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こいしい神様|感情をめぐる恋愛短編2
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ピンクグレープフルーツ色の夕陽が、窓という窓からレーザービームみたいに照射する放課後、ただ、君だけ見ていた。
高校の誰もいない教室で、わたしは自分の席に居残り、マスカラで武装した瞳をスマホに固定し、君の映像を摂取する。
ダンスボーカルユニット「#e4700f」のGくん。
身長177センチ、体重66キロ、チャームポイントは大人っぽい切れ長の二重、でも笑うと赤ちゃん並みに無防備になる小顔。
趣味はフットサル映画観賞およびヨガ。
特技バク宙。
小さい頃からバレエを習っている。
今の髪色は黒、先月はオレンジ。
1999年9月3日生まれO型乙女座、誕生石はサファイヤ、誕生花はマーガレット。
つまるところ、君は完璧な超生物。
最愛にして唯一の、わたしの推し(神様)。
君は画面の中、電光を媒介して顕現(けんげん)する。
You Tube公式チャンネルに、昨日の真夜中アップされたMV。
君のソロ曲。
つまり神曲、天界のミュージック。
徹夜でワンリピート、通学路も授業中も昼休みも回しつづけて今、バイトまでの空き時間もあまさず君に捧げる。
一日じゅう見つめても君が足りない。
スマホの充電、のこり8%(ぱー)。
もう少しだけ生き延びろ。
祈りをこめて▶ボタンを指で押した。
四角形の神器が閃(ひらめ)き、その内側で君が目をひらく。
五感の感度が、最大値まで跳ねあがる。
君のパルスを、全神経が受信する。
MVの舞台は、廃墟の野外劇場(コロッセオ)。
朽(く)ち果てた石舞台で、君は悲しいバラードを歌う。
艷やかな黒髪。
ゆれる毛先にほとばしる自由。
小麦色の肌。
なめらかにうるおった沃野(よくや)の頬。
色素の淡い瞳は鼈甲(べっこう)。
太古から受け継がれる奇跡のきらめき。
血管の筋が天然のレリーフとなり、君の四肢(しし)を飾りつける。
わたしは日々、君を的確に崇め奉るため語彙力を磨き、君という存在を精緻に表すべく言葉を搾(しぼ)りだす。
肩にかけたジャケットが風をはらんで広がり、まるで天使の羽のよう。
神々しい君の身体は、いつ天に召されてもおかしくない。
一対の長い脚が、危ういところで地面につなぎとめている。
君の頭上に、重たげな黄昏が覆いかぶさる。
世界が圧し潰されないよう、君が腕を伸ばし、空を支えている。
たったひとりで。
天上天下唯君独尊(てんじょうてんげゆいきみどくそん)。
君は人間じゃない。
うまれる前から待ちわびた、わたしの救世主。
――キンコンカンコン!
チャイムの音が聴覚に割り込む。
ムカついて、わたしはワイヤレスイヤフォンを手のひらで押さえつけた。
今は礼拝の時。
君の歌声以外、すべてがノイズ。
このうすい皮膚の外側は、無駄のコラージュ。
必要なことなんて実は、耳かきですくえるほど。
世界とは、わざわざ泳ぐ意味をこじつけられなければ、呑み込まれて脳を溶かされる汚泥(おでい)。
わたしはかつて、そこで溺れていた。
人生という、見え透いた未来をこなす流れ作業が、ダルすぎて地獄だった。
絶望に慣れていることに、絶望していた。
けれど、永遠に記念すべき四年前の冬の日。
君がわたしの世界に、この汚泥に降臨した。
テスト勉強をサボって流し見していたYou Tube。レコメンド機能が、わたしに神様の存在を啓示した。
歌い踊る君をはじめて見たあの瞬間、魂が感電した。
何かに深く嵌(は)まったことは、それまでなかった。
オタクをやっている友だちは、理解不能な別種のトライブだった。
推しと出逢い、劇的に沼に落ち、やがては冷めてあがって、別の沼に落ち、またあがり、萌えては萎えてを繰り返す不屈のダイバー。
さぞ心騒がしい毎日を送っているのだろうと、雑に予想していた。
けれど、君に落ちてわたしは知った。
たしかにわたしの意識は、君という存在を咀嚼するのに日々忙しい。
ただ、その一方で、心の底は、ゆるぎない静謐(せいひつ)で満たされている。
今のわたしは、強固な意志をもって断言できる。人生には、生きる意味があると。
君がわたしに、希望を与えた。
2サビが流れだし、MVに注意を引き戻される。
いついかなるときも、君の引力は絶大だ。
「あいしてる」と歌う君の声が、少しかすれる。
ピッチがずれている。
でも、だから何?
