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【vol.7-3.2023年度号】平和と、闘いと、サッカーのこと

2023年も、8月に入っている。
女子サッカー界では、女子ワールドカップが目下、開催中で、
昨日、なでしこジャパンは決勝トーナメント第1回戦で、
強敵ノルウェーを破り、ベスト8に進出、躍進を続けている。

日本サッカー協会は、ワールドカップ前に、
「なでしこジャパンのパーパス(存在意義)」を発表した。

要約すると、「最高の自分であれ」
ということである。
詳細はリンクに飛んで行って、読んで頂きたい。

ところで、耳すまは、
2023年7月10日(月)~7月17日(月)の8日間、
夢フィールドで開催された、
JFA主催のC級コーチ養成講習会女性コース
を受講してきた。

JFA主催C級コーチ養成講習会女性コース@夢フィールド

そこで、座学や実践を通じて、
サッカーやコーチング等について、様々に学ぶ機会を得たが、
そのひとつとして
サッカーの本質は、「闘うこと」
というメッセージが印象に残っている。

8月といえば、戦争についての話題が多い季節である。
現代社会では、様々な形で
「戦争をしてはいけない」「平和は大切である」
というメッセージを伝えている。

「We Love 女子サッカーマガジン(女子サカマガ)」さんも
8月に入ったタイミングで、女子サッカーの聖地・味の素フィールド西が丘に遺る戦争の痕跡に着目した記事を発信している。

サッカーファンにはあまり知られていませんが、かつて、味の素フィールド西が丘のある場所には大日本帝国陸軍の施設がありました。その名を東京陸軍兵器補給廠(とうきょうりくぐんへいきほきゅうしょう)といいます。戦後は米軍に接収されTOD 第1地区と呼ばれ、米軍の戦車練習場になりました。

女子サカマガ2023.08.01記事より抜粋

とのこと。昔は戦争の準備をする場所だった西が丘一帯が、現在では、アスリートを育てる場所に変わった、だが、戦争の痕跡はよく見ると街のいたるところに遺っている、というお話。

 私たちは、物理的な闘いの痕跡が今も遺っているということから過去に起こったことを想像することが大切であると同時に、今の私たち自身に、心理的に戦争の痕跡が残っているということについて考えてみることも大切なことではないだろうか。「戦後」とよく言うけど、本当にいわゆる先の大戦が終わった後の、昭和・平成・令和にかけて、日本社会って「平和」だったのだろうか。

 耳すまは1984年8月1日に生まれ、昭和・平成・令和と生きてきていて、人生39年目になります。39歳ということで、サンキュー(感謝)の年としたいところですが、耳すまは、長い期間、「感謝」という感情に対して非常に後ろめたさや抵抗感を感じて生きてきました。身近にいる親であるとか、学校の先生とか、あまり大人が言っていることが信じられなかったり、学校社会や学校生活のシステムに対して「なんで?」「おかしくない?」などと内心思う、生意気な子どもでした。

 転校の多い人生を送ってきましたが、中学2年生の時に、クラスに気楽に話せる友達がいないという状況に陥り、それはもう地獄みたいな心境でした。わかりやすく暴力や暴言を吐かれているわけではなく、クラスのすべての人がよそよそしく距離を置いていて、簡単に言ってしまえば、「シカト(無視)」によって四面楚歌みたいな雰囲気で、死にたい、とは思わないけど、自分という存在がいないことになりたいな、ということを四六時中思って過ごすような中学生時代でした。中学生時代に、学校生活とは別に、社会人女子サッカーチームに所属していて、本当に、サッカーだけが私の生きがいだったように思います。あと、転校が多く、故郷も無く、心の拠り所が欲しかったので、中学生の時くらいから気まぐれだけど結構頻繁に日記を書いていました。サッカーをやっていたこと、日記をよく書いていたこと、それって、なんだか今の耳すまに結局つながってきているような気もします。
 何かを書くとか文章を書くってことは、あまりにも順調で平穏に暮らしている人にはかえって難しいことかもしれないです。日常生活の中で、おかしいな、とか変だな、とか、苦しいな、とか、でも、時々、めちゃくちゃ嬉しいな、とか、楽しいな、とかそういう起伏があるからこそ、何かを書きたくなるのかもしれないです。書くことなんて無いって言う人が結構いるので、こうして時々無性に文章を書きたくなる私は、あえて何かを書きだしておきたいほど、放ってほけば埋もれてしまうけど、絶対埋もれさせちゃいけない何かや瞬間を感じ取っている人間なんじゃないかって思ってます。

