抜け、どこまでも
つい見栄を張って「出展します」と言ってしまった書道展の作品提出期限が、もう1ヶ月後に迫っていた。
無理やり始めさせられた書道教室。いくら段位が上がっても、先生に褒められても、書道が好きだと思ったことは一度もなかった。
それでなくても、稽古のせいで貴重な休みがつぶれ続けているのだ。その上に、稽古がない日に家で作品展の準備にかからなければならない。
「もう、なんで…」
全部自分で決めたことなのに、この状況があまりに理解できない。思わずぐちがこぼれた。
まあ、書いてればだんだん気分も乗ってくるだろう、そう思うことにして、とりあえず半切の画仙紙を敷き、墨を磨った。
慎重に、書き出しの位置を探る。
わたしは、書の書き出しの位置というのは、はじめから決まっているものだと思っている。名書家ともなれば、その「はじめから決まっている位置」が、ビー玉みたく、ぼんやり光って見えているのかもしれないが、わたしは今まで、偶然「そこ」に行きついたことしかない。
不安を抱えたまま、意を決して起筆。
そして、1字目、2字目、と書き進めてゆく。
ああ、今回はだめだ。失敗した。
でもとりあえず最後の「師」まで書こう。
「師」の最後の一画、縦に「抜き」の線。
わたしは、先生に教わったとおり大げさに後方へ、すあっ、と「抜い」た。
その瞬間、自分の背後で、
きいん、
という音が聞こえ、やがて遠ざかっていった気がした。
ややあって、少しだけよれて尖った「抜き」の切っ先をあらためて見た。
それはとても美しく、そして凶暴だった。
「おお…」
わたしは思わず、筆を両手で握った。
これは、わたし、好きだ。
こわい。
でも、好きだ。
でも、この「抜き」では先生の丸はもらえない。
もっと練習しよう。
それからわたしは、夢中で画仙紙の余白に「抜き」を書き続けた。
抜いて、抜いて、抜いて。
抜いて、抜いて、抜いて。
とうとう、真っ黒になった画仙紙は、やわらかく裂けた。
わたしはかまわず、うえい、という声とともに、ぼろぼろの紙に最後の「抜き」をきめ、筆を止めた。
そして気づいた。
筆を取ることは、武器を手にすること。
書くことは、武器を持つ者の力を解き放つこと。
この力を手にするために、わたしは書道を続けていたのだ。
気づくとわたしは、思いっきり胸を張って、まるで「会心の勝利」を手にしたときのような、晴れやかな笑みを浮かべていた。
感謝、幸せ、憧れ、好き。
もう、全部、言葉にしたい。
わたしは硯の陸に筆を休ませ、一気に新しい画仙紙を敷いた。
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