君の声帯に選ばれた音程に心から祝福の拍手を贈る。
――あはは! 今日、担任がさ……。
再び、廊下から雑音。
わたしは舌打ちし、耳をふさぐ手に力をこめる。
君以外の不純物を体内に取りこまないために。
ラスサビがはじまる。
君の声の熱があがる。
スマホの充電、のこり3%(ぱー)。
あと少し、もう少しだけ、このまま君と!
メロウなアウトロ。
君の横顔がクローズアップする。
目をふちどって密生する睫毛、潔い鼻すじの稜線、薄い唇の奥は聖域。
そこからこぼれる、あえかなる吐息。
君がうむ無上の二酸化炭素。
ああ、好き!
何もかもが、命がけで好き!
君こそ、わたしのすべて!
わたしは瞬きもせずスマホに見入り、君によって生じる感情という感情を、味わい、啜(すす)りつくした。
やがて曲が終わり、君の姿がかき消え――
死が訪れた。
生気を捧げきったわたしの血は冷えきり、肉は硬くこわばり、心が、満ち足りて静止する。
欠けるところのない、完全な幸福。
そして、死後――
ゾンビと化したわたしが、生前の記憶を頼りに▶ボタンを求め、さまよいだす。
三角の形をした再生の魔術。ひとたび押せば、熱が、命が、よみがえる。
そのとき……
プツン!
暗転したスマホに、無防備な顔面が晒しだされた。
アッシュグレーのショートカット、尖った顎、血走った両目、濃いメイクでも隠しきれない隈――
わっ、と思わず声をあげ、わたしは充電切れで無力化した板を投げ捨てた。
あ、いや待ってやばい、スマホ壊れたら君に会えない!
コンマ1秒で我に返り、手を伸ばす。
けれどスマホは。
君とわたしをつなぐ、小さな窓は――
「あぶない!」
かん高い声とともに、桃色のネイルをほどこした指に捕縛されていた。
わたしは、盛大に顔をしかめた。
寿司詰めの机の向こう、教室のドアの前に、いつの間にかクラスメイトが立っていた。
わたしのスマホを両手でつつみ、彼女はほっとしたように微笑んだ。
真鶴(まなづる)さん。
クラスの一軍グループに所属する、好感度最強女子。
ほんのり栗色のロングヘア、推定カラコンの黒目がちな目、あえて着崩さない制服のシャツとブレザー。
スカートだけが巧妙な短さで、白い太ももをチラ見せている。
成績優秀加えて美少女、物腰は常時やわらかく、派手めのギャルにも体育会系バカ男子にも平等にフレンドリー。
絵に描いたような理想的JK。
一方わたしといえば、特定のグループに属さず、終日イヤフォンで耳を塞いで音楽を聴き漁り、気の合う同類数人としか交流がない。
背が低くてナメられがちなため、毎日フルメイクで防御を固める。
デフォルト装備は、制服のブレザーの中に君のライブツアーパーカー、プラス冬でも気合いでミニスカ。
年中ベリーショートの髪は毎月染め替える。
成績は下の下だけれど、就職組なので問題はなし。
つまり、人生ソロ活動のわたしにとって、学校社会のメインストリームにいる真鶴さんは、別世界の住人も同然だった。
この日この時までは。
「スマホ、割れなくてよかったね」
真鶴さんの細い指が、わたしのスマホをよしよしと撫でた。
え?
何してんの?
