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さみしい怪獣|感情をめぐる恋愛短編1


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秋になるまで、わたしはとにかく、あの子が嫌いだったのだ。



会社のデスクはあの子の席の真後ろだから、見たくもないのに背中が視界に入り込む。
強風が吹きつければ飛ばされてしまいそうな、薄い肩。
マトリョーシカ人形を思い起こさせる、小さな頭。
何もかもが小ぶりにできているあの子は、遅刻すれすれに出社すると、一日中、世界から隠れるようにちんまりと背筋を丸めている。

始業時間を過ぎれば、物の少ないあの子のデスクに、書類がどんどん積み重なっていく。
渡される書類は、どれも不備だらけ。
請求書がホチキスでぐちゃぐちゃに留められた経費精算書とか、日付も金額もめちゃめちゃな見積書とか、決裁者のはんこが見当たらない稟議書とか、そんなのばっかり。

わたしなら、受け取らないで突き返す。
だけどあの子は、中身を見ずに受け取っては、いちいち間違い探し。
ちょっとした不備は、自分で直して処理してしまう。
大きめの不備を見つけたときは、作成者の席までおもむき、ミスをしたのはあの子の方だと勘違いしそうなくらいおどおどしながら「すみません、修正をお願いします」と頭を下げる。

あの子がそんなふうだから、みんながみんな、あの子に甘えて、出来損ないの紙切れをうみだしつづける。
わたしの突き返した書類も、無修正のまま、あの子のデスクに横流し。
あの子は毎日残業で、結局、同じ部署のわたしも、手伝わされるはめになる。

正直、あの子には、うんざりだったのだ。


「とか文句言いながらも本郷さんをフォローしてあげる加賀は、やさしいと思うよ」

佐和山はそう言って、やたらと細いストローでグラスのりんごジュースを吸いあげた。
わたしは口の中のアボカドバーガーを高速で噛みくだき、訂正する。

「やさしさじゃなくて、仕事。経理の下っぱは、わたしとあの子だけだから、仕方なくやってんの。勝手にいい人に仕立てんな」

「そっか、そうだよな。適当に言ってごめん」

素直な謝罪に満足して、わたしは口を縦に開け、またアボカドバーガーにかぶりついた。
汗がにじみ、ポニーテールのおくれ毛が首筋に張りつく。
ノースリーブのリブニットも肌にへばりついてきて、うざったい。
真夏の日差しがレースのカーテンを突き抜け、むきだしの肩から腕までを焼きあげていく。
窓際のテーブルを選んだのは失敗だった。

一方、佐和山はネクタイをだらしなくない程度に緩め、笑顔でチーズバーガーをほおばっている。
換気のために数センチ開けられた窓からぬるい風が流れこんで、佐和山の猫っ毛をほよほよと揺らした。

「やっぱ、ここのピクルスうまいなあ! 会社からけっこう遠いけど、たまにすごく恋しくなるんだよなあ」

佐和山の満ち足りた表情を眺めるうちに、あの子への腹立ちは薄まっていき、わたしの咀嚼スピードは穏やかになった。

同期の佐和山は、社員の間で「お人好しすぎる男」として有名だ。
年中無休で機嫌がよく、怒ったり焦ったりしているところを見たことがない。
ランチや飲み会ではいつも、同僚の愚痴をにこやかに聞いている。
かといって同調もせず、励ましや慰めも口にせず、「だし巻き大好き」とか「から揚げにレモンしぼっていいですか?」とか「カルピスサワーは濃いめが最高!」とか、そんなことばっかり言っている。

地味にコミュ力が高いので、実は営業部の期待の星らしい。
経理に提出する書類を不備なくつくれるという点では、わたしも佐和山を高く評価している。
なお、見た目が似ている有名人は菩薩(ぼさつ)だ。

その日わたしが佐和山をランチに誘ったのは、いつものようにあの子へのいらだちを吐き出して、デトックスするためだった。
目論見通り、アボカドバーガーをたいらげる頃には、あの子のことなんてどうでもよくなっていた。とはいえ、効果は三日と保たないのだけれど。