 それで、思い出したんですが、私、小学生の時から薄々好きでしたけど、中学生時代で一番好きだった科目が「社会」だったんですよね。特に歴史。歴史には戦争の話、暗い話がいっぱい出てくるじゃないですか。それって私にとってはかえってホッとしたんですよね。地獄みたいな心境の学校生活を生きている私にとっては、全く違う世界にいるかのような、キラキラした明るい身近な同級生よりも、戦争の暗くて残酷な話のほうが、よっぽど親近感を覚えたんですよね。

 自分にとってリアリティが全く感じられ無い明るさより、リアリティやシンパシーが感じられる暗さや残酷さの方が、本心を癒すことがあるっていう原体験となった学校生活でした。

 高校では、当時、県内で数少ない女子サッカー部のある高校にサッカーをするために入学しますが、「ザ・体育会系」の人間関係に全く馴染めず、中学2年生の時以来の地獄がまたやってきます。とにかく、最初の1年間は、誰からも自分という存在を肯定されていないような感じがして、部活の物とかもしょっちゅう失くしたりしては、先輩に呼び出されて叱られたり、それで、ちゃんとしなきゃと思うけどやっぱり失くしたり、心が全くサッカーになく、毎日物を失くさないだろうか、と怯えるような日々を送っていました。ただ、中学生時代と違うのは、中学2年生の時は、本当に徹頭徹尾シカトの洗礼を受け続けるだけだったけど、やっぱり、なんだかんだいってもサッカー部に入っている以上、サッカーをするわけで、11人のうちの1人としてプレーするわけで、結局どうしたってひとと関わり合わないと成り立たないわけで、だから同じ地獄でも100パーセント無視(シカト)の世界の中学校生活よりは、多少自分の存在が感じられる高校時代の方が、結局、多分マシだったんでしょうね。

 あとは、私がものすごく苦手なのが、学校のクラス集団の「みんなで仲良くしましょう」みたいな空気感。誰かと仲良くしていたり、友だちがいたりしないと、その場にいることが不自然に思われる、みたいな学校の空気感。あれが本当に苦手で。その点、サッカーは、ベースが「闘う」なので。チームメイトも、闘うための関係性っていうのが、かえって居心地よかったです。お互いのことが好きとか嫌いとか、そんなことを意識する必要がなく、ただ、チームが勝つために、どうしたら自分の個性や、他人の個性を生かして、組み合わせて、力を発揮していけるか、ってことをシンプルに考えればいいっていうサッカーというスポーツの特質は、かえって心理的に救いでした。

 ここまで書いてきて、平和って仲良くすることというイメージがあるけど、それも、もしかしたら、人それぞれかもなーと思いました。
 「みんなで仲良くしましょう(=みんなで同じことをしましょう、になりがち、同調圧力を生み出しがち)」という空気が苦手な人間もいる。
 「残酷さ」「暗さ」「闘い」を通じて、かえって、心の平穏が保たれる人間もいる。人間の残酷さや暗さや闘うといった要素にかえって心が癒されるのは、人間の本能なのかもしれないし、過去の戦争の心理的な残遺なのかもしれないです。

 もっというと、学校生活の集団行動や同調圧力的な要素とか、部活動の体育会系文化とかも、戦争時の軍隊の組織運営の残遺なのかもしれない。

 私たちは、全く、戦後を生きている、わけではない、という自覚こそが必要じゃないかな、と思ってます。今の時代も、無意識の中に、戦争があった時代に醸成された意識とかシステムとか、しっかり組み込まれて生きているということに、せめて、自覚的になるということが、この戦争の話題の多い8月にできることなのかな、と耳すまは思ってます。

 「戦争をしてはいけない」「平和が大切」
というメッセージ、それを念仏のように唱えて続けても、多分永遠に状況は変わらないんじゃないか、と。

 むしろ、人間はなぜ闘いたがるのか?

