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うれしい夢路|感情をめぐる恋愛短編3

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看護師さんに「ご用意できた二人部屋なんですが、ちょっと訳ありで」と言われたときは、さすがのわたしも身構えた。


春が来た日曜日、一週間ぶりの快晴、スケートボードをしに公園へ出掛けたわたしはいつも以上にはしゃいでいた。
勢いづいてオーリーに挑んだら、ジャンプの着地に失敗して派手に大転倒、右手の激痛にギャッとなり、スケボー仲間のカナちゃんに付き添われて近所の大きい病院へ駆け込んだところ、診断結果右手首骨折全治二ヶ月。
やってしまった、アラサーにして人生初骨折。

診察室でおじいちゃんのお医者さんに「時間が経てば元通りになるよ。元気いっぱいの怪我だねえ」と言われ「うまいこと言いますね!」と爆笑していたら、カナちゃんに「笑いごとじゃない!」と怒られた。
怒ってくれるカナちゃんの優しさがこそばゆくて、にやにやしていたら、また怒られた。

処置室へ移動する前にニット帽をぬぐと、伸ばしっぱなしのわたしの長い髪を、カナちゃんがぱぱっと結んでくれた。
ダウンベストとサコッシュをカナちゃんに預け、治療スタート。
どんなオペが繰り広げられるんだろうとそわそわしたけど、わたし程度の骨折だと手術はいらないそうで、添え木をして包帯でぐるぐる巻き、三角巾で首からぶら下げて完了。
ちょっと拍子抜け。

先生によると、安静にしておけば骨芽細胞(こつがさいぼう)というやつが、折れた部分をあたらしい骨にうまれ変わらせてくれるらしい。
なんて素敵な骨芽細胞。
人体ってすごい。

治療はすぐに済んだけど、なにせ頭のてっぺんからゴンッとコンクリートに激突したので、念のため一晩入院して様子を見ましょうと言い渡された。

「でも先生、手以外は何ともないですよ」

「そうだと思うけど、まあ一応ね」

「えー」

「まあまあ」

お医者さんになだめられ、そういえば人生で入院というものをしたことがないし、何事も経験だと言うし、飲み会で話のネタにもなるし、と思い直して、大人しく一泊することにした。

カナちゃんはすごく心配して「手伝えることある? 面会時間終わるまで一緒にいるよ」と申し出てくれた。
三歳年下のカナちゃんは、親戚のお姉さんであるかのように面倒見がいい。

いい子だな、大好きだな、と、わたしはしみじみ思った。
とはいえ必要なものは病院の売店でそろうし、カナちゃんは明日仕事だし、同棲中の恋人がうちで待っているし、そもそもわたしがわたしをあんまり心配してないので、帰ってもらうことにした。

入院の手続きを済ませ、受け入れ準備が整うのを待つ間、カナちゃんをバス停まで見送った。

病院前のロータリーを、八分咲きの桜がぐるりと囲んでいる。
空に雲は見当たらず、太陽はぴかぴか、風はそよそよ、ベンチに座るおばあちゃんは毛糸の手提(てさ)げをだっこして、こっくりこっくり船をこいでいる。

世界は、春まっただなか。
調子に乗って転ばなかったら、もっと遊んでいられたのに。
それだけが残念。

「サチ、本当に大丈夫?」

「だいじょぶだいじょぶ」

わたしは笑って、パリッと白い三角巾を揺らしてみせた。

カナちゃんは、シリアスなムードでつづけた。

「ジョイハピのみんなには、わたしから容態を伝えておくね」

ジョイハピもとい『エンジョイ・ハッピー』は、わたしとカナちゃんが所属するスケボーサークルだ。
わたしは去年、新卒から十年勤めた広告会社をやめて、フリーのWEBディレクターになった。
ついでに何か新しい趣味も始めたいと思って社会人サークルを探したところ、SNSで『ジョイハピ』を見つけ、バカっぽくてご機嫌なサークル名が気に入り速攻で参加希望のDMを送った。
スケボーは未経験だったけど、運動神経は悪くないほうだし、スポーツはだいたい何でも好きなので、深く考えずに飛び込んだ。
ジョイハピのメンバーは、カナちゃんをはじめ、いい奴ばっかりで、すぐに仲良くなった。
スケボーは今や、サークルで三番目くらいにうまい自信がある。

