海からの贈り物
大好きな大好きな本❤
もう20年以上前に本屋さんの店頭で手に取った一冊。
離島の浜辺、穏やかな海に歩いて行ける距離のところに
小さな部屋を借りて過ごす。
部屋は簡素で、清潔なベッドと机と椅子があるだけ。
いつでも水着のままで、部屋のテラスの窓から出てそのまま海に向かうことができ、ぼんやりと砂浜に転がって過ごした後、砂が付いたまま部屋に戻って、すぐにシャワーを浴びることができる。
時計もない。電話もない。音が出るものは何もない。
おなかがすいたら、浜辺沿いに散歩しながら、近くのお店に行って、食材を買ったり、そこで少しおなかを満たす。
ベッドの横にある書き物をする小さな机の上には、ノートとペンとインク壺と貝殻が一つ。
そんなイメージが頭にずっとある。私の憧れの情景。
久しぶりに読みたくなって書棚を探してもないので
あたらしく買ってみたら
表紙がこんな素敵になっていて感動☆
130ページほどの薄い本ですが
この本を手に取った時
もう最初の2,3ページで引き込まれたのを覚えています。
飛行機で単独大西洋を横断したチャールズ・リンドバーグの妻で作家、
本人も飛行機を操縦していたそう。
1967年に初版が出たようですが
全く古さを感じません。
家のこと、子どものこと、近所の婦人会のこと、いろんなことで女性の生活と言うのは止まることがなく、つねに心も頭も体も動かし続けていて、それが当たり前になっている。
そんな中で彼女は2週間の離島での一人の時間を手に入れた。
浜辺で拾ったひとつの貝殻を目の前に置きながら、
女であるということが、丁度、車の輻(や)のように、中心から四方八方に向かっている義務や関心を持つことだからである。私たち、女の生活は必然的に円形をなしている。私たちは夫とか、子どもとか、友達とか、家とか、隣近所の人とか、凡てを受け入れなければならない。
子どもを産んで育て、食べさせて教育し、一軒の家を持つということが意味する無数のことに頭を使い、いろんな人間と付き合って旨く舵を取るという、大概の女ならばすることが<中略>女と職業、女と家庭、女と独立というようなことだけではなくて、もっと根本的に、生活が何かと気を散らさずにはおかない中で、どうすれば自分自身であることを失わずにいられるか。車の輪にどれだけ圧力がかかって軸が割れそうになっても、どうすればそれに負けずにいられるか、ということなのである。
私が生まれたころに書かれたものであるが、
今までの私の生活についての感想が書かれているように感じます。
子どもが小さいころは特に、
幼稚園、保育園、小学校のPTAを同時にしていたり、自治会、子供会、両方の実家、その周りの親戚づきあい、隣近所、子どもたちの習い事とその関連の保護者、パート先の付き合い、習い事、、、よくあれだけたくさんのことをこなしていたものです。上に書かれているように、大概の女性がするように。
それには、それぞれの相手との関係性や距離感で頭も気も遣うし、フットワークの軽さも要求されます。会いたくない人にも会いに行くこと。定期的に電話を入れないといけない人。いろんな用事を容赦なく中断するのは、子どもの健康、子どもの習い事。家に帰るまでに、効率の良いルートを頭の中で自動的に考えながら、先にあれして、これして、その前にあそこに寄って、郵便局にあの荷物も持ち込んでおかないと、子どもを拾ってからではむりあだな、などなど、始終頭を動かしている。そしてもちろん身体も、子どもを抱えたり、重い買い物の荷物を提げたり、布団を干したり、動かしている。
年子の上の二人が0歳、1歳の時などは、とにかくその日の二人の様子で、一日を組み立てないと、夕方パニック状態になる。早め早めの夕飯の準備や合間合間の家事。寒い冬に、まだお座りもできない長女と、お風呂で暴れまわる2歳にならない長男を同時にお風呂に入れて風邪をひかせないように、自分も寒くないようにするには、ということも、とにかく知恵を回して、さくさくとやっていたものでした。
でも、本当に疲れてしまって、、、
時々、壊れました。。。
朝、首がピキッ!と嫌な音を立てたと思ったら
全く動かなくなり、痛みで寝た体勢を変えることもできない。微動だにできないくらいの激痛。
