く。上は見れなかった。

外見にも内面にもたくさんのコンプレックスが散りばめられていて、息苦しくて、生き苦しい。世間が求める型にハマれない私は、この世界に居場所がないのかもしれないとすら感じていた。それでも持ち前の反骨精神だけでなんとか乗り越えては、いつもギリギリのラインを耐えてきた。

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まとわりつく自意識過剰の呪いを解くポイントは、自分を信じてあげることと、人生観を大きく変えるほどの出会いにあると思う。

大学生になった今も自意識を全身に纏いながら生きているが、もはや自意識過剰は私の個性なので、完全に手放すことは諦めてしまった。だって、こんな私のことを友達だと思ってくれる人がいるし、書く文章や撮る写真を認めてくれる人がいるから。中学生の頃とは自分を取り巻く環境も、自分自身の考え方も大きく変わった。あの頃よりも私は、自分を信じられるようになった。これは確かにわかること。

人生観を大きく変えるほどの出会い、というと大袈裟に聞こえるかもしれないけど本当にこれは人それぞれ、一人ひとりにあるもの。私の場合はそれが音楽と言葉だった。イヤホンから流れるロックやヒップホップはいつも私の味方でいてくれるし、言葉はどんなときも私の傍にいる。その音楽と言葉が合わさったラジオは私という人物を構成する大切な要素になっている。

この出会いに気づけたとき、私は”自分らしさ”を見つけられたような気がしたし、自分自身がつらくなった時にどこに心を委ねればいいのかも明確になった。言葉を紡ぎ、音楽を聴き、ラジオを流す。それだけで大丈夫。 

自分らしさを手に入れると、他の誰でもない”私”という存在を肯定したくなる。もっと自分を大切にできるようになる。

ずっと追い詰められていたし、苦しめられていたし、今だって苦しまないわけじゃない。でも、自分らしさを押し殺してしまうくらいなら、堂々と生きてやる。

背負いすぎる必要もないだろうけど、0にしてしまう必要もない。今はそう思えるようになった。自意識があったからこそ気づけたことや感じたことがあるはずで、それは私にとってすごく大切なものだと思うから。手放すんじゃなくて、向き合うことが大事。

自意識という檻の中に囚われながら、それでも今日という日を生きて、私という人生を生きている。だって、それが他の誰でもない私自身だから。錘のように体中についていた鎖も、いつの間にか無くなっていた。

大きく息を吸い込んで、肩の力を抜いて、顔を上げ、今日も一歩を踏み出してみる。恐れてばかりでは囚われたままだ。

あの日よりもきっと、強くなれたような気がしている。

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