それなのに。

誰かが転んですり傷をつくるのはいつものことだけど、まさか自分が骨折するなんて。

でもまあ、たいしたことがなくてラッキーだ。

顔をこわばらせたままでいるカナちゃんの肩を、わたしは左手で軽くたたいた。

「容態なんて大げさだよ。薬が効いてきたからもう痛くもないし。みんなに大丈夫だったって伝えといて」

「大丈夫じゃないよ、骨折は大怪我だよ! 三十越えると怪我って治りにくくなるっていうじゃん。甘く見て無茶したら、悪化したり、下手すれば手が動かなくなったりするかもよ。絶対、安静にしなきゃダメだよ?」

「はーい」

「ほんとについてなくていい? サチの実家、たしかすごく遠かったよね」

「ほんとにひとりで平気だよ。でも、何かあったら頼るね」

「うん、なんでも連絡してね」

カナちゃんはバスに乗り込んだあとも、窓におでこをくっつけて、不安げな顔で私を見つめていた。
わたしはカナちゃんを笑わせたくて、とっておきの変顔をしてみせた。
カナちゃんが仕方なさそうにちょっと笑ったタイミングで、バスは発車し、すぐ見えなくなった。

カナちゃんは本当に優しい。
これ以上何かしてもらわなくても、気にかけてくれるだけで十分心強い。

わたしは満ち足りた気分で、ベンチで眠りこけるおばあちゃんの隣に腰かけ、しばらくひなたぼっこをした。

ギプスで固定され、三角巾で首から吊るされた、わたしの右腕。
ロボットのパーツをくっつけたみたいに、自分の体じゃない気がする。
でも、もともとこういう、よそよそしい感じのものだったような気もする。

利き手が当分使えないのは困るけど、ほかはピンピンしているから、まあなんとかなるだろう。
仕事は、チャットの音声入力機能を使ってだいたい進められる。
自炊できない分、近所の安くて美味しいお店を開拓しよう。
食事をするときは、スプーンやフォークを使えば左手でもいけるはず。
そのほかの家事や体のケアも、左手でできる範囲でそこそこにやればいい。
要は慣れだ。

心ゆくまで日光浴をしてロビーに戻ると、看護師さんが小走りに近づいてきた。
診察のときにいた、二十歳過ぎくらいの女性だ。

「佐知川(さちかわ)さん、お部屋の準備ができました」

「ありがとうございます」

「ほかに重症患者さんがいらっしゃる関係で、用意できたお部屋が整形外科ではなくて……」

「どこでもいいですよ。一晩だし、わたし元気ですし」

「そうですか……では、こちらです」

看護師さんについてエレベーターに乗る。
降りたのは六階。
案内板には脳外科と書かれている。

脳外科。
その三文字が、わたしの頭を揺すった。
小さい頃から健康だけがとりえのわたしは、病気や怪我に詳しくない。
でも、脳外科。

目の前に並ぶ病室の中には恐らく、わたしみたいにへらへらしている場合じゃない患者さんが、何人もいる。
社会科見学くらいのノリでいた自分が恥ずかしくなった。

想像力の不足を反省しながら、わたしは看護師さんのあとをしずしずと歩いた。
リノリウムの長い廊下は、とても静かだ。

すると、半歩先を歩く看護師さんが、小声で言った。

「ご用意できた二人部屋なんですが、ちょっと訳ありで」

訳あり?

わたしは思わず身構えた。
よっぽど重症な患者さんと同室ってこと?
それとも、性格に難ありな患者さん?
もしかして幽霊がでるとか……?