ミントの香りがする新しいおしぼりをもらって、肉汁にまみれた手をぬぐっていると、佐和山が急に言った。

「俺、本郷さんと話してみたいなあ」

「は? なんでまた」

「しょっちゅう加賀に話を聞くから、どんな人か気になってきた」

「……話してもつまんないよ。会話つづけようとしないから」

ふと、苦い記憶がよみがえってきた。
取り急ぎそれをわかりやすい塩気で上書きしようと、わたしは残りのポテトフライをたばね、ケチャップのケースにどっぷり突っ込んだ。

そのとき、事件は起きた。

「会えるって言ったのに! 嘘つき野郎! ばかたれ!」

突然の罵声に耳を打たれ、わたしはケチャップまみれのポテトをお皿に落とした。

声の主を目で探し、さらに驚いた。

少しだけ開いた窓の向こう側、大通りに面したテラス席に、ひとりぽつんと、ショートボブの女の子が背を向けて腰かけている。

見飽きるほど見慣れた、小さな背中。

佐和山が目をしばたたき、声をひそめた。

「加賀、もしかしてあの人……」

「うん、本郷さんだね……」

あの子は、電話中のようだった。テラス席にはほかに客はいない。
あの子は罵詈雑言を並べ立てるのに夢中で、店内からうかがうわたしたちに気づかない。

「『そのうち埋め合わせする』とか、ばかじゃないの!? それじゃ意味ない、無意味なの! 無駄! 無! 無だよ無! アホ!」

怒りむきだしの言葉が、やわらかくて細い声で連射される。
音量はさほど大きくなく、あの子の声は、道路を行き交う車の騒音にまぎれていく。
けれど、窓を挟んだわたしたちの耳には、どぎついくらいクリアに届いた。

「今日! 今日じゃないと意味ないの! 今日会いたいんだから、今日会えないと意味ないの! 今! 今、今、今! 今、会いたいんだよ、ボケナス!」

あの子は本当に、わたしの知っているあの子なんだろうか?
よく似た双子とか親戚とか、ドッペルゲンガーとかじゃないだろうか?
いや、でも――

「やっぱり間違いなく本郷さんだ。髪型もワンピースも、靴も、ランチトートも、今日の本郷さんと一緒だもん」

「よくわかるな」

「……まあ、席うしろだから」

わたしは言葉を濁し、窓の外を覗きつづける。見たくないのに、意識を吸い寄せられてしまう。

いつだって視線が、自分のつま先辺りで迷子になっているあの子。
誰が相手でも「すみません、今いいでしょうか」と恐縮し、逃げ腰で話しかけるあの子。

そんなあの子が今、腹の底からブチ切れている。
華奢なマトリョーシカの内部に、これほどのエネルギーが隠されていたなんて。

「会いたいったら会いたい! わたしがこんなに、どうしても、何がなんでも会いたいのに……会えないなんて、おかしい! 理不尽! 許せない……絶対ぜったい、許せない! ねえ、ちゃんと聞いてる!? 聞いてよ!」

あの子は電話に向かって、息つぎもそこそこに、猛(たけ)る感情を発射しつづける。
怒気がゆらめきたつような後ろ姿に、街の平和をビームでぶち壊すパニック映画の怪獣が重なった。

私は、逃げ遅れた街の人みたいにその場で硬直し、怪獣から目をそらせない。

すると、佐和山がぽつりとつぶやいた。

「電話の相手って、恋人かな」

「そうでしょ。恋人じゃなかったらやばいよ。いや、恋人でもやばいか、あのキレっぷりは」

「キレっぷり……」

「わたしもちょっとしたことですぐ腹を立てるタイプだけど、あそこまで怒ることはめったにないわ」

「あれって、怒ってるのかな」

「え?」

佐和山を振り返ると、見たことのない真剣なまなざしを、あの子の背中に注いでいた。

「時間ないから、もう切るから!」

凄みを増した怒声が、わたしたちの会話をさえぎる。

「今度約束やぶったら、本当に許さない!」

言い捨てたあと、あの子は勢いよく立ち上がり、携帯電話を真っ二つにたたき折った。

――折った!?