ということに、しっかりと向き合って、

 なんでもかんでも闘いを否定するのではなくて、闘うことの良い側面も考えて、戦争をしてはいけない、ではなく、

 「素晴らしい闘い」

 というものは存在しえるのか?
という形に発展させていくことにこそ希望があるのではないか?
ということも思うのです。

 そして、そのことを考える種が、サッカーというスポーツの中にあるような気もします。

そして、平和に関しても。

「平和=みんなと仲良くすること」

なのか?、という問いかけだってあっていいような気がしています。
仲良くするって、一体なんなのか。

物理的・時間的・心理的に
常に一緒にいることなのか。
なんでもシェアしあうことなのか。

いやいや、人間同士、
同じところもあれば、違うところもある。
だからといっていいとか悪いとか無い。

違いは違いのままに認め合うこと、
必要に応じてコミュニケーションをとれること
必要に応じて距離をとれる自由があること

むしろ、平和の構築って
仲が良い人同士で仲良くすることより、
仲良くない人とも、それなりに最低限のリスペクトある関係性をつくれること

ということの方が重要な気がする
と耳すまは思ってます。

好き・嫌いで人間関係をラベリングするから、
戦争が起こるのではないか?

嫌い、とか、無関心、な人間とも
それなりに節度ある関係性をつくる、
そういう基本があることって、案外大事じゃないか?

現代社会は、分断社会と言われています。
誰も彼も、
好き嫌いや主義主張や支持政党などで
お互いがお互いをラベリングしあい
一度貼り付けたラベルを剝がすことなく
人間関係を硬直させて殺伐とした空気を醸し出しているように見えます。

そもそも、そんなに、人間、一個人って
そこまで偉いのか?

誰かを無視したり、
誰かをラベリングしたり、
誰かを支配したり、

そんなことをやってもいいほど、
一個人ってそんなに偉いのかよ、と。

「自分」という言葉があるから、
まるで独立した存在として自分が生きているかのように錯覚しているけど、
たまたま、ある一定期間、
人生という借り物の命の中に乗っけてもらって生きてるだけで、
誰も彼も、独立しながら、どこかで繋がって、
大きないのちの中でホントはみんなで生きているんじゃないかなと

大きく見たら、
われら、
みんな共同体

そんな中にあって、
それでも闘おうとするぼくら。

「闘い」はなんのためにあるのか?

存在を殺すために
滅亡するためにあるのか?

多分違う。。。

冒頭のなでしこジャパンのパーパスにそのヒントがあるのかも。
「最高の自分であれ」

つまり存在のもつ可能性を
最大限に引き出すために、

「闘い」

は存在しているんじゃないかと。

みんなで共調して、同調して、
では引き出すことができない、

真っ向勝負の世界があるからこそ、
その緊張感があるからこそ、

初めて
引き出される
本気の、存在の、可能性、

というものがあるんじゃないか。

サッカーは闘いもある。
と同時に、
協力しあう要素もある。

違う個性を生かし合うことができればできるほど、
相手は何をしてくるか分からないと思うようになり、
サッカーの上では強いということになったりもします

多様性を生かす

それが武器なんだ。

それは現在、開催中の女子ワールドカップのなでしこジャパンの躍進を観ていても思います。
誰か目立ったひとりが主役となっているチームではない。
いろんな個性がしっかり発揮されてチームになっている。

なでしこジャパンのサッカーから、学べることは、
きっと、絶対、沢山あると思います。
それはサッカーという次元を超えて。

闘うってどういうことなのか、
協力し合うってどういうことなのか、
多様性を生かすってどういうことなのか、

そういうことを具体的に実践している彼女たちから
インスパイア―を受けて、

私たちひとりひとりが、
サッカーの場面、
サッカーじゃない場面、
人生、闘い、協力、多様性、平和、
を含む社会の中に生かす一歩につなげていかないともったいない。

女子サッカーが、女子サッカーの範疇を超える。
そうなったときに、文化がいよいよ育っていくことにつながっていくのではないか、と耳すまは思っています。











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