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創作『猫と魔女の花屋』④

ジュネと昼間の花屋

いつも朝晩通る緩やかな坂道を、自転車をゆっくり引いて歩く。
今日はこの道は2回目で、朝出勤するときにちら、と脇道を見た。CLOSEの看板が立っていた。
そして今は昼過ぎ。街中と少し違う爽やかな風を受けながら、それでも午後の日差しはじわっと肌に触れる。登り坂の途中でうっすらこめかみに汗をかきはじめたところで、ふわっと一瞬強い風が吹いた。
「あっ」
かぶっていたリネンのバケットハットが浮いたかと思えば、後ろに飛んでいく。
ええ、どうしよう。自転車の後方に落ちて坂道をころころ転がっていくそれを目で追いかけながらも、ヒナは動けないでいた。
店を出るときに迷った。帽子を置いていこうかと。けれど日射しが強いかなと思ったし風も緩やかだったし、
何よりこの帽子をかぶっていれば、彼がひと目でわたしを認識してくれるだろうという期待があったから。

今ヒナの自転車の前かごと後ろの荷台には、運ぶとき用の帽子入れが乗っている。この斜面で停めても箱は落ちないだろうけれど、自転車がバランスを崩して倒れたら商品に支障が出るかもしれない。
一旦自転車を急いで坂の上まで持っていって、安定したところで停めてから自身の帽子を拾いに行こうと思った。

下の道から坂の方に曲がって歩いてくる人影があった。黒のチノパンに黄色のスニーカーを合わせた長い脚。遠巻きに見ても背が高い。トップスはルーズシルエットな五分丈の、ライトグレーのスウェットだろうか。
大きめのトートバッグに首にはヘッドフォン。なんとなくヒナは学生さんかな、と思った。男の人だ。
パタリとその歩みが止まったと思ったら、少し先に落ちているリネンの帽子を拾い上げてくれた。
「あ、あの!拾ってくれてありが」
少し声を張って呼びかけ終わる前に彼は、その帽子を背丈の割に小さい彼自身の頭にかぶせる。

「え、あの!」 
驚きながらももう一度声をかけると、やっと目が合ったような気がした。
スニーカーがまた弾んで、坂道をのぼってくる。近づくとわかる。帽子の下の黒い前髪から見え隠れする彼の目はきれいな黄色で、丸くてあどけない顔立ちはやっぱり自分より若そうな感じがした。
「これ、お姉さんの?」
「そうです、風で飛んでっちゃって」
声は少し舌っ足らずな感じで、あと高めのトーンだった。
彼はヒナのそばにある複数の帽子入れを見て、「ああ、」と思い出したように言う。
「もしかしてペルルさんのところの?」
「あ、はい。Charlotteのヒナといいます」
名前を告げると、帽子の下の黄色い丸い目はなんだか楽しいことをみつけたかのように笑った。
「リラから聞いたよ!僕が作ったサブレ食べてくれたって」
そこでようやく理解した。彼のことを知っている。
坂の上から「ヒナ!」と呼ぶ声がした。彼女が今日、会えたら良いなと密かに思っていた人の声だった。


今朝いつも通りにお店に出勤すると、2階のアトリエで夜通しミシンを踏んでいたらしいペルルが疲労をにじませた顔で言ってきたのだ。
「オーダー品ができたから、検品して持っていってくれないかしら」
彼女の銀縁眼鏡の奥にはうっすら隈が確認できる。
「そんなに急ぎのオーダーなんてありました?」
心配の意も含めて訊くと、ペルルは困ったように笑う。
「そうじゃないんだけど、やり始めると止まらない時があってね」
「それはそうかもですけど……、ひとまず少し休んでください」
アトリエにはセミシングルの小さなベッドがあることを知っているから、ヒナはそう促す。正直このとき、好きなことに没頭できる彼女を羨ましいと思ってしまった。
「……午前中にわたしが店番をしながら検品しますから、届けるのはペルルさんが起きてからの午後でもいいですか?」
「そうね……いいの?正直とっても助かる。午後でも大丈夫よ」
それからあくびをする口を手で隠して、「届けるついでに」と続けた。
「そこで花を買ってきてほしいの」
届け先は魔女の花屋「Katarina」だった。


