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東京都現代美術館『あ、共感とかじゃなくて。』

下書きに入ったままになっていた昨年の美術展の記録。旬を過ぎた感はあるが、せっかくなので公開にしてみる。


現代美術はそもそも共感を求めていないというイメージがある。作者は共感も賞賛も求めず自分のアイディアや主義主張をそれぞれのやり方で表現し、それを読み解ける人は感じるものがあるが、わからない人は首をひねって終わる。嫌な言い方をすれば、「ついてこられない人は置いていく」ような印象を持っている。あくまでも私の中のイメージだ。
そんな現代美術が、自分で「共感とかじゃなくて」と言ってしまうとは!それ言っちゃうの!というのがこの展覧会に対する私の第一印象だった。

特に記憶に残った展示は3つ。

ひとつ目は映像と、それに関するブースが4つ設置されていた展示だ。ここで私は「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を思い浮かべることになった。映像も展示も、何が何だかよくわからないのだ。わかるような気がするものもあるが、やっぱりわからない。「わからない」に耐えて動画を見続けられるかどうかを試されている…まさにネガティブ・ケイパビリティだ。

このようなブースが4つある

「石の上にも3年」は時代遅れとされている気がするが、自分を削る我慢はともかくとして、ある程度の忍耐はないと長い目で見た時に良い結果を産まないと個人的には思っている。しかし、今自分がしていることが「我慢」なのか「忍耐」なのか、渦中にいる時に正確に見極めることは難しいだろう。それを見極めるためには「わからない」に耐えて考え続けることが必要なはずだ。以前にもVUCAの時代について触れたことがあるが、「ネガティブ・ケイパビリティ」は重要なキーワードになると思っている。

2つ目はその次にあった展示だ。私はこれが一番面白かった。大きな「歯」が置いてある。巨人の歯、なのだそうだ。作者がその横で寝ている写真が架けられている。キャプテンスタッグの寝袋にくるまって。

奥に見えている緑色の布が、作者が実際に使ったキャプテンスタッグの寝袋

この展示は、靴を脱いで板間に上がれるようになっている。他のお客さんたちは皆、靴を脱いでそこに上がって、歯の写真を撮ったり壁に施されている装飾を眺めたりしてその場を回遊し、また靴を履いてその場を離れていく。
でも私は、それだけではつまらないような気がした。
作者は歯の隣で寝ているのだから、私も寝てみたい、と思った。しかし、多くの人が歩き回った床に寝そべるのはさすがに気が引けた。土足ではないとはいえ。そのため完全に横になることは諦め、歯の隣に座り込んでできるだけ低い目線、できるだけ作者が歯と眠った時に近い視界を体感しようと思った。すぐ隣に座ると、自分は歯を見上げるような状態になる。自分の隣に自分より大きい何かが寄り添うように存在している、これは新鮮な感覚だった。

歯に寄り添われた、または寄り添った視界
寝るかわりに座り込んでみる

私は結婚しているが、夫はほぼ毎日私より遅く帰宅するため、私は眠る時にはいつもひとりだ。人と眠る、何かと眠る、という経験はあるが、それはいつも付き合っていた恋人のような自分とあまり大きさが変わらない、または自分より小さいものとだった。小さいもの、例えば子供。自分の腋の下にすっぽりと収まる温かい存在と添い寝をしていた数年間は、大切な宝物だ。しかし、自分よりも大きい何かと眠るというのは、一体いつぶりだろうか。幼い頃は親と寝ていたはずだ。しかし私は3人きょうだいの長女なので、あまりその記憶がない。大きな歯に見下ろされるように座り込んでいると、自分が庇護されるべき存在になったような不思議な感覚が訪れる。
ただ、自分よりも大きいものは、「怖い」ものでもあるはずだ。我が家ではハムスターを飼っているが、面白いくらいに全く懐かない。もともと犬や猫のように全面的な懐き方をする動物ではないのだが、それにしたってもう少し人馴れしても良いのでは…と思うくらい、いつも怯えた表情でこちらを見上げてくる。それはそうだろう、とも思う。人間でいえば『進撃の巨人』のようなものだ。いくらエサをくれるとはいえ、騒音を立てながら迫ってきて自分を掴み上げる謎の存在は、彼らにとっては恐怖でしかないのかもしれない。
自分よりも大きいものは安心するのか、怖いのか、その境目はどこにあるのだろう。

3つ目の展示は、気づかず通り過ぎてしまいそうな小さな入り口の奥にあった。中は真っ暗だ。正面に大きな月の映像が投影されている。そして、光の変化で月齢の移り変わりが再現されている。広い部屋には大きくゆったりしたクッションがあちこちに置かれており、そこに体を預けて展示をぼんやりと眺めることができる。

眼前に大きな月、心が落ち着く

日常での月は、上る時間が日によって違うため毎日毎日見られるわけではない。しかしこうやって全ての月齢を通して眺めてみると、月はいつも存在しているもので、日の当たり方や自分との位置によって見え方が変わるだけだという普段忘れていることに気づく。まさに雲外蒼天。新月から満月、そしたまた欠けていく月を見ていると「花は盛りを月はくまなきを見るものかは」を思い出す。

他にも、公衆電話が設置されている展示も面白かった。唐突にそれが鳴り、受話器を取ると小学生からの様々な質問が流れてくるというものだ。
私は「人間は地球を壊すのになぜ存在するのか」と怒気を含んだ声で詰められた。おお、純粋、と感じ入りつつ「人間だからこそ地球を守ることもできるのではないか」というようなことを答えて受話器を置いた。なおこのやりとりは、確か録音されているのではなかっただろうか。記憶が定かではないが。

現代美術の面白さは、空間まるごと全身で楽しめるところだと思う。もちろん古典的な絵画や彫刻も全身で楽しめないわけではないのだが、横に座り込んだり、作品の中の空間に入り込むことは難しい。参加することも難しい。あくまでも鑑賞者と作者、という固定した関係性の中にある。
今回の「あ、共感とかじゃなくて」というタイトルから何を感じるかは人それぞれだと思うが、私は自由さと軽やかさを感じた。最初は拒絶のニュアンスなのかと思ったが、そうではなかった。鑑賞者と作者が一体になって作品が完成する、入り込んで味わう、しかしその結果として共感は必須ではない、という流れはとても自由だ。
わかったようなわからないような時間だったが、タイトルも含めて面白い展示だったと思う。

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