目を凝(こ)らして、わたしはその日三度めの驚愕に見舞われた。

あの子が使っていたのは、くすんだ銀色の、旧式ふたつ折り携帯だったのだ。
壊したと思ったのは勘違いで、単に折りたたんだだけのようだ。

「ガラケーって久々に見た……」

「俺も……」

あの子は携帯をランチトートに突っ込むと、早足で店を出ていった。

窓際のテーブルに、静けさが戻ってくる。
けれど、不気味な怪獣が去っても、わたしと佐和山は、不穏な非日常に取り残されたままだ。
なにしろその怪獣は、同じ会社で働く顔見知りなのだ。

「そういえばさっきの携帯、本郷さんがいつも使ってるやつと違ったな。あの子、アイフォンのはずだけど」

「恋人用に二台持ちしてるってことか……。加賀って、仲良くないわりに本郷さんのことくわしいね」

「……だから、うしろの席だから」

わたしは、冷めきったポテトを口に詰めた。もそもそしていて、いくら噛んでもこなれない。

佐和山はと言えば、窓の外を向いたまま、あの子の座っていた椅子を、黙って見つめつづけていた。


佐和山があの子への猛アプローチを開始したのは、その直後だ。

物静かなあの子が怒り狂う瞬間を目撃した結果、なぜか、恋に落ちたというのだ。

「いったい何がよかったわけ?」

呆れ果ててわたしが尋ねると、佐和山は目を輝かせて答えた。

「自分でもよくわからないけど、ものすごい吸引力を感じるんだ」

あの子はダイソンか。

わたしの困惑をよそに、佐和山は恋路を突き進んだ。
毎日経理の島を訪ねてきては、あの子に話しかけて話しかけて話しかけて話しかけて、話しかけまくった。



「本郷さんって机の上スッキリしてますよね。整理整頓、好きなんですか?」

「はい、まあ」

「俺も好きなんです! 楽しいですよね、片付け」

「まあ、はい」

「家にいるときはコロコロを手元に置いといて、四六時中、掃除しちゃうんですよね。あっ、潔癖ってわけじゃないですよ。本郷さんはどうですか? 家にいるとき、どんな感じですか?」

「いえ、まあ……」



「お疲れさまです、本郷さん。書類山積みですね。俺、手伝いましょうか? 新人研修で経理の仕事もひと通り習ったんで、ちょっとしたことならできます。遠慮いりません!」

「……大丈夫です」



「本郷さん、取引先から来年のカレンダーもらったんですけど、いりませんか? じゃん! 犬の写真のカレンダー! 癒やされますよね! このゴールデンレトリバーなんて、でっかくてかわい、」

「結構です」



「いい天気ですね、本郷さん! 一緒にランチとかどうですか? 会社から少し歩いたところに新しくイタリアンができ、」

「予定があるので」



「どう考えても脈ないね」

「やっぱりそう思う?」

佐和山はカウンター席で身を縮め、湯呑を手のひらできゅっと包んだ。
その隣でわたしはそばにわさびを少し乗せ、つゆに半分くぐらせた。
ひと息ですすると体の内側がひんやりして、そろそろ模様替えして長袖を出そうかな、と思った。

「なあ、真剣に聞いてる? 俺、本気なんだ」

「聞いてる聞いてる」

と言って聞き流しながら、そばをまた丁寧にすくう。

最近、佐和山とランチをすると、一方的に恋の悩みを相談されるので、愚痴をこぼす暇がない。
もっとも仕事のストレスは、佐和山の熱心な求愛行動にあの子が迷惑する様子を眺めることで、相殺されるようになった。
お陰でランチを楽しむ余裕もうまれた。

ため息を繰り返す佐和山を放っておいて、つゆに後追いで白ネギを投下する。
すりガラスの窓から降りかかる光が、ブラウスの半袖をのどかに撫でる。
夏がもうすぐ終わるのを、二の腕で感じた。