振り返ると、坂の上から歩いて近づいてくるタンゴがいた。歩くたびにふわふわのチョコレート色の髪が揺れる。
「そろそろ来る頃かなと思ってたら声がしたから」
そう言って波を打つ一重の下のオレンジゴールド。陽の光を受けてきらきらと美しい。
「遅くなってごめんなさい」
「問題ないよ、坂道大変なのにありがとう」
それから彼はヒナの向こうに立つ背の高い少年に目を向ける。
「ジュネ、その帽子は?」
なんだか少し呆れているような、少しだけむすっとしたような声音だ。
ああやっぱり。このひとは魔女といっしょにあの美味しいサブレを作ったジュネだ。
少年はふたりのところまで来てからリネンの帽子を脱いで、ヒナにかぶせ直す。
「わ、ありがとうございます、拾ってくれて」
「いいよ!じゃあぼく時間ギリギリだからお店に行くね!」
そう告げてふたりににっこりしてから、タン、とアスファルトを蹴ってあっという間に坂を上って下りていった。

タンゴが、「弟が変なことしたならごめんね」と言いながら、ヒナの帽子に触れて整える。
「いえ、風で飛んでったこれを拾ってくれただけなので、」
「ならいいけど。ジュネはまだ子供だから、ぼく以上にいたずら好きでさ」
困ったように息を吐くけれど、瞳は穏やかだった。
そうして自転車を引くのを代わってくれる。ヒナが断るけれど、
「いいんだよ、ヒナはまた飛ばされないようにその帽子を離さないでね」
そんなふうに言ってくれた。そよ風が、彼から花の香りを伝えてくれる。
「リラが待ってる。新しい作品をすごく楽しみにしてたんだよ」


昼間の花屋は一面の緑がきらきら輝いていた。
初めて来たときの夜とはまた違う。植物の茎や葉の形、濃淡がしっかりわかって、葉や花は露をまとったように潤って活き活きとしていた。
「やっぱりきれい、」
ほうっとため息と一緒にこぼした言葉をタンゴが拾う。
「さっきクロワが水撒きしてたんだ」
「クロワ?」
「うん。でももうどっかに昼寝に行っちゃったと思うけど」
いいながらおかしそうに笑う横顔に、ヒナは少しドキドキしている。
また初めて聞く名前だった。タンゴ曰くクロワという青年はガーデンの手入れが得意らしい。どんなひと、なんだろうか。やり込みすぎず、自然の力を信じるような素敵な整え方をしていることがわかる庭園に見惚れながらぼんやり思った。

この前と同じ、看板の側に自転車を停めてくれる。ランタンは今はそこになかった。
後ろの荷台の帽子入れを固定している紐を解いていると、ドアベルが丸く鳴って白の扉が開いた。
「ヒナさん、来てくれてありがとうね」
迎えてくれたのはラベンダー色のシャツワンピースを着たリラと、先ほど帽子を拾ってくれた黄色いスニーカーのジュネだった。


きれいな長方形をした花屋の2階は半分がお店で、壁で仕切られた向こう半分は彼女のプライベート空間なのだという。
切り花や多肉植物のポットが並ぶ1階の隅の階段を上がると、仕切りの白い壁の手前にキッチンカウンターがあって、バルコニー近くの明るいスペースにミニマムな丸テーブルがふたつ。それを囲むのはかわいくてちぐはぐなデザインの椅子たち。
出窓が等間隔に作られていて、そこに並ぶ色々なデザインの花瓶が陽を浴びて煌めいていた。

「こんなところにうちの帽子を置いてくれてたんですね」
ヒナが目を留めたのは、表側の出窓がある壁とは反対、キッチンカウンターに向かって左の壁面の棚だった。長い板が自分の背丈くらいまで横にはめ込まれた棚で、一番下は大きな花瓶や鉢がずっしりと並ぶ。
それから籐の網かごにはハーブティーの茶葉とか、サブレがラッピングされて入れてあったり、花で作られたアクセサリーやハーバリウムもきれいに置かれている。
いちばん上の棚板には、帽子屋Charlotteの店主が創り上げた帽子が3つほど置かれていた。
「最近日射しが強くなったでしょう。だからペルルの帽子が人気なの」
ほら、というふうに、リラは棚の空いたスペースを手のひらで示す。
「別に急がなくてもいいのにって言ったんだけどね、どうせ徹夜でやってくれたんでしょ」
リラの呆れたような笑顔に、ヒナもちょっと怒ったふりをしながら「そうなんですよ」と頷いた。