黙り込むわたしに、看護師さんはつづけた。

「本当はこういうお話はしちゃいけない決まりなんですけど、前に、お伝えしていなかったらクレームになったことがあって。だから、内密に聞いていただけますか」

わたしは緊張気味に「ぜひお願いします」と答えた。
知らないよりは知っているほうが、心の準備ができる。

ひと気のない廊下を奥へ奥へと進みながら、わたしは看護師さんのひそひそ話に耳を傾けた。

「その部屋には長く入院されている患者さんがいまして。武藤さんという女性なんですが、少し変わったご病気なんです。数年間、ずっと眠りつづけていて……でも、植物状態というわけではないんです。検査したところ、夢を見ているだけということがわかっていて。深夜になると、数分ほど目覚めることもあるんです」

眠りつづけて、夜中に数分だけ起きる病気?
わたしが医療というジャンルにうといせいもあるだろうけど、まったくの初耳だ。

「それで、話はここからで……」

言いながら、看護師さんが突き当りの角を曲がった。廊下はまだまだつづいている。

「これまで同室になった患者さんがみんな、同じことを言ってたんですが……武藤さんと同じ部屋で寝ると、その人の夢に、武藤さんの見る夢が、うつっちゃうそうなんです」

「え?」

つい大きな声が出てしまい、看護師さんが慌てた様子で「しー!」と人差し指を立てた。

「ごめんなさい、ちょっと予想外で」

「たしかに嘘みたいな話ですし、わたしだって半信半疑です。でも同室になった方が全員同じことをおっしゃるので。事前に伝えずにおいてまたクレームになっても困るので」

看護師さんがムッとした顔で、早口に言った。
過去のクレームがよっぽどムカつく内容だったらしい。
とりあえず「うんうん、わかります」と頷いておく。

「どんな夢かはその時々らしいんですけど、夢がうつった人は、それが武藤さんの夢だと、はっきりわかるって言うんです」

「不思議なことがあるもんですね」

「ほんと、意味わかんないです」

看護師さんはとりつくろうのをやめて、ぷりぷり怒っている。
ちょっとかわいい。

「とにかく、そういうことが相次いで起きるので、ほかの患者さんを入れないようにしてたんですけど……今日は病床が、わりといっぱいで」

歯切れの悪い言い方に、だいたいの事情を察した。
恐らく、ほかにも空き部屋はなくもないけど、深刻な急患のためにとっておく必要があるんだろう。
一泊二日で去る上に、ほぼ健康体のわたしにあてがうのは、たしかにもったいない。

「お話はわかりました。その部屋で全然大丈夫です」

「本当ですか?」

「はい。わたし、霊感ないんで」

「霊じゃないです、武藤さんは」

「あ、そっか。でもまあ、どっちにしろ平気です。夢とかあんまり見ないタイプだし」

わたしは寝付きがよくて眠りも深い。
毎晩すこんと寝落ちて、意識を取り戻したときには朝になっている。
夢を見ていたとしても、起きた瞬間に忘れているんだと思う。

「だったら、本当に大丈夫そうですね」

看護師さんの表情がようやくゆるんだ。
気がかりを晴らせてよかった。
彼女の役に立てたことでわたしも、元気な身の上で入院する申し訳なさがちょっと減った。

やがて看護師さんは、廊下の最奥で立ち止まった。

「この部屋です」

せまい二人部屋は、窓だけが広々と大きかった。

レースのカーテンの向こうで、桜の木が揺れている。

そして、窓際のベッドに、おばあさんがちんまりと横たわっていた。

看護師さんはさっきの内緒話なんてなかったかのように、事務的に設備の説明をはじめた。
ちゃんと聞いとかなきゃと思うものの、わたしはこの部屋の住人を、何度も盗み見せずにはいられなかった。

眠りつづけているという患者さんは、見た目からして、八十は越えていると思う。
ベッドの柵に『武藤』と印字された名札が貼り付けられている。

小さな目はひっそりと閉ざされ、顔のまわりに綿が敷き詰められていると思ったら、ふわふわの白髪だった。
肌につやはないものの、しっとりうるおっているように見える。
点滴に繋がれた左腕は細く、生クリームを詰めてたたんだクレープみたいにやわらかそうだ。