「どうしたら本郷さんと打ち解けられると思う?」

「どうもこうも、脈ないんだからあきらめなよ」

「俺のこと知ってもらった上で、好きじゃないって言われたら、そりゃあきらめるよ。でも、まともに話もしてないんだ」

「そもそもあの子、恋人いるじゃん。ほら、例の電話相手」

「物静かな本郷さんをあそこまで怒らせるような、駄目な恋人だ」

佐和山の両目が、嫉妬をみなぎらせて光っている。

わたしはげんなりした。

恋なんてたいてい、はたから見るとばかみたいだ。

「実はさ……あの、引かないでほしいんだけど」

改まった言い草に、胸騒ぎがした。

「どうにかお昼に誘う方法を探れないかと思って、俺……先週一週間、本郷さんがランチするのを、こっそり観察したんだけど……」

「いや引くわ!」

「だよな、ごめん! けど最後まで聞いて、頼む!」

のけぞったわたしの腕に、佐和山が縋(すが)る。
瀕死の小兎みたいに肩をふるわせている。
置き去りにすれば泣き出しかねない。

こいつ、本気でどうかしちゃってる。

これまで佐和山が「お人好しすぎる男」でいられたのは、他人への関心が薄かったからなのだと、ふと理解した。
感情の揺れが少ないから、いつも健やかでいられたのだ。
それが、マトリョーシカが怪獣に変貌する瞬間に遭遇し、放たれたビームの余波で、おはぎのようにどっしりとしてまろやかだった佐和山の精神は変質してしまった。
恋に冒(おか)され、心が熱暴走し、理性は焼き切れ、こんな無様な、息もたえだえの小獣になり果てた。

なんだか、佐和山が哀(あわ)れに思えてきた。

わたしは仕方なく椅子に座り直して、話に耳を傾けてやることにした。


佐和山の言うことには、あの子はいつも、ランチにはひとりで出掛け、会社の人がほとんど来ない店へ入る。
そして、混雑していて騒がしい店の片隅や、大通りに面したテラス席を選ぶ。

食事をはじめるのが、たいてい十二時十五分。
食べ終わるのは、だいたい十二時五十五分。
それから決まって十三時、あの子のふたつ折り携帯に、恋人から電話がかかってくる。
「今日は会えない」という、おわびの電話が。

電波を通じて謝る恋人に、あの子はみっちり三分間、情け容赦なく罵声を浴びせつづける。
おそらくそのために、多少声を荒げても目立たない店と席を選んでいるのだと思われる。

約束を破った恋人を、あの子は決して許さない。
やわらかく澄んだ声に不釣り合いな罵り文句を、これでもかというほど並べ立てた挙げ句、一方的に通話を断ち切る。
そして仕上げに、古びた銀色の携帯を、力いっぱい叩き折るのだ。


「本郷さんの恋人は、本郷さんをずっとほったらかしにしてるんだ。あの様子じゃ一週間そこらの話じゃない!」

「ふうん……」

「ひどすぎる! 恋人失格だ!」

自分のストーキングまがいの愚行を棚にあげて、佐和山は憤慨している。
その横でわたしは、まったく別のことを考えていた。

ハンバーガーショップで見た光景が、脳裏に浮かびあがる。

ひどく暑い、晴れた日だったはずなのに、記憶の中のあの子の背中は、濃いブルーの影に覆われている。

その青に、見覚えがあった。



去年の秋、あの子が転職してきた日のことだ。

経理に新しく加わるのが二十代の女性だと上司に聞いてから、わたしは年の近い同僚ができるのを心待ちにしていた。
絶対に仲良くなろうと、会う前から決めていた。

入社当日の朝、人事の担当者に案内されて、あの子は席へやってきた。
顎のラインで切りそろえられたショートボブ。
ゆったりしたひざ丈のワンピース。
一重の瞳は張りつめていて、意志が強そうに見えた。
小柄だけど、くっきりした存在感がある。
わたしは仕事の手を止めて、あの子に見惚れた。

あの子はものの五分で私物を整理し終えると、オリエンテーションを受けるためにいったん席を離れた。
わたしは、無人になった席から目を離せずにいた。

さっきまで誰のものでもなかったデスクが、主(あるじ)の不在を訴えているように感じる。
片隅に置かれたある物のせいだ。

木製フレームのシンプルな写真立てに、ポストカードが収まっている。
わたしの大好きな、異国の画家の魚の絵だ。

その作品を知ったのは、高校の美術の授業だった。
深い青の中を、黄金の魚が一匹、たゆたっている。
さっぱりとした孤独と凶暴な生命力を感じるこの絵が、わたしはとても気に入って、この画家の展示があると知れば、普段は行かない美術館にも足を運ぶ。

あの子のデスクの一角を、濃いブルーがつつましやかに染めている。
そのほかに私物は一切ない。
きっとあの子は、よっぽどこの絵が好きなのだ。
一枚の紙切れにこめられた、あの子の想いの激しさが、胸に迫ってくるようだった。

席に戻ってきたあの子がPCのセットアップにいそしむ間も、わたしは観察しつづけた。
かかとの低いパンプスは磨きあげられ、つま先の絶妙な丸みが、全身のシルエットと絶妙に噛み合っている。
袖机に置かれたドット柄のランチトートは、わたしもよく行くショップのものだ。
取手の付け根が丁寧に繕われていて、長い間、愛用しているのだとわかった。

あの子が選び、身につけ、使い込んでいるすべての物が、あの子の特別なお気に入りなのだ。
そのことが、持ち物ひとつひとつから伝わってくる。

わたしたち、絶対に趣味が合う! 間違いなく仲良くなれる!