丸テーブルに、リラと向き合って座る。
この日持ってきたのは3つの新作。保管用の箱から出して目の前に並べた。
「ああ流石、彼女のセンスと個性がきれいに融合してる」
リラはうっとりと目を細めた。もうひとつの丸テーブルに空箱を置いてくれたタンゴが、横に立ってかがんで覗いてくる。
「ペルルさんの帽子はほんとうにいい生地を選んでいるからね。リラはそういうこだわりを持った人間が好きなんだ」
「タンゴもあのお店の帽子は好きでしょう。この前あんなに下敷きにしてごろごろしてたし」
リラが返すと彼は照れたように笑う。あの日の夜、バケットハットの居心地の良さに仰向けでくつろいでいた猫を思い出した。ヒナは今かぶっているその帽子のつばをそっと撫でる。
「これはペルルさんが旅先で買い付けた帽子なのでセミオーダー品ではないんですけど、でも彼女のテキスタイルの目利きはすごいんです」
この帽子も、店主が気まぐれで行ったベルギーで見つけた最高級の亜麻を使った一品だ。
ヒナは向かいの花屋に話しているから、横で立ちながら優しくヒナを見るオレンジゴールドの目に気づかない。


雨が降った日の夜、ようやく店に帰ってきたペルルは満足そうに畳まれた生地を抱えていた。
「素敵なデニムと梨地織りを衝動買いしちゃった」
と言いながら扉を閉める。外の雨は止んでいるようで傘は畳んだままだった。
「おかえりなさい、今日リラさんが依頼に来ましたよ」
カウンターからエントランスに迎えに行って荷物を受け取ると、ペルルはヒナに礼を言いながら「あらやっぱり」と呟く。
「なんかそんな気がしてたのよ。だから梨地織りは欲張っていくつか持ち帰ってきたの」
タンゴの足が治ったことを一緒に報告しに来てくれたこの日、リラは帽子を3つペルルに創ってもらうよう頼んできた。使う生地やパターンは彼女にすべて一任するのがいつものやり取りなのだと言った。

「そろそろあのひとがお願いしてくるんじゃないかなって。わかりやすいでしょう?」
「それはちょっとよくわからないです」
花屋と帽子屋の店主の関係性も気になるところだけれど。勘がいいというかなんというか、たまにこのひとも「魔女」なんじゃないかと思うときがある。
受け取った生地はトータルだと重たくて、包み紙の中からちらとのぞくそれを見て、ヒナはわくわくが少しずつ湧いてくるのがわかった。
この布たちがどんなパターンでどんな帽子に仕上がるのだろう。どんな人たちにかぶってもらえるんだろう。
そう自然と考える脳に気付いて、ああ自分はちゃんと帽子屋の店員になっているんだと思った。


「最初の数日は新しく買ってきた布とパターンの組み合わせを延々と考えていて、昨日の朝から急にミシンに向き合い出したんです」
呆れ混じりに笑いながらヒナは話すけれど、職人病というか、急にアイデアとやる気が爆発して集中してしまう気持ちはとてもよくわかる。
以前はわたしも………。
その気持が理解できるのはリラも同じだったようで、
「わたしもこう見えて一応職人だから、彼女の姿を容易に想像できちゃうなぁ」
言いながら3つ並んだうちの真ん中の品物を手に取った。今日持ってきた新作のうちひとつがデニムで、あとのふたつは色違いの梨地織りをそれぞれ違うパターンで創ったもの。小窓とバルコニーの窓からの光が生地を美しく映し出している。
爽やかなグリーンティーの色をした梨地織りの帽子を縫い目や細部までみながら、リラはうんうんと頷いた。
「このざらっとした生地感はこれからの季節にぴったりね。色も素敵だし。もちろんすべて頂くよ」
「、ありがとうございます!」
「こちらこそ思ってたより早く届けに来てくれて助かったよ、ありがとうヒナさん」
ぱたぱたと階段を上がる音がした。

リラ〜、と少年の声がして階段のほうに視線が行く。五分丈のスウェットに帆布のエプロンをしたジュネが顔を出した。
「お客さんが日持ちするブーケを見立ててほしいって。ぼくだけじゃわかんなくて」
困ったように助けを求める幼い顔。ジュネは自分たちが商談している間1階で店番をしていた。リラはヒナににっこり笑う。
「ごめんねヒナさん、あとは彼に任せるね」
「お構いなく!お時間くださりありがとうございました」
そうして席を立った彼女はジュネと階段を降りていく。少年は一瞬だけヒナと目が合って、ひらひらと手を降ってくれた。
「慌ただしくてごめんね。ジュネはまだ花の特徴とかを勉強中でね、難しいオーダーに慣れてないからさ」
任された彼、タンゴが説明を加えてくれる。そうしてヒナに「帽子はぼくが展示するから座ってて」と言って新作をひとつずつ棚に持っていった。
角度を気にしながら丁寧に置いて、壁面の棚の空いていたスペースが埋まっていく。
「すぐに売れると思うよ、そしたらまた依頼に伺うね」
「……はい、ペルルさんも喜んで腕をならすと思います」