「それじゃ、何かあったらナースステーションに声をかけてください」

「わかりました」

看護師さんがそそくさと出ていき、わたしはひとまず自分のベッド脇の丸椅子に腰かけた。
視線はどうしても、隣で眠る武藤さんに吸い寄せられていく。

昼下がりの日差しが窓からふり注ぎ、武藤さんをつつむ布団を蜂蜜色に染めている。
時間が止まってしまったみたいに、とても静かだ。

「売店でも行こっかな」

声に出して言って、わたしは財布とスマホを持って廊下へ出た。




一階の売店でおやつを物色していると、スマホが震えだした。
見ると、ジョイハピのみんなからメッセージが届いている。

『大丈夫? 必要なものがあったら届けるから言えよー』

『困ったことがあったら飛んでくからね! お大事に!!』

『できることがあったら言って。落ち着いたら電話ください』

受信音が連続でスポスポと鳴り、グループチャットはあたたかいメッセージで埋まっていく。
スマホを持ち慣れていない左手に、じーんとぬくもりが伝わってくる。

手助けを申し出てくれる人がたくさんいるのは、わたしの人徳のなせるわざ、というわけではなく、ジョイハピのみんなの徳が高いから、そして、わたしが独り身だからだろう。

大学以降、わたしはずっとひとり暮らしだ。
実家は飛行機で数時間の距離。近くに住む親戚はいない。
パートナーもいないし、いてほしいと思うこともない。
ひとりで暮らすのが性に合っているんだと思う。

スマホは鳴りつづけ、仕事関係の人たちからもお見舞いのメッセージが届き始めた。
ジョイハピつながりの得意先がいくつかあるので、メンバーの誰かが知らせてくれたんだろう。

『仕事は調整がきくので退院後に相談しましょう! 今は体第一で! 返信不要です』

『不安なことがあれば遠慮せずに言ってくださいね。治ったらまた飲み行きましょう〜!』

みんな優しいなあ、ありがたいなあ、わたしは恵まれているなあ――そう思う反面、だんだん、胸が重くなってきた。

わたし自身は今のところそんなに困っていなし、正直たいして不安もない。
気にかかることがあるとすれば、一晩入院することになった病室が、若干訳ありということくらいだ。

けれど多くの人にとっては、家族やパートナーのいない身で怪我を負うというのは、困ったり不安を感じたりするべき局面らしい。
「まあなんとかなるさ」というわたしの態度は、なんというか、人の道に外れているのかもしれない。

励ましてもらっているのに、気分がふさいできてしまった。
なんだかなあ。

まあ、考えてもしょうがない。
わたしはスマホをポケットにしまい、好きなお菓子をかたっぱしからカゴに放りこんでいった。



パジャマと歯ブラシ、洗顔や石鹸や化粧水の使い切りパック、そして大量のおやつを、ビニール袋に入るだけ買い込んで部屋に戻ると、お客さんがいた。

ベージュのポロシャツを着たおじいさんが、武藤さんのベッド脇の丸椅子に腰かけていた。背中を丸め、武藤さんの手を握っている。

ドアの前で棒立ちになっていると、おじいさんが顔を上げて、軽く会釈した。
わたしも慌てて頭を下げた。きっと、武藤さんの夫だろう。

とりあえず、ビニール袋の中身を棚にしまうことにする。
すると、ぱちん、ぱちん、という、かすかな音が聞こえてきた。
振り返って目を凝(こ)らすと、武藤さんの夫は、武藤さんの爪を切ってあげているところだった。