舞いあがったわたしは、午前中の仕事を手早く切り上げ、あの子をランチに連れ出した。

けれど、結果はさんざんだった。

「デスクに飾ってあるポストカード、クレーの絵だよね? 好きなの?」

「はい、まあ……」

「やっぱり! わたしも好きなんだ」

「はあ……」

「…………」

「…………」

「ええっと、そのランチトート、可愛いね。実はわたしも、そこのお店の服とか雑貨とか大好きでさ」

「……はあ」

「…………」

「…………」

「その……今日着てるワンピースも、素敵だなって思ってて。着心地、よさそうだね」

「……まあ」

「…………」

「…………」


あの日、どこの店で何を食べたか、少しも覚えてない。

いくら会話のボールを投げても、あの子は投げ返すどころかキャッチさえせず、言葉は残らずテーブルに墜落した。
自分で会話を打ち切っておきながら終始申し訳なさそうな顔をして、何度も水を飲んでは、言葉を返さない口を湿らせていた。

ほどなくして、わたしはあの子の、損や面倒を背負い込む気弱な仕事ぶりを知るようになり、仲良くなりたい気持ちは消え失せ、いらだちをつのらせる日々がはじまった。
ランチには二度と誘わなかったし、業務上必要なとき以外、話しかけることもしなかった。

なのに時々、わたしはうっかり、あの子の素敵な一面をあたらしく発見してしまうことがあった。

あの子によく似合う、森を思わせる香水をほのかにまとっていること。
最近見つけた書き味がたまらないボールペンを、あの子も使っていること。
ミスをして上司に怒られ、しおらしく謝罪したあと、席に戻るときのクールな横顔。微塵も反省していない、巧妙に隠されたあの子の図太さ。

あの子の美点に気づくたび、わたしは悔しくて、ひそかに悶(もだ)えた。
わたしがあの子に何を思おうと、きっとあの子は、わたしをなんとも思わない。

それでも毎日あの子の背中はわたしの視界に入りこみ、身の回りに散りばめられた愛すべき物たちはいちいち目について、それらは相変わらず好ましく、それがまたいらだたしく、デスクの隅に飾られた青い絵は今日もひっそりとあの子の世界を彩りつづけ、何度だってわたしの目を奪って、だから。