シンプルにありえない。
「さっさと返して」
低い声で言い、手を突き出す。
わたしの勢いに驚いたのか、真鶴さんの顔に緊張が走る。
引かれたかも、と思う。
それで構わない。
キャッチしてくれたことには感謝するけれど、真鶴さんの手の中のそれは、わたしを君へとつなぐ、神聖な祭具なのだ。
軽々しく触れられるのは、我慢しがたい。
「早く」
真鶴さんは焦った様子でうなずき、小走りに近づいてくる。
スカートが揺れ、細い太ももが見え隠れする。ちらつく生肌が目にうるさい。
「ごめんね……はい」
「どうも」
差し出されたスマホを素早くポケットに仕舞う。
バイト先のレコード屋に着いたら、速攻で充電する。
帰り道、君に会えないと行き倒れる。
「ねえ、あの」
真鶴さんはその場から動かずに、両手を握りしめ、わたしを見下ろした。
まさか、会話をつづける気?
「何」
いらだちが増し、わたしは真鶴さんを上目遣いでにらんだ。
なぜか、真鶴さんのまなざしが、ぐっと力を帯びた。
「鷺沼さんって、アイドルが好きなの?」
は?
こいつは何を言っている?
「アイドルじゃない」
「え?」
「わたしが好きなのは、Gくん。Gくんっていう存在そのもの」
そう、君。
誰にも似ていない、宇宙随一の君。
名前を口にしただけで胸に火がつき、現場(ライブ)で姿を見た日には魂が焼け焦げる。
貴い君をカテゴリーで語るなんて論外だ。
真鶴さんは、わたしに話を合わせて機嫌を取ろうという目算なんだろうけど、はっきりいって逆効果だ。
わたしへ向けられた浅薄な親切によって君が貶(おとし)められるなんて、あってはならない。
湧きあがってきた残酷な気持ちにまかせ、わたしは言った。
「興味ないくせに話かけようとしてこなくていいよ。うざいから」
真鶴さんが目をみはった。
泣くかも。
一瞬、胸がざわりとした。
誰からも愛されるスター選手をイビったと知られれば、わたしは即日ハブられ、学校は耐え難い試練の場と化すだろう。
でも、だから何?
スクールカーストなんて、君を前にすれば概念のゴミクズだ。
喜んで、わたしは君に殉死する。
怯む心を励まし、わたしは眉間の皺を深くした。
すると、奇妙なことに――真鶴さんの頬が薔薇色に染まり、満面の笑みが浮かんだ。
「間違ったこと言ってごめん。鷺沼さんが怒る気持ち、わかるよ」
わかる?
脳髄が、パンッと弾けた。
「ふざけんな」
わたしは真鶴さんの肩を、力まかせに押した。
「わっ」
真鶴さんがよろめき、尻もちをつく。
「あんた何様? まじでうざいんだけど」
勝手にわたしをわかるな。
わたしの想いを誰も理解するな。
顎をあげ、真鶴さんを見下ろす。真鶴さんはへたりこんだまま、目を剥いてわたしをあおぎ見ている。
「二度と話しかけんな」
わたしは革鞄をつかみ、真鶴さんの横を素通りしようとした。
「待って!」
突然叫んだかと思うと、真鶴さんが脚にしがみついてきた。
ぎょっとして立ちすくむ。
見かけによらず力が強く、縋(すが)られた太ももがどっと重くなる。
「放してよ!」
力まかせに脚を振りあげ、真鶴さんを引っぺがす。
真鶴さんはゴロンと横転し、けれどすぐに起き上がり、わたしの前に立ちはだかった。
「ごめん! 話しかけるつもりなかったんだけど、見てたら我慢できなくなって!」
直線的な視線が、わたしの眼(まなこ)に突き刺さる。
「好きなの」
「は?」
「鷺沼さんが、好きなの」
は?
ていうか……は?
「なんで……?」
度肝を抜かれ、うっかり尋ね返してしまった。
好きになられる理由が、ひとつも思い当たらない。
わたしと真鶴さんは、まじわらない別世界で生きてきたのだ。
「鷺沼さん、わたしのことなんて気に留めてなかったでしょ?」
「うん」
「今もわたしのこと、好きじゃないって思ってるでしょ?」
「うん」
「この先もわたしのこと、好きにならないでしょう?」
「うん」
「やっぱり! だから、好き!」
「は?」
なに言ってんの、こいつ……?
