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創作『猫と魔女の花屋』③

トキワナズナの耳飾り

花屋「Katarina」の看板横のランタンは、いつの間にか灯りを消していた。
コツコツと階段を降りる音がしたのは、ちょうどヒナがハーブティーとサブレを空にした頃だった。

「わあ、」
ヒナはそばに来た青年、パルムの手の中にある自分の帽子を見て感嘆をこぼす。敷物代わりにして怪我をした猫を乗せてくしゃっと歪んでいたリネンのバケットハットは、元のハリ感を戻していた、
どころか、まるでこれを買ったときのようにきれいになっていたからだ。
「この短時間でこんなにきれいに?」
「ちゃんとタンゴの毛も取り除きました」
言いながらパルムが差し出してくる帽子を受け取る。つばも、後ろにつけられた共布のリボンも、形状記憶していたかのようにパリッとしている。
ほぅっと見惚れていると青年は眉を下げ、心配したような声で訊いてきた。
「元に戻しすぎましたか?」
「……えっ?」
思わず顔を上げる。
「張り切ってお直ししたんですけど、使い続けてできる柔らかい風合いのほうがお好きだったならすみません」
「あ、いえ!もちろんくたっとしていく変化も楽しみですけど、わたしこの帽子買ってまだ半月ですし。すごくきれいにしてくださってびっくりしてたんです」
ありがとうございます、と笑って告げると、パルムは下がり気味だった眉尻をさらに下げて、黄緑の目が柔らかく細まった。

「ということは、あんなにくたくたになっていたのはやっぱりタンゴが乗っかったからなのね」
横から家主のリラが言う。
「でもほんとに気にしてません。ここに来るまでこの帽子の上でごろごろくつろいでくれて可愛かったですし」
まあ、とリラはため息混じりにタンゴを一瞥する。それからヒナに向き直って、少し困ったように笑った。
「ヒナさんのことすごく気に入ったんだね。タンゴはきっとすぐに良くなるから、よかったらまたうちに遊びに来て」
それはまるで我が子の新しい友達に言っているみたいで、ヒナは心があったかくなった。
自身が働く帽子屋以外で新しい楽しみの場所ができた気がして嬉しかった。タンゴはテーブルの上で、横の窓の外をのんびり眺めている。


帰る前に、「ちょっと待ってて」とリラに止められ、ヒナは花屋の扉の前でパルムと並んで立つ。彼の腕の中にはなんだか眠そうなタンゴ。優しくタオルを巻いているから足の傷口は今は見えない。
「慌ただしい主人ですみません」
「いいえ、うちの店主もなんだかリラさんに似てますから。それに美味しいお茶とサブレもありがとうございました」
パルムは犬みたいなたれ目を波打たせる。
「他の皆にもぜひ会ってほしいので、また来てください」
「はい、楽しみにしてます」
眠そうにしていたタンゴがもぞもぞと動く。ヒナのほうに鼻をすんすんするのがかわいくて、おでこをひと撫でして
「もうカラスの喧嘩を買っちゃだめだよ」
とオレンジの目に向けて言った。
「ヒナさん」
ぱたぱたと階段を降りてくるシルバーのバレエシューズ。
「度々足止めしてごめんね、これをあげたくって」
彼女が持ってきたのは、ころんとした雫のようなクリアの樹脂の中に小さな花がひとつ埋まった耳飾りだった。


あの日の夜のことを、まだ不思議に思っている。
お天気雨がぱらつく街はいつもより少し大人しくて、店の扉横のショーウィンドウにしている出窓の外はうす白く、ちらほらと傘が踊る。
天気の良い日や風が気持ちいい日は扉を少し開けて、お客さんが入りやすいようにするのだけれど。
締め切った広くない店内、ディスプレイを整えたり細かいところの掃除をしたりした。
「……勉強しようかな」
そうして暇になってしまったヒナは、カウンターの裏の棚からテキスタイルの分厚い本を取り出した。