わたしはあの子を、嫌いになったのだ。

あの子を好きになりたがるわたしの心に、うんざりしていたのだ。



「せめて、一回だけでもいいからランチしてもらう!」

力強い佐和山の声に、わたしは我に返った。

「加賀、協力して」

「は?」
「本郷さんとのランチ、一緒に来て。同じ部署の加賀が一緒なら、誘いに乗ってくれると思う!」

「……ないよ、ないない」

「やってみないとわからないじゃんか!」

「いや、無理だって」

記憶の苦みがぶり返す。あの子がもう一度わたしとランチしたいなんて、思うわけがない。

「せめてチャレンジだけでもさせて! な! この通り」

佐和山はカウンターテーブルに両手をついて、深々と頭を下げた。
そのテンションの上がりっぷりに、会話をつづけるのが面倒くさくなった。

「わかった、勝手にしなよ。どうせ無理だから」

「ありがとう!」

スマホで店選びにいそしむ佐和山を、いっそう不憫に思いながら、わたしは時間をかけてそば湯を味わった。



けれど、一週間後の昼。

わたしは佐和山の隣で、あの子と、テーブルを挟んで向かい合っていた。

「ここが前に話したイタリアンです! どれも美味しいんですけど、アラビアータが俺のイチオシです! 加賀は来たことある?」

「いや、わたしははじめてだけど……」

「本郷さんも?」

「はあ……」

「…………」

「…………」

「…………」

「ええっと、俺、今日はカルボナーラにしてみようかな。あー、いい匂い! これだけで腹が減るなあ。ねえ加賀!」

「まあ、うん……」

「本郷さんも、お腹減りましたよね!」

「いえ、まあ……」

「…………」

「…………」

「…………」

「デザートも美味しいんですよ、ここ! ティラミスとかパンナコッタとか。加賀、甘いもの好きだよね?」

「うん、そうね……」

「本郷さんは、甘いものは?」

「はい、まあ……」

「…………」

「…………」

「…………」

とにかく全員、水ばかり飲んだ。
水差しのボトルはどんどん減り、食事が来る前にカラになった。

佐和山がいくら話題を振ろうと、あの子はろくにあいづちも打たず、苦行に耐える修道女のような顔つきでパスタフォークの先を見つめている。

わたしはわたしで、何も言葉が浮かばない。
自分が今どんな表情を浮かべているかもわからない。
おもりでもついているみたいに、唇が重い。

だってわたしは、あの子が嫌いだから。

きっとあの子も、わたしが嫌いだから。

佐和山イチオシのアラビアータは、何の味もしなかった。
その上、おろしたての白シャツにトマトソースが跳ねた。
最悪だ。

必死に会話の糸口を探しつづけていた佐和山も、徐々に笑顔を失っていき、お皿が下げられ、セットになっている食後のコーヒーを待つ頃には、のしかかる沈黙に全員があらがうのをやめていた。

一刻も早くこの時間を終わらせたいのに、コーヒーはなかなか来ない。
わたしは気まずさを通り越し、腹が立ってきた。
食後のドリンクサービスなんてものを考案した奴を、ぶん殴りたい。
こんなランチをセッティングした佐和山は、磔(はりつけ)にしてやる。

それから、あの子。
そもそも、なんでランチに応じたんだろう?
ムカつきが極(きわ)まって、神秘さえ感じる。

そろそろ血管が切れそう、と思いはじめたとき、店員がカラの水差しに気づき、替えを持ってきた。
砂漠でオアシスを見つけた人のように、佐和山はボトルに飛びついた。

「俺が注ぐね! のど渇くよね、なんか!」

久しぶりに言葉を発することができて勢いづいたらしい佐和山は、ボトルを思いきりよく傾けた。
どっと水が溢れ、グラスの底でバウンドし、あの子のワンピースのお腹の辺りに盛大に跳ねた。

「あっ、ごめん!」

「いえ……」

「本当にごめん! 今おしぼりを! ていうか着替え、あっ、クリーニング……!」

「大丈夫です」

慌てふためく佐和山に、あの子はきっぱりと言った。

「わたしのことは気にしないで」

表情を変えずに席を立ち、あの子はお手洗いへ行ってしまった。

「ああ……」

佐和山の喉から、うめき声が漏れる。
ヒキガエルが踏みつぶされたら、きっとこんな声で鳴くんだろう。
わたしも、止めていた息を吐き出した。

「ガチ切れしないんだね。電話のときみたいに」

「キレられたほうがよかった」

佐和山は小さくつぶやき、濡れたテーブルの上に視線をさまよわせた。

――ピリリリリ。

突然、昔風の電子音が響き出し、佐和山と顔を見合わせる。
音は、椅子に置かれたあの子のランチトートから聞こえてくる。
間違いなく、例のふたつ折り携帯だ。

店内の視線が集まってくる。
着信はやまず、あの子は戻ってこない。
さっきの失敗を引きずっている佐和山は、おろおろと目を泳がせるばかりだ。

とりあえず、音を止めないと。
わたしはためらいながら、あの子のランチトートに手を伸ばした。
騒ぎたてるふたつ折り携帯を探り出し、パカッとひらく。

液晶画面を見て、指が止まった。

「これ、着信じゃない……アラームだ」

「え?」

表示時刻は13:00。

電子音が、自動的にプツッと途切れる。

そして、小さな声が聞こえ始めた。


* * *


――ピー……留守番電話を、再生します。


――あ、もしもし? ごめん!
今日やっぱ、会えなくなった!
補講あったの忘れてて……もうゲタ箱で待ってるかな。
ほっんと、ごめん。先に帰ってて。
そのうち埋め合わせするから、絶対!
あー、会いたかった……会いたいな。
そうだ、補講がはじまるまで留守電にしゃべってていい?
つーか、しゃべらせて!
今日さ、授業中ずっと、こっそり見てたんだ、後ろ姿。
ノート、まじめに取ってんだな。
すげーえらい!
あと髪。
すげーきれーだなーって思って見てた。
髪型、ボブっていうの?
似合ってるよな……あー、なに言ってんだろ。
はじめて彼女できて、ちょっとおかしくなってんだな、多分。
ふふ。
あっ、やばい先生来た。もう切る、また明日!