「わたしは、わたしのこと、絶対好きにならない人が好き!」
決然とした声が鼓膜を打ち、時間を止めた。
真鶴さんは全身を西陽に灼かれながら、わたしだけを見つめ、両目を爛々と燃やしている。
ああ、この色は、知っている。
晴れあがり、水たまりの表面に滲む油。
汚らしくて美しい、いびつな虹。
充電切れのスマホに映った、わたしの両目。
心がバグった恋の色。
つまり、真鶴さんは、本気でわたしを好きなのだ。
「……わけわかんない」
わたしは顔を背け、早足で教室を出ると廊下を駆け抜けた。
意味不明なクラスメイトにわずらわされるなんてごめんだ。
わたしの世界に、君以外がつけいる隙はないのだ。
「ばいばい! また明日!」
快活な声がして、階段前でつい足が止まる。
こわごわ振り返ると、真鶴さんが廊下の真ん中で、ぶんぶんと手を振っていた。
頬を上気させ、恍惚とした笑顔で。
心の底から、意味がわからない。
わたしは階段を一気に駆け下り、ゲタ箱から飛び出した。
校庭は、夕陽の洪水だった。
燃えているのは見かけだけで、砂地の冷たさが靴底から突き上げ、足の裏が痛みだす。
冬の風が切りつけ、ファンデで鎧(よろ)った肌の水分を奪っていく。
革鞄から赤いマフラーを引っ張り出し、急いで首に巻きつけた。
真鶴さんの目の残光が、まぶたから消えない。
視線が背中に貼りついている気がして、後ろを振り返る。
白塗りの校舎が、茜色にべっとり染まっていた。
真鶴さんが追いかけてくる様子はない。
それにしても、どうしてわたしを?
何を思って?
――ああ、邪魔。
君以外が引き起こす思考も感情も人生の邪魔!
息が苦しい。
君が足りない。
ポケットをまさぐりイヤフォンを探す。
ケースの中身がカラ。
あ、耳につけっぱなし。
ポケットからスマホをつかみだす。
触れても光らない。
あ、充電死んでた。
ああ、もう!
本当に、もう!
君の欠乏。
肺が痛くてたまらない。
世界を追い出して、君とふたりきりになりたい。
激しく祈りながら、わたしは赤く凍える地面を蹴りつけ、全力で駆けた。
翌朝、始業時間ギリギリに教室の前に着くと、わたしは君の歌声を一時停止した。
この箱の中に、真鶴さんがいる。
豊かな惑星に住むエイリアンが、わたしの小さな星を侵略しようとしている。
二度もどついたのがバレて、村八分になるか。
昨日と同じ謎のテンションで、つきまとわれるか。
どちらにせよ、はじまるのは受難の日々。
君への信仰を守るため、耐え忍ぶ覚悟は決めてきた。
わたしはイヤフォンを耳にはめたまま、震える手でドアを開け放った。
浮かれ騒ぐクラスメイトの輪の中に、真鶴さんはいた。
真っ向から、目が合った。
来るなら来い。
息を止め、両足を踏ん張る。
すると、真鶴さんは顔を背けてわたしを無視し、同類たちのざわめきに再び埋没した。
あれ……?
肩透かしをくらったわたしは、しばらくドアの前で棒立ちになっていた。
始業のチャイムで我に返り、のろのろと席につく。
昨日の告白は、夢?