わたしの視線に気づいたのか、武藤さんの夫が手を止めて、こっちを見た。

「あ、えっと……こんにちは。武藤さんのだんなさんですか?」

「ええ。そちらは?」

「はじめまして、同室になる佐知川といいます。といっても検査入院で、いるのは一晩だけなんですけど」

「そうでしたか。短い間ですが、どうぞよろしくお願いします」

「こちらこそです」

「お菓子、お好きなんですか?」

棚いっぱいのおやつを見て、武藤さんの夫はにっこりと笑った。
わたしはちょっと照れて、えへへと笑い返した。

「よかったら、これもいかがでしょう」

武藤さんの夫は爪切りを置くと、サイドテーブルに置いてあったお菓子を手に取り、わたしに差し出した。
和紙っぽい包装の、高級そうな大ぶりのおせんべいだ。

「エビせんべいです。妻の好物で」

「ありがとうございます。わたしも好きです、エビ」

「それは結構ですね」

武藤さんの夫はうんうんとうなずき、丸椅子に座り直した。
わたしはベッドの上に座ると、エビせんべいの袋を口の端でくわえ、左手で引きちぎった。

「器用ですねえ」

感心するような口ぶりに、ばつが悪くなる。

「すみません、行儀がわるくて」

「いえいえ、元気で大変結構」

武藤さんの夫はそう言ったあと、あ、と声を漏らした。

「大人の女性に失礼を。子どもがおりませんで、若い方を見ると、つい」

「失礼なんて、全然です。っていってもわたし、若くもないんですけど」

「お若いですよ。元気ハツラツのピンピンだ」

骨折して三角巾をぶらさげているわたしに、武藤さんはそう太鼓判を押した。
さっきまでのイマイチな気分が、ふっと薄れた。

わたしは勢いづいて、てりのあるエビせんべいを、大口を開けてほおばった。
香ばしくて歯ごたえがあって、とてもおいしい。
食欲を刺激され、左手と口を駆使してポテトチップスの袋も破る。
その様子を、武藤さんの夫は笑顔で見守ってくれている。

わたしはこのおじいさんが、さっそく好きになった。
もっとおしゃべりをしたくなり、踏み込んだことを尋ねてみた。

「あの、奥さん、眠ってらっしゃるんですよね」

「ええ、もう何年になりますか。夜中には、少々目を覚ますこともあるようですが」

武藤さんの夫は妻の爪切りを再開しながら、ゆったりした口調でつづけた。

「わたし、夜勤の仕事をしてまして。ビルの警備の。裏口の受付で名前を書いたりするところ、ありますでしょう」

「はい、わかります」

「ですから、夜中の付き添いはなかなか。面会時間外ですし、病院のみなさんにあまり迷惑もかけられませんし」

「じゃあ、目を覚ましてる奥さんとは……」

「起きているのは、見ませんね。もう何年も」

「そうですか……」

ポテトチップスをつまむ左手が止まった。
いくらなんでも無神経だった。
空気を読めない自分が、こういうとき嫌になる。

武藤さんの夫は気にしたふうもなく、微笑んだまま爪切りにいそしんでいる。
眠る妻の点滴につながった方の手を握り直し、細い目をさらに細め、小指に爪切りをそっとあてた。
爪が薄いのか、音はしなかった。
両手を点検して深くうなずき、爪切りを棚にしまうと、今度は櫛を取り出した。

やわそうな白い髪を、丁寧にすいていく。

「伸びたなあ。そろそろ、切ろうなあ」

のんびりとした声が、静かな部屋に響いた。

武藤さんの夫のポロシャツは、襟がくたくたで、よく見ると袖口がほつれていた。
短く刈り込んだ白髪の隙間から、地肌が透けている。
顔にも手にも細かいしわが寄っていて、動作はひどく緩慢だ。

わたしは、心臓がぎりりと痛くなった。

髪を整え終えると、武藤さんの夫は棚の一番上の引き出しを開いて、小さな棒状のものをつまみあげた。
見覚えのあるロゴマークが、きらりと光る。
シャネルのリップだ。

目を瞬かせたわたしに、武藤さんの夫はいたずらっぽく微笑みかけ、リップをひねった。
カラーは、赤みがかったオレンジ。

「素敵な色でしょう」

「はい……」

「これを、ちょちょい、とね」

言いながら妻の唇に軽くリップを引き、指先でぼかす。
青ざめた唇が、みずみずしく色づいた。

満足そうに息をつくと、武藤さんの夫はリップをしまい、うーん、と伸びをしながら立ち上がった。

「では、わたしはそろそろ」

「あ……はい。おせんべい、ごちそうさまでした」

「いいえ、いいえ」

武藤さんの夫は、前屈みの姿勢で一歩一歩たしかめるように歩き、病室を出ていった。
部屋は、すっかり静まり返った。

食べかけのポテトチップスを棚にしまいながら、はっとした。
わたしは明日の朝退院するから、もうあの人に会うことはないんだ。

何か、言えばよかった。

でも、何を?

