見出し画像

都会のアーベントロート

その日、私は東新宿にあるビルの18階にいた。時刻は17時少し前。エレベーターを降りて窓の外を見ると、足元の家々や背の低いビルに今いる建物が影を落とし、それ以外は夕日に照らされている。筑波山がよく見えるから、空気も澄んでいるのだろう。きれいな夕焼けが見られそうだ、と期待が高まる。
お目当てはここから見る日没だ。西側に回ると、目の前に西新宿の高層ビル群が広がる。そのあたりに日が落ちていくはずなのだ。

日没が近づくと、空の彩度が高まる。太陽はちょうど高層ビル群の向こうに沈む方向にあり、コクーンタワーや都庁がシルエットになって浮かび上がってきた。視線を少し横にやると、北側にぽつぽつと在る周りより高いビルに西日があたり、オレンジ色に光っている。これがとても美しかった。都会のアーベントロートだ、と思った。

アーベントロートとは、登山用語で夕日が山肌を赤く染めることを言う。ちなみに朝焼けの時間に同じような現象が見られることをモルゲンロートと呼び、こちらの方がメジャーなのかなという印象がある。どちらも山に泊まらないと難しいためまだ実際に見たことはないが、いつかは、と憧れを抱いている。

日没の時刻が迫り、光が強くなると西側に浮かぶ雲の端の赤とピンクとオレンジが混ざった色がぐっと濃くなった。同時に、遠くに見える山々の稜線がくっきりと浮き出てくる。山の名前や形は詳しくないので同定はできなかったが、おそらく左方向は丹沢山系、そして奥多摩、右方向は秩父まで見えているのだろうか。方角としては富士山も見えるはずだが、ビルに隠れていたのか雲やガスでぼんやりしていたのか、見つけることはできなかった。

山並みを眺めていると改めて浮かんできたことだが、「東京は自然がない」というのは正しくない、と常々思っている。人口密度がやたらと高いことには同意するが、行政や経済の中心部が建物だらけなのはどの県庁所在地でも同じだろう。並木道や大きな公園なら、東京にもある。小笠原から雲取山まで、コンクリートだけではない東京があることはあまり知られていないのかもしれない。

やがて日没の時刻が過ぎると、ゆっくりと空の色が変わっていく。金色やオレンジ、赤のゴージャスな光が薄れて藍色の範囲が広くなっていき、高層ビル群の影の青さが濃く、暗くなっていく。それがやがて深いグレーに近づき、空の明るさよりもビルの窓の明かりが強くなった頃、十分に満足してその場を後にした。

こういった高い場所に来て下界を眺めていると、この中の一人一人に生活があり、人生があるのだということに思いを馳せ、どうかここにいる人みんなが幸せでいてほしいと祈るような気持ちになってしまう。コロナ禍、いつか必ず来る震災、個人の生老病死、苦しいことはいつだってすぐ隣にある。そんな中でも、この日に出会った都会のアーベントロートのように一瞬の美しさを見つけ、それを大切にして生きていきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?