そんなわけがない。
過剰な、あの目の輝き。
夕陽の強烈さと掛け合わさり、脳に焼きついている。
ますます、真鶴さんがわからない。
けれど――相手がこれまで通り振る舞うつもりなら、それに越したことはない。
君への供物であるわたしの時間を、削り取られずに済む。
よし、なかったことにしてしまおう。
一夜越しの緊張が、ゆるんと解けた。
爽快な気分になり、わたしはスマホの▶ボタンを押して、君に意識を浸した。
しかし、わたしの見通しは甘かった。
この日以降、君専用にカスタムした感受性のセンサーが、ノイズをキャッチするようになった。
あの、激しい視線――。
はっとして振り向いても、真鶴さんはわたしを見ていない。
けれど余韻が残っている。
わたしは感じ取る。
一秒前まで、真鶴さんがわたしを見ていたことを。
別の子としゃべっていても、真鶴さんの意識がわたしへ向けられていることを。
気のせいだと思おうとしても、駄目だった。
正面から見つめられるより、たちが悪い。
まなざしを感知するたび、わたしの意識は乱れ、真鶴さんに吸い寄せられていく。
真鶴さんという存在の解像度が、否応なしに向上していく。
いつも人の輪の中にいる真鶴さんは、周囲の人たちから、上辺だけでなく本当に好かれていることを、わたしは知った。
笑みを絶やさずどんな話題も傾聴し、絶好の間合いであいづちを打ち、話し手の口をなめらかにする。
話題の中心にはならないのに、場を盛り上げているのは常に、聞き役に徹する真鶴さんだ。
そんな真鶴さんを誰もが隣へ招きたがり、飽くことなく語りかける。
漏れ聞こえる会話を追ううちに、わたしはやがて、恐ろしい事実に気がついてしまった。
真鶴さんは、あいづちの種類が極端に偏っている。
「うんうん」「わかる」「それってこういうことだよね」「そっかそっか、わたしもだよ」――口にするすべてが、共感を示す言葉だ。
真鶴さんは「AでなくBだ」と主張する人を肯定する一方で「BでなくAだ」という人を肯定する。
さらには「AでもBでもなくCだ」と主張する人をも。
相手が誰であれ、欲しがる回答を正確に返し、意見に賛同し、感想に寄り添う。
その結果、真鶴さんは自分の意志というものが、見事に破綻していた。
周囲の誰もが、ありのままの自分を全肯定されることを、真鶴さんに期待する。
真鶴さんはひたむきに空気を読み、気遣いを行き渡らせ、望みを叶える。
無限にリクエストに応じてくれる存在を、みんなが重宝し、ありったけの好意を注ぎこむ。
真鶴さんは四六時中、他人の好意をがぶ飲みさせられ、笑顔のまま溺れていた。
真鶴さんが身を置く環境について理解した瞬間、背筋がぞっとした。
つらいなら逃げればいいとは、簡単に切り捨てられない。
十七年も人間をやっていれば、嫌でも思い知る。
学校、部活、バイト、趣味のつながり、家族。
何かしらのカテゴリーに属さなければ、人生という名の無理ゲーは詰む。
わたしも一度は腹をくくったものの、教室というせまい水槽でハブられるのは身の毛のよだつホラーだ。
校内ハイソサエティに属し、ぬるま湯を快適に泳いでいるように見えた真鶴さんが、呼吸困難に苛(さいな)まれていたなんて。
ゲームバランスの狂った、世界っていう代物(しろもの)は、下人(げにん)だろうが殿上人(てんじょうびと)だろうが、無作為抽出で地獄を味わわせる。
人は人の輪の中でしか棲息できないのに、自分のスペースを確保しつづける難易度は、生きるほどに右肩上がりだ。
なんて不条理な生態。
うまれつき絶望を内包した、不出来な生物。
無味乾燥な数Ⅱの授業の間じゅう、斜めうしろの席から、真鶴さんの視線がわたしの背中に刺さりつづけている。
愛らしく整えられた模範的JKフォルム、その内側にはびこる痛みが、ひりひりと伝播する。
真鶴さんの苦悶に感応し、わたしの呼吸は浅くなり、視界が暗くなっていく。
生き地獄が、固い椅子の足元に迫る。
たまらなくなってスマホに縋(すが)り、▶ボタンを強く押した。
画面に、君が降臨する。
目をひらいて、歌いだす。