寝転んで、隣のベッドを見つめる。
武藤さんはすやすやと眠りつづけている。
その顔からはなんの感情も読み取れない。
オレンジの唇だけが、生気を放って鮮やかだ。
いったい、どんな夢を見てるんだろう。

武藤さんの夫と過ごした、ほんのわずかなひとときを思い返す。
おせんべいを差し出すおっとりした仕草。
気遣いに溢れた丁寧なケア。
部屋を出ていく、丸まった小さな背中。

眠る妻のそばを離れている間、あの人はひとりで、何を思って過ごすんだろう。
それは、どれほどの寂しさだろう。
どれほどの恋しさだろう。
もしくは、あきらめなんだろうか。

折れた右手が、じくじくと痛みだす。
薬が切れてきたらしい。
食欲は失せていたから、痛み止めを飲んで寝てしまうことにした。




そして、わたしは長い夢を見た。

それは他人の、隣で眠る武藤さんの、人生の記憶だった。
なぜか、はっきりとそうわかった。

次々に浮かぶ映像は、断片的でディテールがぼやけ、個々のエピソードの内容をうまくつかめない。
けれど、その時々の感情が、恐るべき鮮度で、雪崩(なだれ)のようにわたしの中へ流れこんだ。


* * *


黴臭(かびくさ)く暗い土間。
幼い私が、裸足でうずくまる。

私は虐(しいた)げられ、世界から爪弾(つまはじ)きにされていた。

鋭い汽笛と煙。
少女の私が、寿司詰めの列車で咳(せき)をこらえる。

私は自分が運ばれていく先を知らず、ひどく怯えていた。

洗濯桶の中の、しびれるほど冷たい水。
若い私が、赤ぎれの手を怯ませる。

私は不安で、くたびれはてていた。

切れかかって点滅を繰り返す蛍光灯。
節くれだった大きな拳が振り下ろされ、自分の歳を数えるのをやめた私が、畳に這いつくばる。

私は死にたいわけではなかったが、人生を早送りして、すぐにでも最期の日を迎えたいと願っていた。

私は、私が私のような人間であることが恥ずかしく、腹立たしく、哀しかった。

何もかもが、どうでもよくなっていた。
けれど、それでいいはずがないと、私の影ぼうしが足元で、叫びつづけていた。



* * *



わたしは、折り重なる感情のうねりに呑み込まれ、溺れかけた。

これは、壮絶にしんどい。
数十年分の記憶が煮詰まってうまれた灰汁(あく)を、一気飲みさせられているのだ。
同じ目にあった人が看護師さんにクレームをつけた気持ちが、痛いほどわかる。

もう勘弁して!
夢から意識を引き剥がしたくて、悲鳴をあげかけたとき――

霧が吹き払われたみたいに、急に映像がクリアになった。

しんと、心がしずまる。

そして、武藤さんの記憶の中のワンシーンが、鮮明によみがえった。



* * *



真夜中、やわらかく覆いかぶさる羽布団。
中年にさしかかった私が、半身を起こす。

布団が滑り落ち、裸の肩を夜気が撫でる。
ほてりが癒えて、気持ちがいい。
枕もとのランプが、檸檬(れもん)色の光を肌に投げかけてくる。

隣で、あなたが眠っている。
薄く固い肩をむきだしにし、仰向けで、いびきをかいている。

私はふたたび寝転んで、手を伸ばす。
さっきまで私を抱いていたあなたの腕に、そっと触れる。
かすかに汗で濡れている。
私より少し、体温が高い。
あたたかい。

これが、かつての人生を抛(なげう)ち、手に入れたもの。

私は私のことを、心の底でうっすらと嫌ってきた。
あなたに出会うまでは。

あなたとふたり、すべてを捨て、都会のにぎわいの中にまぎれ、あくせくと暮らし、寝床を共にし、変わっていった。

私はあなたの横顔を見つめながら、今が人生の最高の時だと、確信する。

この先も不幸は、繰り返し私を襲うだろう。

私はことあるごとに生きることに苦しみ、嘆き、悶えるだろう。

あなたを失うことさえ、ありうるだろう。

それでも、今この瞬間の私の幸福を、何者も壊すことは出来ない。

あなたでさえ、できない。

ひとつ布団の中、離れ離れのまま、手のひらでわずかに、あなたに触れている。

あなたの吐息が、涙を誘う。

生きて息をしていることが、ただただ、うれしい夜。

私は、私の人生が、いとおしい。



* * *



わたしは、ベッドの上で跳ね起きた。

病室は真っ暗で、枕元に据え付けられたデジタル時計を見ると夜中の二時だった。
薬なんてめったに飲まないから、効きすぎたらしい。

頬が少し濡れている。
これは、わたしの涙じゃない。
異様に濃い夢の、残り香みたいなもの。
右手で拭おうとしたら、お腹の上で三角巾が揺れた。
そうだった。
わたしはそこそこの大怪我をして、だからここにいるんだった。

