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目指すは猫である

昨晩、熱にうなされながらふわふわした意識の中で聴こえた声。
「かあちゃん〜」
別室から時折聴こえる小さな鳴き声に、わたしは「ごめんなぁ、頼りない母ちゃんで」と出せない声で謝っていた。


インフルエンザもコロナも陰性ですね、抗生剤と解熱剤出しておきます。
なんとも抑揚のない声音で端的に告げられ、わたしはぽかんとしながら「ああ、はい、ありがとうございます」としか言えなかった。

新居に引っ越して、以前お世話になっていた病院を諸々変えなければいけないのは中々に困難だ。
家からすぐのところに良さ気なクリニックがなくて、以前なおさんがインフルエンザにかかったときにお世話になった少し距離のある院へ、今日の夕刻、わたしは自転車をゆっくり漕いで向かった。
足に力が入らなくて、すごくゆっくりでちょっと恥ずかしかった。

立派な建物の中にある静かなクリニックで、たまたまなのか人は少なく。発熱外来だったので入口近くのベンチで待つ、お会計前。
うむ、口コミは悪くなかったし事前の電話対応も良かったけれど、なんだろうこの、違和感というか。
まあわたしは初来院だったし、先生も受付の人も他にもいるんだろうな、あまり我儘になってはいけないな、と思いつつ、呼ばれたのでお会計をして外に出る。
今日は気温が暖かく、まだぼーっとする頭の前髪を風がくすぐる。心の中で「ありがとうございました」と改めて告げると、気のせいかもしれないけれど少しだけ、"違和感"も許せた気がした。

今朝起きたときは37度台まで下がっていたので、行けるなら今日の午後診察で行こうとは決めていた。
昨日なんにもできなかった事が自責に変わり、症状のひとつである腰痛を我慢しながら、掃除機やら洗濯やら。
なおさんはきっと怒る。辛いときは休んでほしいと口を酸っぱくして言う優しいひとだから。けれどわたしはなにかしていないとダメな性分で、働いていた頃はガンガンにワーカーホリックだった。
お風呂掃除までしてしまえば、体力の消耗と引き換えに少し心が楽になる。ただ、ずっと視線を感じていた。
猫だ。わたしが時折腰を気にしながら、ぼーっとしながら家事をしているのを、まるはじぃっと見つめてくるのだ。
「もう休むから。これ終わったら休むから、怒らんといて?」
「ほんまに?ほんまに休むんやな?これ以上がんばるんなら父ちゃんに言うで!」
それはとても困る。まるはどうやらなおさんに似てきているらしい。
それは勘弁してと、わたしは長く息をついてから白米を炊飯器にセットした。

家事をすると時間が溶けていくというのはどうやら本当で、あっという間に午後診療の夕方になりつつあった。そうして最低限の身支度をし、まるに留守番を頼んで玄関の戸を開けた。


……なんだ、インフルでもコロナでもないんじゃん。
わたしの感想はこれだ。良かったのかも知れないけれど、なんたらかんたらっていう聞き取れないウイルス名か何かを言われて、流行りのものじゃないから、みたいな感じでちゃちゃっと終わらされた気がしたのだ。風邪は風邪なのに。
常用してる薬もあるからとお薬手帳を見せても、医師は多分ちゃんと見てくれなかったと思う。
自転車で平坦なカーブの道を、またゆっくり漕いで進む。家の近くのドラッグストアに寄って、そこで処方箋受付をしよう。

やっぱり距離的にも近くはないし、もう少し近くの病院も前もってリサーチしておこうと思った。
緊急時には今日の内科も選択肢にいれておいて。
髪を撫でる風は暖かく、頭上の夕焼けは薄ぼんやりとおぼろげで綺麗。やっと春のひとひらをみた気がした。

……そう考えると、いい動物病院が近くにあったのはすごくありがたいことなんだな、と思う。

まるを保護した動物病院はわたしの地元からは近かったけれど、新居から車で1時間もかかるところで。緊急性を伴うときにすぐに行ける動物病院を探すことも並行して、まるを迎える準備ははじまった。
幸い、ひと駅分も距離がないところに、良い先生のいる院があった。料金は安いわけでも高いわけでもなく、まるを撫でる手付きがそれはもう優しくて、そばで見てても安心できた。

昨夜うなされながら夢か現かで布団に潜っていたとき、リビングから猫の鳴き声が聴こえた。
「かあちゃん〜」
心配するような、寂しそうな声で鳴くものだから、自力で会いにいけなくて辛くて。ごめんなあって頭の中で謝りながら、思い出した風景がある。

夜だった。昨年の暮に近かったと思う。まるが突然くしゃみを連発して、少しだけ血が混ざった鼻水が出た。わたしは夕飯の支度を中断して、仕事中のなおさんにメッセージだけ入れてから出かける準備をする。
わたしは車を持っていないので、自分が持ち運べるトートタイプのキャリーを買っていた。猫は
「大丈夫だよかあちゃん!ぼくへいきだもん!」
とか抵抗していたけれど何とか入ってもらって、病院までの道を線路沿いに歩いた。

冷気から守れるように温かいタオルを敷いていて、まるはキャリーに入ってからはとても大人しかった。外が怖くてやりようがなかったのかもしれない。
そうして動物病院で注射をしてもらって。
帰り道は電車の音が遠くなるように、少しだけ回り道をした。
「ぼくなんかされたんやけど」
「いいことされたんやで」
「ぼくなんもないって言ったのにさぁ」
「風邪引きさんが何言うてんの」
キャリーの中で、行きとは違いぶつぶつ文句を垂れる猫をあしらいながら、空を見た。
濃藍の澄んだ夜の中に、絵本のように大げさに瞬く星。
はじめて、車じゃなく徒歩で、なおさん抜きでふたりで出かけた日の夜空だった。

人間は不思議だなと思う。
自分が病んだときはそんなでもないのに、なおさんやまるみたいな大切な家族が体調を崩したりした途端、すぐにデイリースケジュールをリスケして、最優先=家族になるのだ。
自分に対しては、こんなにルーズなのに。これは猫も呆れるわけだ。

ドラッグストアを出て、またゆっくり自転車を漕ぐ。少し熱がぶり返してきた気がするけれど、わたしの今の最善は猫だ。心配してるであろう猫に会うことだ。
母ちゃん、もう少ししたら良くなるからね。そしたらまるの大好きな米袋でも遊んでやる。
いっぱいあそぼう。

細道の家々は小さな明かりが点々とついていて、月極の駐車場からドアを開けしめする音が聞こえる。
そういった人の気配と生活を感じ取りやすくなったなあと、季節の変わり目を思った。

『目指すは猫である』
「母ちゃんはもっとじぶんを大切にしてや!」
と、主人と同じことを言う息子が、容易く想像できた。

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