自身が転職した先の帽子屋の店主ペルルは、帽子やそれを作る生地のバイヤーでもあるから、色んな布にとても詳しい。そんな彼女からもらったのがこの本だった。
「ちょっとぼろぼろだけど面白いし参考になるわよ」
そう言って手渡してきた本のハードカバーは確かに劣化していたけれど、大切に丁寧に読み込んでいたとわかる劣化の形だった。
さら、とした質感に載る文字を指でなぞる。ヒナは新品のときみたいにきれいになったリネンのバケットハットと、あの夜もらった小さな花の耳飾りを身に着けていた。

ぱっと差し出されたリラの手のひらに乗る耳飾りを見て、最初に出てきたのは
「これ商品ですよね?」
だった。
やや厚めの無漂白の台紙。上部には「Katarina」という店名が小さくスタンプで押されている。
ヒナは慌てて両手のひらを胸の前に持ってきて首を振る。
「いただけないです、」
わたしは一匹の猫を拾った。病院に連れて行ったわけでもなく結果的に飼い主に会えて引き渡しただけなのに、お返しが過ぎる。申し訳無さで声が裏返ったかもしれない。
だけど彼女は優しく透る声音で言うのだ。
「あなたはタンゴの恩人なの。親の身として感謝し足りないくらいだよ」

それに、と続けながらリラは、ヒナの片手を取ってそっと耳飾りを乗せた。
「個人的にあなたに似合うんじゃないかと思って。あなたにつけてほしくて」
そんなふうに笑顔で言われては断れない。ずるいなあと苦笑しながらヒナは手元のそれを改めて見た。
クリアの液体の樹脂を手の爪ほどの小さなしずく型の型に流し込んで、その中にはキラキラした気泡と薄紫の花。花の中心は黄色だった。
「トキワナズナっていう花を押し花にして入れてるの。かわいいでしょう」
「とってもかわいいです、手作りですか?」
「うん、タンゴが選んだ花をわたしが押し花にしてね、」
思わずタンゴに目を向ける。パルムの腕の中で呑気にあくびをするチョコレート色のふわふわな猫。
「トキワナズナはヒナソウって呼ばれることもあるの」
「ヒナソウ、」
「そう。だからぴったりかなとも思って」
透明の粒の中で清楚に光を取り込むヒナソウは、まるで小さなハーバリウムみたいで。ヒナはそっと両手で包むようにして胸に当てた。

不安だらけだった。前の職場も住んでいた町も思い入れはあったけれど、自分はその地を離れた。
ヴィンテージのアパルトマンを一室借りて、帽子屋の門を叩く。職人のノウハウも今はまだ基礎から教わりはじめたところで、店主はとても優しいけれどわくわくやどきどきと同じくらいの不安がずっとまとわりついたままだった。
タンゴと出逢ってまだ1時間経ったかな、くらいなのに、この猫が巡り会わせてくれた優しさに心が溶けていく。
わたしはこれからきっと、もっとこの街を好きになれる。
耳飾りは雫の形で、涙に似てるなと思った。
「……ありがとうございます。仕事でこれつけたら、もっと頑張れる気がします」
ちょっとだけ泣きそうになったのを隠して言った。隠せていたかはわからない。リラはどう捉えたかはわからないけれど、ヒナにそっと言葉をくれた。
「大丈夫だよ、耳飾りにお護りを閉じ込めておいたから」
夜も深い時間だったけれど自転車で坂を駆け下りたときも、部屋に着くまでの夜道も心細くはなかった。


テキスタイルの本は興味深くて、気付けば仕事中に没頭してしまうこともあったから、今日は流し読み程度に気をつけている。
ちなみに店主は居なくて、今日ヒナはひとり店番をしていた。
「雨の日はいい生地が見つかる日が多いのよね」
そんなことを楽しそうに言って、ヒナに店を任せてふらっと出かけてしまったのだ。
「ペルルさんも十分気まぐれなんだよなぁ」
花屋の彼女にやっぱり似てるなあと、笑いのこもったため息が出る。
今いるカウンターの隅に置かれた千歳緑の花瓶には、未だに青紫のアガパンサスがきれいに咲いていた。もう10日ほど経つのに美しいままなのは、ペルルが毎日手入れをしているからなのか、花屋の魔女の力なのか。