そのとき、闇の中で何かがうごめいた。

何!?
左手で掛け布団をつかみ鼻先まで引っぱりあげたとき、隣のベッドが、ぽわんと明るくなった。
ランプが点いたのだ。

まぶしくて目を瞬かせたあと、わたしは息を呑んだ。

半身を起こした武藤さんが、うーん、と大きく伸びをしている。

まだ夢を見ているのかもしれない。

武藤さんは細い腕を伸ばすと、棚の引き出しから手鏡を取り出し、覗きこんだ。
髪を手早く整えると「あら」と軽やかな声を漏らして、口元に指を添えた。
ちょちょい、と染められた、明るいオレンジ色。
その唇から、笑みがこぼれる。

息もせずに見つめていたら、武藤さんがこっちへと振り向いた。

しっかり目が合って、心臓が跳ねる。

「あなた、ご存じかしら。これ、夫のしわざ?」

武藤さんは指先で唇を押さえ、わたしに微笑みかけた。

体じゅうに血がじゅわっと巡り、わたしは勢いよくうなずいた。

「そうです!」

「あら」

武藤さんの瞳が、輝きを増す。

「似合う?」

「とっても!」

「ふふ」

武藤さんはくすぐったそうに笑うと、手鏡をしまい、エビせんべいを一枚手に取って、ゆっくりと味わってから、ベッドに横たわった。
すぐに、寝息が聞こえはじめた。

わたしもつられて横になる。
眠気がさっと戻ってくる。

頭がぼーっとする。
でも、何かとてもうつくしいものを見た、それだけはわかる。

今度はもう、夢は見なかった。



翌朝。
武藤さんがまた目を覚ますことはなく、武藤さんの夫にも会えないまま、元気ハツラツでピンピンのわたしは、早々に退院することになった。

ロビーで会計を済ませたところで、昨日の看護師さんが声をかけてきた。

「例の件、大丈夫でした?」

どうやら心配してくれていたらしい。
わたしは笑顔で答えた。

「大丈夫ではなかったですけど、よかったです」

「え?」

看護師さんが怪訝そうな顔をする。
うまく説明できそうになかったので、わたしは笑ってごまかし、お礼を伝えて病院を出た。

バス停のベンチには誰もいなかった。
今日もよく晴れている。
わたしはニット帽をぬいでサコッシュに突っ込み、思いきり伸びをした。

いい風が吹いて、桜の木立を大きく揺らす。

花は、あっという間に満開になるだろう。
そして、すぐに散ってしまうだろう。
それでも、来年も再来年も、咲きつづけていくだろう。

ポケットが振動し、わたしは半日ぶりにスマホの存在を思い出した。
ほったらかしにしていたから、未読のメッセージが溜まっている。
どれもが、怪我をしたわたしを案じるお見舞いの言葉だ。

目を通しても、昨日みたいにへこまずにすんだ。

心配してくれる人の気持ちは、わたしのものじゃなく、その人だけものだ。
そして、ひとりでも平気だな、と感じるわたしの気持ちも、わたしだけのものだ。

想いは、他人が侵すことのできない胸の内側で花開いて、しぼんで、また咲くことを繰り返す。
誰かが外側からねじ曲げることはできない。

それでも、人の間を行き交ううちに重なって、まじわって、新しい想いがまた、うまれていく。

エンジン音が響いて、わたしの乗るバスが近づいてくる。

そのとき、スマホに電話がかかってきた。
左手だとまだうまく扱えなくて、相手を確認する前に通話ボタンを押してしまった。

「サチ、退院した? 迎えに行かなくて平気?」

カナちゃんの声。
駅のアナウンスも聞こえる。
出勤途中らしい。

「ほんとに平気だよ。心配してくれてありがとう」

ありきたりな言葉に、心をこめる。

バスが停まって、ドアが開く。

「あとでまたかけ直すね。カナちゃん、大好きだよ!」

溢れてくる気持ちを声に乗せると、わたしは一気に、タラップを駆けあがった。








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