そういうのも、珍しくオットが家にいるときに起きるのです。
身体と心は連動していて、今日なら休める、というのが無意識にだけど、身体に伝わるのですね。
激痛でも起こさないと、休めないから。
自分の話になってしまったけど、
どこのお母さんたちも、たくさんいろんな思いをして子育て期を過ごしていますよね。あ、お父さんがその役目のおうちもあることでしょう。
この本の著者のリンドバーグ夫人は、
そんな忙しい毎日から、2週間もの海辺での一人の休暇を手に入れたわけです。
自分の生活を簡素にしたい。目の前の貝殻のように、簡単なつくりの家に住んで、ヤドカリのようにどこにでもそのまま移動していけるくらいになりたい、という思いを抱きながら、
かといって、尼さんのような生活を望んだり、家族を捨ててと言うことでもない。どこかで釣り合いを撮り、またはこの両極端の間を往復できるような何かを見つけるのか。
少なくとも、私は手始めにこれからの二週間、私の生活を表面だけでも簡易にする練習をすることができる。やってみてその結果を待つことにしよう。ここの浜辺でならば、それができる。
というところから、この一冊の薄いけど、私にとっては自分の頭の中の声のような、素晴らしい文章が始まる。
この本を手に取って以来、私の中ではずっと、たった一人、海辺の小さな小屋で、ほんの少しの荷物だけで一定期間過ごすことが憧れだった。
過去と未来が切り離されて、ここには現在だけしかない。そして現在の中でだけ生きていることは、島での生活をひどく新鮮で純粋なものにする。「ここ」と「今」しかない時、子供、あるいは聖者のような生き方をすることになり、毎日がそして自分がすることの一つ一つが時間と空間に洗われた島であって、、、
カバン一つに収まる衣服と、読みかけの本とノートとペン、持ち物はそれだけ。私もきっと、一人、島で過ごすことになったら、荷物はそれだけにするでしょう。
ああ、現代人としては、スマホを持ち込むかどうかが悩みどころ。
あるかないかで、大きく違ってしまう。緊急連絡用としてのみ持ち込むとしても、それでは「連絡が取れてしまう」のだ。
本当に、携帯が当たり前になる前は、「出かけちゃえば連絡取れないのは当たり前」が大前提だったのに、それを忘れてしまっている。
連絡取れないからこその、それぞれの責任や、約束の大事さや、自由。
まずは、そこから自由になろうとすれば、スマホは持って行ってはいけないよなあ。。。
さて、私も、来年6月に退職したら、
憧れの「海からの贈り物」的生活をしてみようか。
ワクワクする気持ちと、寂しい感じと、待ちきれない思い。
そういう環境は、強制的に作らないとできないものだし、長い人生の中で、一度、何もかも置いて、生身の一人きりになってみるのも良い。
そこで、私は何を思い何を感じるのだろう。
浜辺は本を読んだり、ものを書いたり、考えたりするのにいい場所ではない。温かすぎるし、湿気があり過ぎて、本当に頭を働かせたり、精神の飛躍を試みたりするのには居心地が良すぎる。しかし何度繰り返しても同じことで、やはり浜辺へは禿げちょろの藁の籠に本や、紙や、もうずっと前に返事を書くはずだった手紙や、削りたての鉛筆や、しなければならないことの表などをいっぱい詰めて、張り切って出かけていく。そして本は読まれず、鉛筆は折れて、、、
これも冒頭の一部。本当に自分も同じことをしている。
2週間あっても、はじめは自分の疲れた体が凡てで、何もする気が起きない。そのうちにただ横になって、浜辺と一つになっていく、、、空っぽになっていく、、、という感覚。
まだ自分には起きていないけど、きっとそうなのだろうと思う。
色々張り切って行って、しばらくはいつもの癖で、こんなにぼんやりしていることにどこか「罪悪感」を感じたり、3日4日と経つうちに、「何もしていないのにどんどん日が過ぎる、もうあと何日!?」と焦ったりすることだろう。
それを通り過ぎて、とにかく「生きて」いる自分になってみること。
「今」しかない自分に、物理的になってみることを、日々、忙しく過ごしている私自身の、心が渇望しているからこそ、この本にこれだけ惹かれるのだろうと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?