――ピー……プツン。


* * *


「どうして……」

ただならない声がして、わたしと佐和山は同時に振り向いた。

あの子が真っ青な顔で、テーブル脇に突っ立っている。

「ごめん勝手に」

無音になった携帯を、急いでテーブルに置く。

「着信があって、音が大きいから止めなきゃと思って。でも、電話じゃ、なかったみたいで……」

喉がすぼんで、言葉が詰まる。

すると、あの子は静かに言った。

「留守電の録音なの。高三のときの彼氏の」

「高三……?」

「電話の次の日、死んじゃったの、事故で」

「え」

わたしは顔を上げた。

ぼろっと、あの子の目から涙が落ちた。

「う、うぅぅ……」

怪獣が、うなりはじめた。ビーム発射寸前だ。

わたしはとっさにあの子の腕をつかんで、店を飛び出した。

風が強く吹きつけたかと思うと、あの子は声をあげて泣き出した。

「また明日って言ったくせに! 嘘つき野郎! ばかたれ!」

怪獣の咆哮を真っ向から浴びて、わたしは息を止めた。
道ゆく人たちはぎょっとした顔になり、足早に通り過ぎていく。
泣き声が次第に大きくなる。
それに呼応し、わたしの心臓はギチギチとふくれあがって、内側から胸を圧迫する。

携帯から聞こえた、青空に抜けていくような少年の声。
未来が断ち切られることがあるなんて想像もしていない、希望と幸福に満たされた声。

わたしは両手を伸ばして、泣き止まないこの子を抱きしめた。

熱い水がシャツの胸元に染みこんで、体温がまじりあう。

この子はきっと、自分の身の回りを愛するもので固めなければ、気がすまないのだ。
どれも長い間、大切に使い込んできたのだ。
髪型もワンピースも、靴もバッグも、突然途切れた淡い恋も。
ひとつのものをかたくなに愛してしまうのが、この子なのだ。

佐和山がこの子に激しく惹きつけられた理由が、わかった気がした。

この子の心は、人の想いを吸い込むブラックホールだ。
誰かがこの子に好意を寄せても、この子に好意を返す余力はない。
もうここにはいない恋人が、この子の心に湧きでる感情を、底なしに吸引しつづけているから。

愛したものがいなくなろうと、想いは変わらずにつづいていく。

この子はずっと、さみしかったのだ。

さみしくて、愛するものがここにいないことを絶対に許せないくらいさみしくて、ずっと、ふたつ折りの携帯に、声の限りに叫び続けてきたのだ。

会いたいと。

会えなくても、会いたい気持ちは、在(あ)りつづけると。

この子がこんなに泣いているのに、秋のはじまりの風が冷ややかに頬を打つ。

世界は、理不尽のかたまりだ。

「あの!」

張りつめた声がして、わたしたちは顔をあげた。

佐和山がみんなの荷物を抱え、そばに立っている。存在をすっかり忘れていた。

「使ってください、これ!」

差し出されたものを見て、わたしたちは驚いた。

テーブルに置いてあった、紙ナプキンの分厚い束。

「俺、ハンカチとか持ち歩いてなくて……ひとまずこれで涙を!」

わたしたちは、思わず顔を見合わせて――

同時に、笑いだした。

「これは、ないわ」

「うん、ないです」

「ですよね……これからはちゃんとハンカチを……ほんと、すみません」

本郷さんは、佐和山の手から紙束を取り上げると、おざなりに目元へ当てた。

「一応、ありがとうございます」

「は、はい!」

佐和山の頬が、ぱっと上気する。

「色々なことのおわびに、またランチに誘ってもいいですか?」

「考えときます」

「加賀も行こう! な!」

「考えとくよ」

佐和山は、ばかみたいにしまりのない笑顔を見せた。

本郷さんは、しわくちゃの紙ナプキンの束をきっちり伸ばし、折りたたんでポケットに仕舞った。

わたしは、体がほんのり熱くなって、これもまた理不尽なことだけれど、もっと風が冷たくてもいいのに、と思った。







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