ペルルの職人になる顔や、やり遂げた疲れを伴う嬉しそうな顔、仕上がった素敵な帽子たちを見ると、ワクワクする反面胸のあたりがチクリと痛む。
わたしは彼女のようになれるのだろうか。
一度自分から好きなものを手放して挫折して遠ざかったわたしが、またものづくりの世界で頑張れるのだろうか。
膝に置いていた手は気付けばぎゅっと力が入っていて、顔は下を向いていた。
「ヒナ」
呼ばれて顔を上げると、さっきまでリラが座っていた席にタンゴがいる。
「大丈夫?元気ない?」
何度見ても美しいオレンジの双眸は、窓を透過する午後の柔らかな陽と花瓶の煌めきを集めている。ヒナは慌てて笑った。
「元気です!ちょっと、ペルルさんやリラさんみたいな職人の凄さに圧倒されちゃっただけで、」
見習いならこんな気持は当たり前だ。こういう想いを持ち続けていくのも、職人を目指す日々には必要なことなのだ。

ふうん、とタンゴはあんまり興味なさそうにこぼす。ヒナは慌てて、
「変なこと言ってごめんなさい、全然平気です」
そんなことを言った。
今の自分にとって花屋は品物を買ってくれるお客さんだ。ちゃんとしなきゃ。階段の下からなんだか楽しそうに会話をする声が聞こえる。誰かが、リラとジュネといっしょに花を選んでいるんだろう。
2階は静かだった。タンゴはテーブル横の小窓から外をぼうっと眺めている。
それからふいに「ヒナ」とまた呼ぶ。タンゴは頬杖をついてこちらに向き直った。

「ぼく猫だから、人間を元気づける方法とか勇気づけるやり方とかわからないんだけどね」
「はい、」
「ジュネはぼくたちが兄弟だとすると末っ子で、まだまだ甘えん坊で世話の焼ける子なんだけど」
「そうなんですね。確かにあどけない感じはします」
ふふふと口の中だけでタンゴは笑う。
「今、下でさ。リラに教わりながら頑張って花のこととか、お客さんのこととか覚えてるんだよ」
橙の飴玉みたいな目がゆっくり瞬きをした。
「ジュネは、花と"ここ"がだいすきなんだ」
タンゴの声が耳の奥でほろほろとほどけていく感じがする。ヒナは少しだけ泣きたくなった。
「いつかはつまずいたりするんだろうけど、最初はそのだいすきな気持ちがいちばん大切なんだよ」
それがあればとりあえずは大丈夫なんだよ。
そう優しい声音で言ってから、彼は一重を猫のように細めた。

わたしは帽子がすき?
帽子屋がすき?ペルルがすき?
「そうですね」
ヒナは小さくつぶやく。小さなつぶやきだけれど自分の胸に大きく響いた。
自分の未熟さと、過去から逃げたことへの劣等感がある。だけどそればっかりじゃ疲れてしまうし、ちゃんと帽子に向き合えない気もしていた。
わたしが今の環境をすきなことは確かで、それを自分自身がいちばん理解してあげないといけないんだ。
唇をきゅっと噛む。大丈夫。大丈夫。
「大丈夫だよ」
タンゴの声が降りてくる。そして溶けていく。
「ヒナは帽子のことが、きっともっとだいすきになるよ」

一度孤独になった。自ら独りぼっちになった。
それで逃げてきた先がこの街だ。
今はひたすらに帽子のことを学びたい。その気持ちに嘘はないはずだ。
「はい」
タンゴが背中を押してくれたのが嬉しくて、ヒナはやっと表情を綻ばせて素直に笑うことができた。タンゴはどこか安心したように肩をなでおろしていた。
「それでも辛いときは、ぼくのふわふわの毛を撫でに来ればいいよ」
そう言って、飴玉みたいな大きな瞳がまた弧を描くのだ。

『ジュネと昼間の花屋』


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