四角い板から光が溢れだし、わたしを包みこむ。
気道が広がり、わたしは息を吹き返す。
君に心からの感謝を捧げ、涙ぐむ。
酸素では不完全だ。
わたしは君の吐くCO2を呼吸して生きながらえる、植物の一種なのだ。
わたしが命をつなぎとめた一方で、真鶴さんの視線はわたしの背中に突き刺さったまま、離れない。
――ああ、そうか。
不意にわたしは直感した。真鶴さんが、わたしを好きな理由を。
全肯定の無料販売を要求され、律儀に対応した結果、好意のゴミ処理場と化したやさしい女の子。
真鶴さんは、愛されることにくたびれはてている。
けれど役目を放棄すれば、教室の中に築いた自分のスペースが失効する。
群れから追放されて野垂れ死ぬか、好意のどぶ沼で窒息するか――追い詰められた真鶴さんが見出したのが、わたしだったのだ。
真鶴さんは喜んだに違いない。
感情のすべてを君に奉納するわたしなら、決して自分を愛さない。
他人の好意に埋もれ、体内に吹き溜まっている自分自身の感情を、愛を、無責任に投げつけられる。
真鶴さんは誰にも気づかれることなく、ひそやかに恋を処理してきたのだ。
けれど、あのピンクグレープフルーツ色の放課後。
わたしが君への信仰を剥き出しにする瞬間を偶然目撃し、真鶴さんの理性が、事故を起こ(クラッシュ)した。
真鶴さんはわたしを見つめはしても、見つめ返されることを望んではいなかった。
それなのに、壊れた自制心の傷口から、未加工の感情が、ほとばしった。
なんて迷惑な。
なんて痛々しい。
なんて、わたしと近しい。
やるせなさの波が、胸を覆っていき――
そしてわたしは、あきらめることにした。
真鶴さんの視線から逃れることを。
相手が見返りを求めていないのなら、無視すればいい。
想うも恋うも、勝手にすればいい。
退屈な授業はつづき、視線が刺さりっぱなしの背中はひりついた。
意識の端にノイズが走るのをそのままにして、わたしは君に、心を寄せた。
日に日に真鶴さんのまなざしは過激になっていき、パーカーの布地越しにわたしの肌を焼いた。
わたしは真鶴さんの想いを、心静かに放置した。
それはわたしから真鶴さんへの、ささやかな共感の表明だった。
けれど、密かな交感に、外野が気づいた。
「鷺沼って真鶴さんと仲いいわけ?」
階段の踊り場で、同じクラスの辻堂が喧嘩腰で問いかけてきた。
ひとまずほうきを壁に立て掛け、わたしは黙って相手の出方をうかがった。
「なんでかわかんねえけど、真鶴さん、鷺沼のこと気にかけてんじゃん」
探るように見下され、こめかみが熱くなってくる。
暖房のききすぎで、廊下の空気はよどんでいる。
辻堂は、真鶴さんの取り巻きのひとりだ。
一応「いけてる」枠の男子のひとりで、わたしはこれまで一度も話したことがない。
辻堂はスニーカーのつま先でわたしが集めた綿埃(わたぼこり)をいじくりながら、シリアスな声色でつづけた。
「ふたりが一緒にいるとこ見たことないんだけど、どういうつながり?」
そんなくだらない質問をするために、一刻も早く君に会うべく放課後の掃除当番に勤しむわたしを、邪魔しにきたのか。
そもそも、真鶴さんとわたしのつながりに、こいつは毛ほども関係ない。
「あんたの気のせいでしょ」
言い捨てて、ほうきに手を伸ばす。
すかさず、横から奪い取られた。
「気のせいじゃねえよ。俺、いっつも見てんだよ、真鶴さんのこと」
ほうきを握りしめ、辻堂が言った。
年中ウェイウェイしているバカ男子のひとりである辻堂の目が、熱で濁っている。
ああ、こいつもか。
恋をすると、心がバグる。
心がバグると、五感が冴える。
気づかないほうがいいことに、気づいてしまう。
「真鶴さん、最近様子が変なんだよ。鷺沼がなんかしたんじゃないのか」
鋭いものの、まったくの見当違いだ。
わたしは何もしていない。それどころか、何もしないように努めている。
「変な言いがかりやめてくれる? 掃除の邪魔だからどいて」
「ごまかすなよ」
辻堂はヒーローアニメの主人公じみた顔つきで、わたしをにらんだ。