タンゴのことを考えた。出逢った夜から数日が経っている。足の怪我は回復に向かっているのだろうか。
耳飾りをもらった次の朝に店まで行ってみたけれど、坂の途中の脇道の入口に「CLOSE」とくり抜かれたブリキの立て看板が置かれていた。
きっとリラが朝から病院に猫を連れて行ってくれているのだろうと思って、せっかく休日で部屋を出たのだからと、ヒナはこの街に来て初めてスーパーや薬局以外のショッピングに行くことにした。
わくわくとどきどきと、耳飾りがくれる少しの勇気がある。
その日は帽子は部屋に置いてきて、自転車を漕いで揺れるボブの髪から薄紫のトキワナズナが見え隠れしていた。
商店街から少し離れたブロックにあった靴屋で、明るいオレンジブラウンのタッセルが付いた、グレージュのローファーを買ったときのときめきを今でも思い出す。
タッセルの色とゴールドの金具が、なんだかあの猫のきれいな目に見えたのだ。


今日はその靴も履いている。耳飾りとの調和のために、白に灰を1滴だけ混ぜたような色のコットンワンピースを合わせてみた。
帽子も耳飾りも靴も、この街に来てから迎え入れた宝物だ。急がなくてもいい。ゆっくりこの街を知っていって、少しずつ宝物を増やしていけたらいいなと思った。

ちりりん、と控えめなドアベルが鳴った。雨の日に来てくれるお客さんは貴重だ。
「いらっしゃいませ」
店番を任されていた緊張が戻ってきて、テキスタイルの本から視線を扉に移す。入ってきたのは黒髪を後ろに結った女性と、ふたりほど入る大きな傘を畳む、ダークブラウンのふんわりした髪の男のひとだった。
「リラさん、」
ふいに女性を呼ぶと、彼女はこちらに顔を向けてにっこりと笑う。
「こんにちは」
そしてすぐに耳飾りに気づいてくれて、「つけてくれてありがとう」と嬉しそうに述べた。

「わざわざ足元悪い日に来てもらったのにすみません、ペルルさん今日いなくて」
「うん、だと思った!あのひと雨の日になるとよく店を閉めて買い付けに行っちゃうんだよね」
朗らかに笑う彼女は、天気のせいで湿った空気の店内をぱっと明るくしてくれる。
「今日はヒナさんに会いに来たのよ」
「わたしに?」
「うん、助けてくれた恩人だからね、ちゃんと報告しに」
はい?と首を傾げるヒナを気にせず、彼女は同行してきた男のひとを振り向く。ブラウンのノーカラーシャツに生成りのゆったりしたボトムを履く彼は、畳んだ濡れている傘をどうすればいいか迷っているふうだった。
「あ、傘は後ろの傘立てに、」
ヒナの声に、彼は自分の真後ろにアイアンの傘立てがあることに気づく。それから傘を収めてようやくヒナと目を合わせた。

ヒナより少しだけ幼い顔に、チョコレートのような暗いブラウンのふわふわな髪。
一重だけれど大きな双眸は、美しいオレンジゴールドの宝石を閉じ込めたようで。
「ちゃんと自分の言葉で言いなさい」
「わかってるよリラ、茶化さないで」
そうやり取りしたあとで、彼はもう一度ヒナを見た。
「助けてくれてありがとう、ちゃんと足治ったよ」
そう告げてふにゃりと整った顔を崩して笑う。もうヒナにはわかっている。
彼は自身を「タンゴ」と名乗った。

『トキワナズナの耳飾り』


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