わたしが真鶴さんに害をなしているんじゃないか、そうだとしたら取り除かなければと、使命感に燃えているらしい。
うざい。
あまりにもうざすぎる。
「からむ相手まちがってるよ。真鶴さんが好きなら、本人に言えば」
う、と辻堂が声を詰まらせた。
怯むのも当然だ。
こいつは到底、告白なんかできない。
わたしは真鶴さんの視線を放置しつづける一方で、真鶴さんと真鶴さんを取り巻く環境への理解を日増しに深めていた。
わたしの見立てでは少なくともクラスの中に六、七人、真鶴さんを好きな奴がいる。
真鶴さんはみんなに愛される女子であるがゆえに、奴らはお互いを牽制しあっている。
抜け駆けしようとする奴がいれば、よってたかって足を引っ張る。
好意の飽和状態にある真鶴さんは、誰のことも大好きそうで、同時に、どうでもよさそうだった。
「わかったら、どっか行って」
「お前……」
辻堂の声が低くなった。
見上げると、目が血走っている。
やばい、煽りすぎた。
胃の底がひやりとする。
心がバグっている奴は、もろいだけでなくキレやすいことを忘れていた。
身体的暴力をふるわれる恐れはない。
群れの中でうまく生きている奴は、ルールを破るリスクを冒さない。
その代わり、異物見つけると、徹底的に弾きだす。
ガチでハブられる。危機を察知した皮膚が、ぎゅっと縮んだ。
「辻堂くん!」
はっとして振り向くと、階段の下に真鶴さんが立っていた。
一連のやりとりを、隠れて聞いていたらしい。
「鷺沼さんに変なこと言わないで!」
「えっ、いや、俺は」
「わたしが勝手に、鷺沼さんを見てるだけだから」
「でも、あの、俺は」
「うん。大丈夫。ありがとう」
真鶴さんは笑顔を浮かべ、定型句で会話をぶった切った。
うろたえた辻堂が、階段の上から叫ぶ。
「ちがくて! 俺はただ、真鶴さんのことが!」
うわずる声。ぶしつけな熱。
真鶴さんの顔が、紙のように白(しら)む。
――あ。溺れ死ぬ。
とっさにわたしは下へと駆け降り、真鶴さんに手を伸ばした。
「行こ」
真鶴さんの黒目がちな瞳が、大きくなる。
答えを待たずに手首を引っつかみ、階段を駆け上がった。
「え? え?」
戸惑う辻堂の声が遠ざかり、今になって同情が芽生えた。
わたしたちはみんな、同じ穴のムジナだ。
こいしい神様に寄りすがる、厚かましくもいたいけな、愚か者の群れ。
階段を昇りきり、行き止まりの踊り場で走るのをやめた。
心臓が酸素を求めて暴れている。
わたしたちはしばらく無言で、息を吸い、吐いた。
屋上へ通じる鉄の扉は閉め切られ、はめ殺しの窓が夕陽を溢れさせている。
「ごめん……」
真鶴さんがふるえる声で言う。
わたしは応えず、目をそらす。
一緒に逃げてみたものの、わたしたちの間に、語るべき言葉はない。
わたしは真鶴さんの手を離し、昇ってきたばかりの階段を下りはじめた。
「ねえ」
足を止め、振り仰ぐ。
斜陽の波に呑まれかけながら、真鶴さんがわたしを見る。
わたしも、真鶴さんを見つめ返す。
「ずっと、わたしを嫌いでいてくれる?」
視線がまじりあう。永遠みたいな数秒。
「いいよ」
真鶴さんが、泣きそうな顔で笑う。
わたしも口の端を上げて、笑い返す。
今、嘘をついた。わたしはけっこう、この子を好きになっている。
気取られないよう笑みを打ち消し、背を向けた。
「ばいばい、また明日!」
真鶴さんの声に押され、階段を一気に駆け降りていく。
掃除はサボることにして、校舎の外へ飛び出す。
冬の風が切りつける。
西陽が目に痛い。
真鶴さんのまなざしの熱が、背中につながっているのを感じる。
わたしたちは、決して振り向かない神様を、胸の内側で抱きしめている。
神様のもとで深呼吸しては、息詰まる世界へ取って返し、もがきながら泳ぎつづける。
紙一重で、生き延びていく。
この信仰が、永遠じゃないことは知っている。
それで構わない。
のっぴきならないわたしたちには、今この瞬間、光がいる。
まぶしさに閉じようとするまぶたを無理に押しあげ、わたしは目をひらき、走りつづけた。